第二十二話
洋国には、はっきりとした地名はつけられていません。
ですが一つだけ国の首都には名前がありました。
聖母を愛する信者が集まってできた首都マザー。
中央には時計台の塔が目印として建ち、そこから円となって広がる様々な建物は明るく彩られ観光客の目を奪います。
海を遮るほどの高い谷側に建てられている政府本部の邸宅。
壁全てがクリーム色の石で造られ、祈る聖母像があちこちに飾られていました。
政府本部三階端の部屋でのことです。
キングサイズのベッドの上で両膝を抱えて座り込む少女。
柔らかな茶髪のセミロングに細く可憐な容姿と透明で真っ白な肌が目立ちます。
小さな顔に赤く穢れた瞳。
右肩には包帯が巻かれていました。
肩が露出する純白のワンピースを身に着けています。
街の人々から聖女と称されていたあの頃、何も知らなさすぎたのだと今更わかりました。
地下に軟禁されていたことすら疑問にならなかったのです。
「まったくどうしたものか」
部屋の外から聞こえてきたのは男達の声。
「素晴らしい料理を目の前にしても一切食べなかったぞ、あの小娘は」
「いくら三代目聖母様の娘であっても父は洋国一の悪逆。人から奪った物しか受け付けないんじゃないか?」
下品に笑う大人の男達の声に少女は両耳を塞いで寝転びました。
浮かび上がるのは油まみれの料理を美味しいと喜び食べてぶくぶくと太る大人の姿。
見ているだけでも嫌になる光景がずっとこの数日続いています。
ここに来てからお腹が締めつけて痛く、時折音を鳴らせては少女を悩ませていました。
「これはご子息様、おはようございます。こんなところに何用でございますか?」
先程の下品な笑い声を止めて下手から挨拶をする男の声。
「父が急用で呼んでいますよ、少し怒っていましたが……」
爽やかで毒気のない男性の声。
「そ、そうですか、それは急がないとですなぁ。それでは失礼します」
男達が消えたことで部屋の外が一気に静かになりました。
耳から手を外した少女はもう一度体を起こします。
薄暗い部屋は何もありません。
特別な用事でもなければここに来る者はそういませんが、その部屋へ二回、三回と叩く音が響き渡ります。
「はい」
少女が返事をすると、扉がゆっくりと開かれました。
「聖女様、気分はいかがですか?」
洋人にしては珍しい漆黒の髪と瞳をもつ背広を着た青年。
少し太目に揃えた眉毛が特徴的ですぐに誰なのかが理解できました。
清潔感の漂う額を出したショートヘアで爽やかさを醸し出しています。
「ここに来てから良い気分なんてないです」
どこか浮いた気分が続いている少女は顔を俯かせて返答。
「最近食べ物を口にしていないと耳にしたので、パンを持ってきたのですが」
手に持っていた紙袋を爽やかな笑顔と一緒に少女へ差し出します。
香ばしい匂いが鼻に入ると少女は思わず顔を上げてしまい、さらにお腹が食べたいとばかりに鳴ると少女はすぐにお腹へ両手をあてて頬を赤らめました。
少女は食べたいという欲求を堪えて首を横に振ります。
「気持ちは嬉しい……でも、男の人は信用できません」
親切な相手からパンを貰ってもそう簡単に口へ入れることはできません。
なかに毒物が混入していたのなら大変です。
「そう、ですか」
青年の呟きに再び俯いてしまった少女は彼が部屋から出ていくまでずっと顔を上げずにいました。
静まり返った部屋、誰もいなくなったのを確認した少女はベッドから立ち上がります。
濁った赤い瞳で周りの景色を見渡して扉とは反対に大きな窓を視界に映しました。
外を覗くと立ち竦んでしまいそうな高さであることがわかり少女は唇を甘噛みし、首都を眺めることしかできません。
「ねぇー、なんで?」
真下にある庭の通路から同じ年代と思われる少女と背広姿の男が二人、確認できました。
明るみのある長い茶髪でツインテールにして結んでいます。
シャツの上に黒いカーディガンを羽織って、チェック柄の太腿まで露出させたスカートを履いていました。
