第二十九話
体を穢され続けてきた彼女の人生を変えることはできず、残ってしまった記憶。
湧き続ける苛立ちと今にも爆発してしまいそうな気持ちにカナンは押し潰されていました。
何処かわからない社会の存在しない世界に飛ばされて、目の前にはカナンとよく似た少女が微笑んでいます。
どうして笑っていられるのか、今のカナンには嫌味としか思えません。
「今のアナタは憎しみでしかない、それでは駄目なの」
「お願いですから元の世界に返してください! ここで止まっている場合じゃないんです!!」
カナンは慈愛に満ちた笑みを浮かべている少女を睨みました。
緑の葉が生い茂る巨木の根元に二人は対峙します。
「私はヘレナを知っているわ。あなた以上に、誰よりも。あの子がどれほどの想いでアナタを大切にしていたか……同種のセツナと出会い少しでも交流できた喜びを」
カナンは片手に持っている白銀の刀を強く握り締めて、俯きました。
「だからってヘレナは奴隷じゃないのに、こんな仕打ち、絶対許せない!」
強く、強く、何度も首を横に振って目の前の少女を赤い瞳に映します。
少女は目を細めて右の掌を前に差し伸べました。
掌に浮かび上がった光の球は少女の周りでゆっくりと飛びます。
「私がこの楽園を創って五年、ずっとクローン達の生死を見守っていたわ……アナタのことも。たった五年で沢山のクローンが死に、ここへ来て、また生まれ変わるの。私にできるのはそれだけ」
拳にすれば光る球は粒子となって空へと散っていきました。
「同じようにアナタにしかできないこともあるの」
「そんなの、何もありません」
自らを抱きしめてカナンは俯く。
「いいえ、あるわ……アナタだけができることは他者を導くこと」
「他者?」
「そう、今のアナタは聖母としての資質がある。誰もがアナタについていくわ。アナタの指示で誰もが動く」
少女は空間を切るように手を振りました。
何もない場所から割れ目が出現し、徐々に拡大していきます。
割れ目から覗けるのは現実世界の首都。
アドヴァンス教会がアサルトライフルを持って次々と首都の人々を襲っている映像にカナンは苦い顔で唇を噛みました。
路地裏には一人で隠れている見覚えのある少女がいます。
「エリスさん!?」
深緑の瞳をもつ珍しいクローンのエリスにカナンは名前を叫びました。
「アナタはこの子をどうする? このまま死なせる? それとも……助けたいわね」
少女は満足げに微笑むとカナンの頭に手を乗せます。
そして、深く抱き締めました。
「もう二度と会えないと思っていたのに……よかった」
カナンの耳元で囁かれた震える声。
脳内にゆっくりと染みこんでいく言葉と記憶にカナンの赤い瞳が薄れていきます。
「あ」
赤い色が失われていくと今度は澄み切った青い色が瞳孔に浮かび上がり、カナンは気付きました。
「おかあ、さ」
ようやく気付いたのに、楽園世界はもう目の前にありません。
騒がしい発砲音と叫び声が飛び交う荒れた首都の路地裏。
「カナン? どうして、ここに」
背後にはエリスの姿がありました。
路地裏に身を隠していたエリスは突然現れたカナンに目を丸くさせます。
「逃げよう、エリスさん。もう……ここは駄目だから」
青く澄んだ瞳がエリスをしっかりと映し、手を差し出しました。
泣いていない、笑っていないカナンの表情。
エリスは黙って言われるがまま手を伸ばしました。
「外に逃げるよ、迷わずに走るからね。目を逸らしちゃ駄目だから」
単純な説明に頷いたエリスを確認してカナンは手を繋いで路地裏から表通りを走ります。
アドヴァンス教会の武装信者は別の区域に向かったようで姿はありません。
巻き込まれてしまったクローンではない人間が通りに倒れていました。
それでもカナンは出口だけを探します。
門がある出入口には交戦した形跡があり、首都の警備員達が何発もの銃弾を受けて絶命していました。
「エリス!」
出入口にいる白衣を着た男女がこちらに向かってエリスを呼んでいます。
「お父さんとお母さん」
男が急いで二人のもとに駆け寄り、エリスの腕を強引に引っ張りました。
「心配したぞ、一体どこに行っていたんだ!? すぐにここから出るぞ!」
「ま、待ってお父さん、カナンが」
手が空っぽになってしまったカナンは静かに首を横に振ります。
「ううん、私はやらなきゃいけないことがあるから。どうか無事に安全な町へ逃げてください」
「ごめん、本当にありがとう。やっぱりカナンが聖母になるべきなのかも」
エリスの言葉に、カナンは凛とした顔でもう一度否定を込めて首を振りました。
「聖母は他者を惜しみなく愛する存在、私は人を愛さないから……なれません」
脳内に刻み込まれた二人の記憶が後押しするように吐き出し、カナンは返事を待たずに首都の中心へ駆けていきます。
中央には天高く建つ時計台があり、そこから広がるように商店街、住宅街と並び、所々に公共の建物も。
時計台の根元には息絶えた武装信者が積み上げられて山になっていました。
武器を持たない住民と警棒しか所持していない警備員がいる首都で誰が武装信者を倒せるのか、カナンは首を傾げてしまいます。
その中には辛うじて息をしている武装信者の姿もあり、カナンは近寄って声をかけました。
「こ、子供、が……子供が、助け」
「大丈夫です、何もしませんから、子供がなんですか?」
「怖い……助け、助けてくれ!」
顔を真っ白に緑の制服を血染めにして両手を震わす武装信者。
「落ち着いてください、大丈夫です」
両肩に手を添えてカナンが微笑むと、突然武装信者は瞳孔を大きくさせました。
呼吸の乱れも体の震えも消えて、顔色も良くなります。
武装信者は声を失い、力無く顔は空を向いて動かなくなりました。
カナンは口元を手で覆い隠して目を細めます。
「わかってたのに」
反射的にしてしまった行為に腹を立てながらカナンは学校がある通りへ。
複数の学校が建つ区域には抵抗もできないまま息を引き取った学生達が倒れていました。
円柱の形で建っている大学の敷地内は緑色の庭園が広がり、弾痕が壁や地面に残っています。
大学内は青いタイルと白い壁のみで殺風景。
研究室や講義室が設置され、本来なら学生や教授がいるのですが、誰もいません。
カナンはとにかく誰かを探します。
手には持ち主とはぐれた白銀の刀。
研究室の前を通ると、室内には老人の遺体が寝台に横たわっていました。
「ヘレナの、お父さん」
議員バッチを背広の胸につけて乾いた血液が染みています。
「天罰って言ってもいいのかな」
カナンは息を大きく吐いて呟きました。
廊下に出て通りを見渡せば、壁にはりついたまま離れない倭人の少女が視界に映ります。
赤いマフラーを首に巻いて生気のない顔に紅玉の瞳は虚ろ。
「セツナさん」
カナンは探していた人物を見つけて名前を呼びました。
ですが、返事をしません。
それどころか俯いて力無く座り込んでいます。
「ヘレナから刀を預かりました。これでドイゾナーを止めに行きましょう、アナタの力と刀があれば倒せます」
迷子だった白銀の刀を持ち主へ。
「この刀には錬金術を跳ね返す力があります。純真な子供達の魂が宿った神器なんです」
「知っている……大河が東海林という男を殺し奪った武器だ」
重い口を開けてようやく喋ると、ゆっくり顔を上げました。
「ドイゾナーは地下にまだいます」
セツナの腕を引っ張り起こし、ようやく二人は対面します。
カナンは決して笑う表情を見せずに呟きました。
「行きましょう」