殺意の誘い
「雲雀さん、朝ですよ。起きてください」
僕の頬に、弱い刺激が感じられる。
はっと目を開けた。僕を見下ろすような形で、微笑むリーノさんが人差し指で僕の頬を突いていた。
今日も寝過ごした。特に何の動きもない。それでも僕は護衛のために夜通し起きている。
ホテルの人に無理を言って、布団を用意してもらった。簡易ベッドの方がよいのではないかと提案されたが、僕はどうしても布団の方が良かった。そっちの方が慣れている。僕にとって布団は、魂を共有するものなのだ。
しかし。
僕はリーノさんから目を反らす。彼女はキャミソールの薄手で眠りにつく。その姿のまま、寝過ごした僕を起こしてくれるのである。
少しずつ慣れてきたとはいえ、それでも彼女の重要な部分が見えそうになると瞬時に目を反らす。そう、女性と縁がなかった僕は、こんなことでたじろぐ人間なのだ。
二週間が経った。でも何の動きもない。
あの鋭い眼光を飛ばすダムアという男が、この星で何をしているのか僕は知らない。外相を飛び越えて、首相クラスと話している可能性もある。
でもそれなら、ここへ連絡が来るはずだ。その平穏さが、僕に薄ら寒いものをよこしていた。
「雲雀さん、お洋服着ますから、食事に行きましょうか」
「あ、はい」
僕は彼女に促されるまま、キャリーバッグを手にした。いつでも高速で飛んでくる奴だが、相手がどのような方法を取るか分からない。
ロビーを抜け、バイキング式の朝食を行っているレストランへ入る。
皇女様は決してがっつくことなく、いつも小食で済ませている。品のある人だな、と僕はいつも感心する。
さて、今日も美味しい卵を食べよう。その僕の手がふいに止まった。
「……」
僕の目に、異質なものが映った。ここにいるはずのない人物がいる。そう、あの白髪の狂犬、ダムア大佐が何故かここで食事を取っていたのだ。
「リーノさん、済みません、向こうの席で先に食べててくれませんか」
「どうかされました?」
「ちょっと。ごめんなさい」
僕は彼女に謝り、適当な食事を手にし、彼のテーブルに近づいた。
「いやあここのホテルの飯はうまいなあ」
「何をしに来たんですか」
「外から来た客が飯食ってて悪いか?」
「……そういう目的じゃないでしょう」
僕がきつい目で一喝すると、彼は嫌らしく唇を上げて、大きな肉塊を口に放り込んだ。
「皇女に関してまだ事を荒立てる気はねえ。やればこっちもややこしいことになるからな」
「じゃあどうしてここへ」
「長野君、あの英雄の息子たる君とちいっとばかし話してみたくてな」
彼は不遜に笑い続ける。だがその目は細く、憎しみを色濃く映していた。
きっと、断れば大変なことになる。
それにこの男が父への憎しみをたぎらせている理由も知りたい。
僕に迷いはなかった。すぐさま首を縦に振ると、彼も満足げに、そして邪悪な面持ちで唇を上向きにした。
「俺のおごりだ、好きなだけ食え」
「……もう食券出してますから。それに好きなだけってここバイキングですよ」
「ははは、どんな反応返すかと思ったら、真面目に答えるんだな」
どうにもこの人は、僕をからかうのが好きらしい。
でもそれはかりそめの姿で、本音の部分はまったく違うところにあるのが手に取るように分かる。
彼が椅子から立つ。背を張って、真っ直ぐ前を見据える姿は、確かに近衛兵の風格が漂う。
「出たとこの木陰で待っててやる。心配するな、今日殺すなんて無粋な真似はしねえからよお」
彼は僕を見ず、淡々とその言葉を口にした。
静かに、静かに何も見ず――そう、後ろで食事をしているリーノさんさえ見ずに、レストランを後にした。
今日は殺す気はない。
でも、いずれどこかで決着を付ける気だ。
嫌な男に絡まれたな。僕は唇を強く曲げた。わいていたはずの食欲が気づけばどこかに失せていた。
「あの」
「は、はいっ!?」
僕ははっと振り向いた。僕の顔を、間近からリーノさんが覗き込んでいる。
「お話、終わりましたか?」
彼女は癒やすような声で、僕に訊ねてくる。終わったか終わってないかで言えば、まったく終わっていない。だが彼女を心配させたくがないため、僕は軽く笑って相づちを打った。
「そうですね、終わりました」
「そうですか。雲雀さんも、お野菜たくさん食べた方がいいですよ。お肉も卵も、ルチュの練り物も」
「ああ……そういえばそれ、まだ食べたことないんですよね」
ルチュの練り物。灰色をして、どろりとしたとろろか何かに似たものだ。ホテルの部屋にある端末で調べると、栄養が多いと書いてあったが、その他に関してはよく分からない。
もっとも、珍しい料理なのでいずれは食べておきたいと思う。
「雲雀さん」
「ああ、今日は普通のものを――」
「そうじゃないです。あなたは、何もない私を守ってくれる、勇敢な騎士様。だから、私もあなたが悩みを抱えているなら、全て受け止めます」
ふと、彼女の瞳が僕の目に映った。
いつもの静かにたゆたうような笑みをたたえたものではない。
じっと僕を見つめ、何も言わぬまま、力強く引き込む目だ。
ああ、そうか。だからこの人は皇女様なんだ。
何もないなんて嘘だ。たとえ身一つであったとしても、あらゆる人を助け、導く。
彼女は強い人だ。僕は、自分を見透かされたことを恥じると共に、清々しい気分になった。
今はその時じゃない。でも、いつかもっともっと、彼女と打ち解けて、色んな話をしたい。
「ありがとうございます。今はちょっと話せないですけど、いずれきちんと話します」
「……私は、そういう雲雀さんの優しいところが、大好きです」
彼女はほんのわずかに俯き、くすぐったそうな顔で呟いた。
あの男が、どんな事情を持っているのか知りたい。
僕はリーノさんに頭を下げ、残っている食事をかき込んでレストランを飛び出した。




