3.慌てる乞食はなんとやら
結局キスしかしていませんとか、冗談じゃない。
虎視眈々(こしたんたん)と……なんてほどの計画性はなかったけれど、必死にチャンスを待ち望み、まんまと寝室に連れ込んだはずが……なんにもできませんでしたなんて、間抜けにもほどがある。ふしだらだという噂が流れたところで、事実が伴わなければこの世界からはじき出されてしまう。王族との婚約だって、あやふやな噂程度ではもみ消されてしまいかねない。この事実をどこまでごまかし通せるものか……ごまかし通すことが出来れば、チャンスもおのずとやってくるだろうが……。
やっとこやる気になったところで魔王という言葉に怖気づき、立つものも立ちませんでしたとかいう状態……いや、ごめんなさい、さすがに下品過ぎだね。私を押しつぶしていた彼は、魔王という言葉に盛大に反応し、ガバッという音がしそうなほどにいきなり起き上がった。そうして、私を文字通り寝室から引き摺り出したところで、慌てて抱っこに切り替えられたけれど……床で擦った足がマジで痛い。
結界か何かを張っておくべきだったのだろう……人払いの魔法とか、人を動けなくする罠とか、そういう便利なヤツを覚えておくべきだったんだ。ただ歌うことばかり、要求されたことをこなすばかりの怠惰な自分が、今更ながらに悔やまれる。
そうでなくとも……魔王が来ようと世界が滅びようと、私の命令だけ忠実に聞く手下とか、そういうものを手に入れておくべきだった。心から信頼できる相手が彼だけだったなんて、人使いが下手にもほどがあるというもの。いやまぁ、そもそもそんな忠義なヤツはそうそういないだろうけど……。
「……おや、まだでしたかな、それはよかった」
お姫様抱っこならぬ、左腕の上にちょこんと座らせられているという、子どもの抱っこ状態で連れてこられたのは、この神殿の長である神官様の執務室。
入った途端に向けられたその言葉は、あんまりにもだと思う前に、なんでばれた! ってか、なんで分かった! 何が見えてる! 思わず恐々としてしまう。いや、もしかしたら違うことを言っているのかもしれないとも思うが、その面に浮かべられたニヤニヤ笑いは、明らかに私と彼の間にコトが結ばれていないことを察したと示唆している。
召集されたか噂を聞きつけ不安になって訪れたか、入り口は人があふれて閉じることも出来ぬ状態。その誰もが、ホッと胸を撫で下ろしている様で、思わず腹が立ってくる。つい先ほどまで、私の姿に敬意を示してと言っていいのか、平伏というか土下座というか地面にへばりついていた連中が、山となってこちらをのぞき見ている。この状態では、ふしだらという噂すら立ちはしないだろう。
なんとも失礼な話をしょっぱなに持ち出しやがったこのご老齢の新官長は、つい先ほど……というか、寝室に入る直前まで、還俗の儀式とやらで顔を突き合わせていたヤツだ。胸糞悪いことに、私がギリギリと睨みつけようと、好々爺然とした笑みを浮かべてこちらを見ている。それが気に食わなかったというよりも、せめて行為まで及ばなかったことぐらいはごまかそうとしていた私の策を、ものの見事にくしゃっと潰した憎らしさから、床に下ろされたと同時に駆け寄り、その法衣の胸倉をひっつかんだ。
「ほっほっほっ、お元気そうでようございました。ですが、今はやんちゃを収めて、どうか、話をお聞きいただけませんかな?」
「何よ、今度は、私に何をさせようっていうのよ」
ぶんぶんと揺さぶったところで、周りに控えた神官や兵士たちは止めやしない。私は万が一にも、触れてはならない尊い存在だから、近寄りすらしない。むしろ、両手を後ろに組み、絶対手を出しませんよの構えすら見せる。
そして、この神官長もまた、私の手を払うことも、押しのけることもできやしない。少しでもその気があれば、ご老体とはいえ矍鑠としたこの男が、こうも容易く胸倉つかまれたままにしているわけがない。大体、私より頭一つ分高い上、おそらく還暦などとうに越えていそうな顔つきのくせ、がっちりとした肉体……おかしいのだこの男は。もっと、老体というのはひょろひょろとして今にも折れそうなものではないのか、魔法やら法力やらで、なにかドーピングまがいのことができているのではないかと思うほど。
そんな男が、私の揺さぶりにがくがくと揺さぶられるにまかせているのがまた、おかしいのだ。侮られ、こんなことは痛くも痒くもないものだからと、されるに任せているとしか思えない。それがまた、ムカムカするのだからしょうがない。
「二日ぶりですなぁ、あなたの、その、人を殺しそうな眼は」
「貧民区や戦場にいきなり放り出されりゃ、普通、誰だってこんな目になるわよ」
