第二十三話
平和な首都でのことです。
事件を知らない住民達が多く住んでいました。
長く大きい時計台を中心に広がる首都。
海を遮るほどの大きな谷側に建てられたクリーム色の立派な邸宅は政府関係者が集う本部でもあります。
三階角部屋には未だ水以外口に入れていない少女がベッドで寝転んでいました。
思わず触れたくなる柔らかな茶髪と雪のように白い肌。
穢れた赤い瞳は真っ白な天井と睨めっこをしてそのまま動きません。
うるさいお腹の虫を黙らせるためにひたすら気を紛らわしていますが、簡単にはいかないようです。
もうすぐ夕方になる頃で、太陽は海へと沈もうとしていました。
反対側からは待ちきれずに飛び出していた三日月。
太陽は透明に近い青空を赤く染めていますがそれに対して三日月は空をさらに深い青に染めようとしているのです。
美しい景色とは別に扉の外側には醜い政府の人間が数人、立ち話を始めていました。
「あのガキ共には困りましたな。それと、クラウベル氏にもうんざり」
「それにご子息は捨て子で、クラウベル氏とは全く血縁関係はないという話だ」
「病弱であったユリウス様を見放すような家族には勿体無い存在ですよ、まったく……」
「そういえば、クラウベル氏は今どこにいるのだ?」
「首都から少し離れた湖の街で休暇中と聞いたな」
政府の人達は終わらぬ愚痴と世間話を尽きることなく吐き出すばかり。
虚ろな瞳で少女は耳を塞いでしまいます。
「地下をアドヴァンス教会に譲ったという話だが、あのイカれた大男はどうにかならんのか?」
「確か、ドイゾナーと名乗っていたな。古代の英雄とか、神の代弁者らしいが、どうも怪しい」
「しかし奴らは政府よりも財は多い、巨大な地下を買い占めるほどの財を持っている。それに頼るしか今の政府には力がないのだ。嘆かわしい……」
「これも全部、大統領が独断でフレッド達に資金を提供したからだ。あれほど反対したというのに」
生まれた故郷で何度か聞いたことのある単語と人物に両手は自然と耳から離れ、少女は体を起き上がらせます。
「結果、起きたのは大陸全土を震わした大事件。聖母カノン様が実験によって暴走した特殊クローンに殺害され、一気にクローン迫害は広まった」
「ああ、そうだ。あのクローンの名前は……なんだった?」
「セツナだよ、セツナ。あの忌々しい倭人娘に聖母カノン様は殺されたのだ。あれからこの国は変わってしまった」
「クローン迫害、宗教同士の内紛、政府内の対立、財政圧迫、上げればキリがない」
少女は苦い表情で辺りを見回しました。
目についたのは一つの窓。
少女は窓へと歩み寄り、優しく両手を透明な硝子に添えるとそのまま押し出します。
全開となった窓から入り込む強い風に少女の髪は激しく揺れました。
三階の高さとなれば自ら飛び降りるなんて考えは起きません。
顔を外に放り出して、真下を覗き見。
すると、石畳の通路を歩く一人の男性がいるのに気付きました。
その姿を確認するや否や、大きく身を乗り出した少女は戸惑いも怖さもなしに体を外へと放り出したのです。
狙いはもちろん、男性。
重力に逆らうことなく真下へと落ちていく少女は両脚を揃えました。
「えっ?」
男性が体を覆う暗い影に気付いた頃には遅かったのです。
見上げれば目の前には靴の裏。
少女は遠慮も無く男性を踏みつけました。
鈍い音とともに倒れ込んだ男性と、その上に着地した無傷の少女。
少女は靴の裏を軽く手で掃います。
踏みつけられた男性は仰向けに倒れたまま、片手で顔面を覆っていました。
意識せずに見れば倭人に映りますが、どうやらこの男性は洋人のようです。
漆黒の髪と瞳に、少し太目に揃えた眉毛。
太い眉毛が特徴的な青年であることに気付いた少女は大きく目を見開いて、すぐにしゃがみ込むと相手の様子を静かに眺めます。
