戦いの意味
学校から十分、全身全霊を込めた猛ダッシュは体育のそれよりも何倍もきつかった。涼しくなってきた時期と言っても、これだけ全力で走れば汗が額から玉のように浮かんでくる。
走っている最中、何度も僕はリュウカが遅れていないか後方を確認した。あいつは運動神経に関してことさら駄目なのか、何度も僕から大きく引き離される、途中でこけるとさんざんだった。結局、いつもの全力なら五分程度で着く場所に、それだけの時間がかかってしまった。
一軒の花屋、その前に立ちながら僕は目を閉じた。走って体に熱がたぎっているはずなのに、顔が真っ青になるほど血の気が引いている。
横に立つリュウカが僕を何度もちらちら見る。僕とここの関連が見えないらしい。
「雲雀さん、ここ、なんですか?」
「花屋。僕のバイト先」
僕はぶっきらぼうに答え、花屋の入り口のドアを開けた。放水された水が蒸発して、辺りはほんのりとした蒸し暑さと湿気に包まれている。
「遅れました、済みません」
僕は店に入るやいなや、そんな言葉を口走った。すると店の奥から、穏やかな笑みをたたえた若い女性が出てきた。
「雲雀くん、ちょっと遅いわね」
「……済みません、色々あって」
と、彼女は後ろに立つリュウカにちらりと視線を送った。確かに僕が金髪の少女を連れていればおかしさに包まれるだろう。しまったとばかりに、僕は身振り手振りでごまかしを始めた。
「あら、どちら様かしら?」
「あ、あのこいつ、親父の昔の知り合いの娘さんで、ちょっと預かることになって……」
「ホテルにでも住んでるの?」
「いえ……ちょっと長期滞在になるんで、ホテル代を浮かせるためにその、僕のとこに……」
「そう。ちゃんとしなきゃ駄目ね」
「え、ええまあ……」
僕が言葉を濁すと、彼女は涼しげな笑みを浮かべ、そっと口を開いた。
「間違いだけは起こさないようにね。私からはそれだけよ」
「は、はい」
彼女は僕とリュウカの関係に釘を刺すだけで、それ以上のことを聞かなかった。その若い見た目から似合わない立ち居振舞に、リュウカが僕の顔を凝視してきた。
「何ですか、あの人」
「この店の経営者で、僕の住んでるアパートの持ち主で、僕の後見人」
ややこしい関係ではあるのだが、それをリュウカに話しても仕方ない。僕は店の奥に行きエプロンを手にした。水まきに始まり掃除、包装紙の準備など、花の手入れだけでなく雑多な仕事がこの花屋という場所にはいくつも存在する。
一方、店主である彼女はリュウカに特に気をやることもなく、花の余分な枝を切って手入れを続けていた。
「雲雀さん、随分と若い人ですけど……本当に雲雀さんのお世話してるんですか?」
リュウカの声が聞こえたのか、ようやく彼女がこちらへ向き、リュウカに軽く微笑んだ。
「そうね、あなたくらいの年頃から見たらおばさんよね」
「そ、そんなことは……ないですけど……」
「リュウカ、この人まだ二十代だぞ」
「それでも雲雀くんとは結構な年の差があるじゃない」
「いえ、あなたと親父の年齢差に比べたらましです」
僕はうんざりした顔で言い放った。すると彼女は恍惚とした表情で、スプレーを手に父の思い出を語りだした。
「宗徳さんは野性のダンディズムに溢れた人だもの。雲雀くんの優しいイメージとは少し違うから分からないかもしれないけど」
「分かりたくないです……」
僕の一歩引くような言葉に、リュウカは眉をしかめた。僕も面倒になり、彼女の代わりに自己紹介を買って出た。
「この人は黒崎優花さん。クロサキって大きな会社してる一族の親類なんだ」
「そうなんですか?」
「クロサキの会長に気に入られてて、将来どうかって言われてるんだけど、こうして花屋さん営んでるんだよ、この人」
と、僕が少し理解できないといった面持ちで喋ると、彼女は手元にあった薔薇の花びらを撫で目元を細めた。
「大きな会社よりも、花の色づきの方が素晴らしいって思わない?」
「まあ……そうですか……」
「私は宗徳さんの造られたSP1に夢を見たの。だからあなたにも夢を見てほしいのよ」
彼女がSP1の名を口にすると、黙り込んでいたリュウカがいきなり前のめりになり、彼女に食いついた。
「お前……じゃない、おねーさんはSP1を知っているのですか!」
「ええ。怪獣頻出期に活躍したロボットの中で、一番格好いい機体だって思ってるわ」
彼女がSP1を敬愛していることを知り、リュウカは突然眼を輝かせ出した。人間どういったところで親近感を覚えるのか分かったものではない。
「雲雀さん、おねーさんとお父上はどのような関係だったのですか!」
「お父上……?」
「あ、優花さん! こいつ言葉慣れてないだけなんです! 気にしないでください!」
優花さんの顔が変わった。リュウカが父のことを「お父上」と告げた瞬間、聖母のような優しい顔を崩し、虫けらを見るような目でリュウカを見下した。背筋に寒気を感じた僕が慌てて制したが、そのままリュウカが言葉を続けていればどうなったか分かったものではない。この一面があるからこそ、僕はここで働くことの恐怖を知っている。これから何度この感覚を味わうのか、想像しただけで吐き気を覚えた。
