“俺”の前世
目が覚めたとたん、頭がくらくらした。
眉を寄せながら目を開くと、ずいぶんと近い天井が目に入った。
ここは……。
どこだったかしら……?
確か、“あたし”は……。
記憶を探りながら身体を起こそうとしたら、地面が柔らかくてうまく起き上がれなかった。
「今、医師をお呼び致しました。まだ安静にしていてください」
女性の声が聞こえ、あたしは医師が来るのならと、柔らかな地面、もとい、ベッドに身体を沈めた。
ここは、そうよ、ベッド。
天蓋付きのベッド。
前に見えるのは低い天井ではなく、ベッドの天蓋。
でも、“あたし”のベッドではないわ。
このベッドは……。
「んん」
喋ろうとしたら、声が枯れていて出なかった。
「どうされました? お水を飲まれますか?」
さっきと同じ声の主が、大きな瞳の可愛らしい顔をあたしの前ににゅっと出す。
我が屋敷に雇われるようになって三年目のメイド、マリアンネだ。
あたしは頷いて、飲みたいという意思を示した。
「承知致しました」
顔が引っ込んだかと思うと、マリアンネはまたすぐに顔を出す。
「失礼致します」
口に細い何かが差し込まれた。そこから、温い液体が出てくる。
湯冷ましかしら?
口の中に染み込むように、湯冷ましがじわりと広がる。喉を通りすぎた時は、喉が少し痛く感じた。
口から細い何かが外される。
「もっとお飲みになられますか?」
あたしはゆっくりと首を横に振って、拒否を示した。
「あり、がとう」
かすれる喉で、あたしはなんとかお礼を絞り出した。
「まあ、お珍しい。ふふふ」
マリアンネは微笑んで顔を引っ込めた。
珍しい。
そっか。
今の“あたし”はお礼なんて普通に言っていたけれど、前は違っていたわ。
まだ頭が働いていないみたいね。
「なかなか目を覚まされないので、心配致しました。丸二日間、寝込まれていたのですよ」
丸二日間。
あたしにはそれ以上に感じていた。
なんせ二十年以上もの人生を、その二日間で思い出したのだから。
あたしには前世があった。
前世での名前は小田川真。
出勤中の電車が事故を起こし、死んでしまった。
あたしにとってはそれがついさっきの出来事で、思い出すと手が勝手に震える。
大丈夫。
あれは前世の出来事。
もう終わったの。
「ジークベルト様、まだお熱が?」
マリアンネがあたしの額に手を当てる。
あたしの震える手を見て、まだ体調が悪いと勘違いしたのね。
あたしは微かに笑って、大丈夫だと主張しておいた。
マリアンネが言った名前、ジークベルト。
それが今の“あたし”。いえ、今の“俺”の名前だった。
男に転生するなんて……。
女の子が良かったわ。
あたしは心の中だけでため息を吐く。
ジークベルト・ボルネフェルド。
貴族の家に生まれ、兄弟は誰もおらず一人っ子。
今は……、十五歳だったかしら?
前世の記憶が増えたせいで、ジークベルトとしての記憶があやふやになっているわ。
でも、過去はあやふやだけれど、未来ははっきりとわかる。
あたしはこれから婚約者を奪われ、婚約者を賭けた決闘にも負け、さらには戦争で大敗北をして死ぬ。
その婚約者は同じく貴族のリーゼロッテ・アルムボルト。
天真爛漫の可愛い少女で、おしとやかさにかけるところはあるものの、その明るい笑顔で他を魅力する。
この世界の正ヒロイン。
その婚約者を奪う決闘者の名前はクラウス・エルトル。
この世界の主人公にして人間。
そして“俺”は婚約者を酷い目に合わせ、魔族を滅ぼそうとするジークベルト・ボルネフェルド。
この世界の悪役にして悪魔族。
この世界は前世のあたしが死ぬ直前まで読んでいた、主人公と悪魔族のヒロインが魔族の存亡をかけて戦うライトノベル『双頭世界の竜槍者』の世界そのままだった。
ただでさえ男に転生していてがっかりしているのに、それがまさかの悪役貴族だったなんて、神様はなんて酷い仕打ちをするのかしら……。
いえ、この場合は大魔王かしら。
って、そんなことはどうでもいいわ。
このままいけばあたしは死ぬ。
現在、悪魔族は二つの派閥に別れている。
血統を尊ぶ貴族派。
悪魔に様々な血筋を入れた混血の魔族と手を取り合おうとする穏健派。
これからあたしは貴族派に入ることになるのだけど、派閥間で戦争になり、穏健派に属する主人公と戦って殺される運命にある。
「死ぬなんて……ごめんだわ……」
思わず呟いてしまったのだけれど、これがいけなかった。
「ジークベルト様……?……だわ? 今、ごめんだわ、と仰いました?」
マリアンネがすぐさま額に手を当てる。
「女言葉を使われるなんて……やはりまだ熱が……?」
マリアンネが心配そうな顔であたしの瞳を覗き込む。そして、部屋の扉の外へと叫んだ。
「医師は! 医師はまだですか!」
しまったわ……!
ジークベルトは貴族の長男よ。
いきなりこんなしゃべり方をしたら、心配されて当然じゃない。
「ジークベルト様。今、医師を連れて来ます」
マリアンネがバタバタと部屋を出ていった。
それからあたしは、医師による長い長い診察を受けることとなった。
そして、医師による診察を受けた結果、身体には異常がないと診断された。
けれど、染み付いた女言葉が簡単に直るわけもなく、うっかり使うたびに両親や使用人たちに心配され、前世の記憶を取り戻してから数日後、ついに熱で頭がおかしくなったと判定された。
あたしはその日から女言葉を気にせず使うようになった。
頭がおかしく思われるなんて些細なこと。
あたしはこれから死なないために、全力で死亡フラグをへし折らなきゃならないんだから!
そして、死亡フラグをへし折るべく散々考えた結果、一つの答えに行き着いた。