歯を食いしばったり、指先を軽く動かしたりと反応があるようで、少女は小さく息を吐き出しました。
少女は口に手を添えて目を細めると、もう一度立ち上がり政府本部の庭園を見回します。
茜色に染め上げられた草木や可憐な花々。
夕日が沈められようとしている方向には時計台を中心とした街が広がっていました。
「カナン様がいない!」
「また脱走したのか、あの小娘は!!」
飛び降りた三階の窓から聞こえてきた慌ただしい声。
自分のことを呼んでいるのに気付いた少女は石畳の通路が指し示す道へと走り出します。
緩やかな坂道が続く先には閑静な住宅街が建ち並んでいました。
左右にも道はありますが、カナンは時計台が見える直線の道へ。
住宅街を抜ければ首都に住む大勢の人々が歩く姿と商店街が時計台の根本まで広がっています。
カナンは足を止めて建物の壁へ背中を張り付けるように身を隠しました。
自身の身には袖のない純白なワンピースと、小さな靴しかありません。
穢れた赤い瞳を隠す物はなく、壁にもたれながら座り込みます。
(道を間違えた……学生街に行けばよかった)
戻っている暇はないようで、俯いたまま静止するカナン。
「ゲームオーバー。こんにちは、聖母様」
耳に入り込んだ性別の区別がつかないほど高い声。
「使えないクローンの相手なんかしているから遅れるんだよね。もうちょっと楽しめるかと思ったのになぁ」
顔を上げると、白いローブに全身を覆い隠す背の低い人物が笑みを浮かべて立っていました。
「アナタは誰?」
「僕はただの聖母信者」
「残念ですが、私は聖母ではありません。なるつもりもないですから、どこかへ行ってください」
相手から視線を逸らしたカナンはもう一度地面へと顔を向けてしまいます。
「つまんないなぁ、もう少しだけ楽しもうよ」
同じ目線となった少年に近くで囁かれると、カナンは眉を歪めて皺くちゃになるほど布を握りしめました。
「ヘレナにも会いたいでしょ?」
フードで隠れて見えなかった漆黒の瞳が自然と視界へと映りこみ、カナンは自ら顔を上げていたことに驚きます。
「なんで、ヘレナのことを知ってるの? ここに来るの? アナタは本当に誰なの?」
少年とでも少女とでも受け取れる顔立ち。
カナンの質問に答えることもしないで、ただ穢れた赤い瞳を覗き込んでいます。
頬に手を添えられたカナンは呆気にとられ、鼻同士がぶつかりそうなほど近くに少年の顔がありました。
「こんなにも穢れた色をしているのに、清らかで美しい心がある。ヘレナもそう、あのセツナって倭人も、綺麗で穢れのない心があるのに……どうして僕の心は穢れているんだろう。こんなにも綺麗な目をしているのにね」
自信に満ちた言葉と声。
少年の言葉にカナンは表情を歪めて、両手を使って押し出しました。
鼻先から顔が離れて、立ち上がった少年は余裕の表情で笑みを零しています。
「とりあえず、政府に戻った方がいいよ。聖母になる為の儀式が待っている」
「儀式? 聖祭の日に継承式をするだけじゃないの?」
聞き慣れない単語、カナンも立ち上がり少年を睨みました。
「聖女様は清らかな存在でいなければならないけど、聖母様は愛を与える存在。いろんな愛を知らないとなれないもの」
「愛?」
「戻ればわかるよ」
淡い霧状となった少年の体。
徐々に色彩を失い、透明のように消えてしまいました。
驚いている暇もなく、カナンは辺りを見回しますがどこにも少年の姿はありません。
空腹で疲れているのに違いないと、カナンは自らに言い聞かせて肩を落とします。
来た道を戻ろうと足を進めましたが、一歩だけ進んで再び止まりました。
黒い背広を着ている一見すれば倭人のような雰囲気をもつ青年の姿。
鼻を中心に顔中を真っ赤に染めて、出血のあともありました。
太い眉毛が特徴の青年はにっこりと笑顔をカナンへ。
「見つけましたよ……聖女様。もう夜になりますから帰りましょう」