「昔、僕が生まれる前に親父はクロサキで働いてたんだ。でもいつか宇宙人が襲来するって気付いたらしくて、会長さんに掛け合って借金してSP1を造ったってわけ」
「じゃあ雲雀さんの借金って……」
「そう。親父がSP1を造ってぶっ壊したおかげで出来たお金」
僕は自虐的に笑った。すると横から優花さんが穏やかな口調で諭してきた。
「私はあなたに借金を背負わせる気は無いわよ。アパートだって、もっと綺麗な場所でもいいのよ。そう、あなたがもういいって言えばそれで済む話なのに」
「……嫌です。あんなにお世話になった優花さんや会長さんに、何にも返さないで普通の暮らしをしようなんて」
普通の暮らし。その言葉が漏れた瞬間、僕は昨日の出来事を思い出した。怪獣との死闘とこれから数度あるであろう激闘。そこに普通はない。でも僕は、賞賛と非難を一身に浴びてこの世から去った父と同じ道を歩みたくなかった。
父が亡くなった時の世間からの罵声が、今も頭にこびりついている。あんなに必死に人を守ってきたのに要らないような扱いを受けて、僕は悔しかった。僕は茫然自失になり、ひっそりと生きることにした。バイトをして、社会人になって頑張ったって、SP1建造にかかった借金が返せるとは思えない。それでも僕は、少しずつでもいいから、何もない人間として父の汚れた名前を消したかった。
僕が硬い顔をしていると、優花さんが側により、水を止めたスプレーの端で僕の頭をこんと軽く叩いた。
「雲雀くんの人生なんだから、あなたの好きにしなさい」
「僕の道……ですよね」
僕はその言葉と同時に、リュウカの姿を思い浮かべた。彼女は僕に人の役に立つ道を歩めと迫ってくる。僕はそれにどう返せばいいのか、正直分からない。
鈴埜夕陽はどのような気持ちで怪獣と向き合っているのだろう。自分の時間を作らず、その生き方に心血を注ぐ彼女の気持ちは、僕には推し量ることが出来なかった。
「でも、昨日の怪獣騒動は何だったのかしら」
突然優花さんが、不気味なことを言い放った。それはどう考えても昨日僕が倒したそれのことであり、大きな騒動に違いない。
僕とリュウカは昨日も今朝も大慌てでニュースを一つも見ていない。だがそれなのに、誰も地上に怪獣が現れたという大ニュースのことを口にしていなかった。
何かおかしい。僕は優花さんの動向をそっとうかがった。
「雲雀くんは知ってる?」
「いえ。何かあったんですか?」
「長野の山間に怪獣が出た、なんてニュースが二十分ほど流れたんだけど、その後に政府が流した突発的な避難訓練だったって。ネットにもニュースの映像はないし、不気味ね」
僕はそれを聞き唖然とした。あれだけの驚異を、政府は「なかったこと」にしたのだ。情報操作能力もさることながら、人の命が失われたかもしれない危機を隠そうとするその姿勢に、僕は言葉をなくした。
鈴埜夕陽は僕に頭を下げ、僕に引いてくれと願った。でもそれは鈴埜夕陽一人の願いかもしれず、国は死の恐怖をなかったことにしようとした。彼女にも立場があるのは頭では分かる。だが僕は鈴埜夕陽に対し裏切られたような、べたりとまとわりつくような憎しみを覚えていた。
「地上は宗徳さん達が命がけで守ってきた、神聖な場所よ。いくら危機に備えた避難訓練でも言っていいことと悪いことがあるわ」
僕は押し黙った。優花さんが長野宗徳に強い敬愛の念を抱いているのは知っている。だがそれ以上に父が守ろうとした地上という場所が、穢れ無き場であってほしいという思いまで知ることはなかった。
やっぱり僕は、戦わなければならない。たとえ鈴埜夕陽や政府が脅したとしても、僕は退くわけにはいかないと理解した。
リュウカはどんな顔をしているのだろう。少し気になり、僕は彼女のいる後方へ振り向いた。リュウカはこの危機的状況の話をしているというのに、生ものだらけのこの温室に似た環境にびくびくしていた。
「……なんだリュウカ、お前花苦手なのか」
「ち、違います。やはり金属がガチンとくっついてる方が……」
「ああ分かった。要するに花だけじゃなくて生き物全体が苦手なんだな」
「そ、そんなことないです!」
と、リュウカがむきになっていると、優花さんがそっと近づき、近くにあったパンジーの小鉢を見せつけた。
「ほら、とても綺麗でしょ?」
「ま、まあ……凄い派手な色……です」
「あなたの好きだった鉄の塊は、こういう小さなものを守るために戦っていたの。それだけは忘れないでね」
優花さんはリュウカの頭を撫でると、鉢を横に置きまた仕事に戻った。彼女に言われたことの意味を感じ取ったのか、リュウカはしばらく口を閉ざしていた。
「花、好きになれそう?」
「……やっぱりこの原色の感じが苦手です」
ああ、なるほど。こいつは生き物がともかくより、原色が苦手なのか。そういう観点において、リュウカの父が地球侵略に来訪した際、岩のようにごつごつとした肌に、赤い原色をちりばめたかぶり物をしていたのも、相手を威嚇するという意味で納得できる。
これもまた文化の差か。僕はため息をこぼしつつ、スプレー片手に花の様子を見つめだした。
僕が戦わなきゃいけない。鈴埜夕陽がどれだけ立派な人であっても、被害を抑えるためには僕がやらなきゃいけない。僕は自分に暗示をかけるように、何度も何度も、繰り返し脳内で同じ事を復唱した。