「いやいや、本当に美しいその瞳を手に入れるため、愚策を練ったかいがあるというもの」
なんとも楽しそうに言うその顔が、憎らしくてしょうがない。拳をぶち込んでやりたいところだが、私のパンチ如きでは、何のダメージにもならないだろう。むしろ、私の手が痛い思いをするだけと思えば、殴りつけることも出来やしない。
「殺してやる!」
何度目になるのか分からない怒声は、だが、どこ吹く風といった様子で流されてしまった。
そりゃ、私の顔ときたら、のほほんとし過ぎていたのだろう、奇跡を行うということにワクテクし過ぎていたのだろう。だからといって、その奇跡が人に直接力を与えるものではないことを知らしめるため、戦場のけが人保護施設の中に1人で放置したり、貧民区に放り出したりしていいとは思えない。私に無力さをかみ締めさせるため、わざと誘拐を見逃したり、暗殺者を目の前で殺害されたりといったことも両手に余るほど。一時、人死になど日常のことなのだと勘違いするほどに、私は血にまみれていた。
普通、もう少し大事にするでしょうし、もう少しソフトな教え方ってものがあるでしょうに。手ひどい策を弄する相手に、殺してやりたいと思うのは何度目か。でも、目の前のご老体は、私が実行できない甘ちゃんであることを重々承知で、胸倉つかませニコニコ笑っている。
「くぅっ……せめて半殺し……四肢を切り落として外壁から吊るすのと、全部の爪をひっぺがすの、どっちがいい」
「できますかな?」
「できねぇよ! くそったれ」
本気で殺してやりたいし、めちゃくちゃに痛めつけてやりたい。私にもう少し度胸があって、この世界を憎く思っていたのなら、実行できたのかもしれない。ないもの強請りをしてもしょうがないが、所詮、目の前でどれだけ血が流れるのを見ようとも、甘ちゃんな私には、自らの手でそれをなすことは出来ない。この憎らしい男ですら、目の前で傷ついていれば、むしろ手厚く看護をせざるを得ない。
この男が居なければ……この男しか、この私、というか異世界からの巫女を扱う方法やら注意事項やらを熟知している者はいないというのだから、私がこの世界に居座る事態において、重要な人物であることは否めない。だから、どれだけぶっ殺してやりたく思っても、そうできやしないのが実情である。
「さてさて、邪気払いが済みましたら、まずはお顔を洗っていただけますかな」
私が、どんなに汚い言葉を吐こうとも、食事も無駄話も抑止するこいつらが一切止めないのは、これが邪気払いになっているのからだとかいう。私の中に溜まりに溜まった毒素を、こうして私が汚い言葉を使うことで、吐き捨てているのだという。そうすることで素晴らしい歌が歌えるのだから、もっとどうぞという憎たらしさ。
ふと見れば、侍女が水を張った盥と手拭を持って待機している。素直にそれで顔を洗い、受け取った手拭で顔を拭えば、人心地いてちょっとすっきりしてくるのだからしょうがない。
にしても、この侍女たちの態度も気に食わないのだけれど……そう、私は触れてもいけない巫女であるというのは、侍女にとってもそうであり、この待遇ならあってしかるべきよってたかってお着替えさせられたりお風呂で清められたり、化粧を施されたり……といった系統のことは一切なかった。いつでも、そっと差し出されるだけ、しかも、振れぬよう細心の注意が払われたうえでのものであり……人肌がちょっと恋しかったりする。
その気持ちを思い出して、ついと、彼の方を振り向けば、思わずその手をつかみ、ぎゅっと握った。おやおやと、わざとらしい声をあげて神官長が笑うが、そんなものは気にしない。ぎょっとした顔の彼は、以前ならば即刻振り払っていただろうに、今日は甘やかしてくれる気らしい。
「私は平穏な毎日が過ごしたいの、こいつと、こう、片田舎とかでのんびりと」
「ほうほう、王家が血塗られていると知りながら、国が魔に犯されていると知りながら、戦争がいつ起きるやもと心配しつつ、まるで梁の上を目隠しして歩くが如き平穏がお望みですか」
「そんなわけあるかー」
思わず怒鳴り散らしてやると、彼が、まるで神官長からかばうように、私を抱きしめてくれる。どうしたと問うよりも前に、神官長がその柔和な笑いを収めていたことに気がついて、私も、彼にすがり付いてしまった。
ギラギラとしたその眼差しは、先ほどの私の睨みなど比べようもないほどの凄味があり、ゾッと背中を凍りつかせるくせ、目が離せない。思わず震えた私を守るよう、彼は抱きしめる手に力を込めた。
「では、その腑抜けた目をしかとお開きいただけませんかのう」
先程よりよほど声のトーンを落とした声は、だが、しんっと静まり返った室内に、やけに響いた。