大きな手を差しだされ、反射的にカナンは自らの両手を胸に寄せてしまいます。
疑いも毛嫌いもしないで首を傾げる青年を見上げて、カナンは恐る恐るですが小さな手を伸ばしました。
温もりのこもった手のひらに包まれた小さな手。
「継承式まで外に出てはいけませんよ。聖女様にはこれから大切な準備がありますから」
「あの、その、儀式ってなんですか?」
カナンの質問に答える代わりに、青年は力を込めて小さな手を握り締めたのです。
か細い腕や体に伝わった圧迫感と痛みにカナンは苦い表情で手を引き抜こうとしましたが離れることができません。
「聖母としては、まだまだ未熟な体です。年齢も十二と幼く聖母になるのは難しいこと。ですが、聖母となるべく生まれた候補の子達は皆殺害されました」
「い、痛いです! なんですか、一体なにを」
静かに呟かれた言葉にカナンは苦痛と疑問を訴えます。
「ユリウスお嬢様。本来なら僕の義妹となる彼女が……ヘレナが原因で聖女様が政府に売られ、今、穢れのない幼い体が愛を知る為に穢されるのです」
「さ、触らないでください!」
「離しません、絶対に、エリスお嬢様の為にも!」
男の力に適うわけもなく、カナンは引っ張られてしまいます。
「エリスお嬢様の短い一生を聖母として終わらせたくないのです!」
「でも、エリスは聖母になりたいと望んでいるのに、どうして!?」
カナンは腕を叩いたり、噛んだりと抵抗はするのですが、青年は決して離しません。
「聖母なんて、所詮政府の道具なんですよ。混乱があれば聖母を出して怒りを鎮め、不要な時は何もない牢屋のような部屋に閉じ込められる。そんな生活をエリスお嬢様にはしてほしくない、誰が犠牲になろうとも!」
体が宙に浮き、カナンは持ち上げられてしまいました。
暴れることができず、お姫様抱っこの状態で通路を進んでいきます。
「ヘレナは、ヘレナはなんで候補と呼ばれる人たちを殺したんですか!?」
苦い笑みを浮かべている青年。
「残念ながら詳しい話は僕にはわかりません、ただそれが僕にとって都合がよかっただけです。貴女のおかげでエリスお嬢様は自由になれるんですから」
カナンはこの状況から逃げることができません。
力がないことを悔やみ、歯を食いしばります。
深い青色に染められた空となり、太陽は沈み、三日月が完全に支配した頃です。
政府本部へと送られたカナンは三階角部屋へと戻されてしまいました。
「安心してください。儀式が終われば貴女は大人になれる。一段階の愛を知り、さらなる愛を学んでいき、愛そのものとなれば、きっと……大丈夫です」
二人でも余裕のある大きなベッドの上に投げられたカナン。
柔らかなクッションは反発もなくカナンを受け止めました。
「まだ、自己紹介をしていませんでしたね。僕はセキウチ、残念ながら本名ではありません。クラウベル氏に引き取られた養子です」
セキウチの簡単な紹介の合間にもカナンは真っ白なシーツへと押し込まれ、小さな体がセキウチの体重に圧迫させられます。
「いや、嫌、触らないで!!」
今でもはっきりと思い出せる記憶と一致する現在の状況にカナンは顔を青ざめ、必死に抵抗。
ですが、暴れる両手はあっさりと簡単に押さえつけられてしまいます。
「大丈夫です。大丈夫ですから、安心してください」
「い、いやぁ」
カナンの赤い瞳から零れだした透明な雫にセキウチは目を大きく開けました。
「聖母の涙、ですか」
優しい笑みを浮かべたセキウチはカナンの濡れた頬を指で拭います。
「僕は誰に対しても殺意なんてありませんし、殺そうとも思わない。貴女と交わり、愛を知りたい、そして知ってもらいたい、聖母になる為に……それだけです」
カナンは小さく首を左右に振り、覆いかぶさるセキウチを呆然と眺めることしかできませんでした。
読んで頂ければ幸いです。