「エリスお嬢様、いくらここが平和とはいえ一人で出歩くのは駄目です」
「じゃあ、どうして平和なのに一人で外を歩いちゃいけないの?」
何やら言い争っている様子で、暇つぶしにその状況を見下ろすことにした少女。
「それに私はもう聖母になれないんでしょ? だったら好きに生かさせてよ、あのカナンって子が聖母になるって聞いたし、私がここにいたって意味ないもん」
怒ったような口調に男達もどうやら困っていました。
「とにかく、今から身体検査がございますのでこちらへ」
「イーヤ!」
「今回は特に大事な検査ですので、失礼ですが力づくでも!」
男二人に飛びかかられたエリス。
いくらなんでもまだ十代前半の少女を強引に連れていこうとするのはよくありません。
「や、やめてよ!」
エリスは抵抗していますが男の力には適いません。
三階端の窓は開いたままで、騒がしい声が鮮明に聞こえてきました。
眩しい太陽の光が幻想的に射しこんでいます。
そこにはもう少女の姿はありませんでした。
「大人しくしてく、ださぃ!?」
男二人の背中に思わぬ重力がかかり、エリスは驚いて後ろに下がります。
少女のか細い雪のような白い両脚によって二人は踏み潰されてしまいました。
「汚い、汚いのを踏んじゃった」
気を失ったのでしょう、男二人はうつ伏せに倒れて動きません。
静かに男から離れた少女は軽く靴の裏を掃い、至近距離で視界に映したくない男二人から目を逸らします。
「大丈夫?」
「う、うん。ありがとう」
エリスは唖然として体が固まっています。
真正面から覗いたエリスの瞳は吸い込まれそうなほどに深い緑でとても可憐でした。
彼女も聖母候補であったということは、クローンのはずですがどこにもその証がありません。
必要以上に確かめることではないと判断したカナンは邸宅内へと足を進ませました。
「聖女様、それにエリスお嬢様も!!」
すると、どこからか出てきた数十人の男達。
探していたのはカナンとエリスで、目標がちょうど二人そろっていたのです。
苦い表情を浮かべたカナンは首都中心部へと向かう通路へとエリスの手を掴んで走り出しました。
坂の続く石畳の通路を走りぬけていく少女二人と男達。
身軽なまでに速い少女とは違って重い筋肉を持つ護衛役や醜く太った政府の人間では追いつけません。
坂道を下りきると、目の前には静かな時間が流れている平和な住宅街。
中央の広い通路と左右の少し狭い通路があります。
「真っ直ぐ行くと時計台に着けるよ、右は学生街、左は病院通りだったかも」
エリスの言葉にカナンはすぐに右へ走り出しました。
木製の矢印看板には学校通りと表記されており、通路を抜けると広い道へと続きどっちを向いても学校の施設が並んでいました。
小さな子供から十代後半の少年少女達が賑やかに昼間を過ごしています。
「政府の奴らもここまではさすがに踏み込めないよ、学生と仲が悪いから」
「どうして?」
エリスは口に手を添えてカナンの耳元で囁きました。
「学生の人達はみんなクローン迫害に反対しているの。でもそんなこと大勢の前で言ったら取り押さえられて地下に監禁されちゃう」
「そう、なんだ」
カナンはそう呟いて学生達の姿を目で追いかけていきます。
赤く濁った瞳をもつカナンを物珍しそうに遠くから眺めている者がいれば、どうでもよさそうに目の前を通り過ぎていく者もいました。
無邪気に走り回る子供の姿。
痒い痛みが右肩を中心にして広がっていき、胸を窮屈に締めつけます。
左手を肩に添えて痛みを和らげようとしますがそれだけでは変わりません。
カナンは唇を軽く噛み締めて俯きました。
「大ごとになる前に帰ろう、だってカナンは次期聖母だもの」
「私は別に……聖母なんてなりたくない」
聖母という単語を聞くたび嫌気が差します。
「誰にも差別されず、皆に死ぬまで愛されて大切にしてくれるのにどうして?」
疑わぬ眼差しで首を傾げるエリス。
絶対安全を約束される身分になれるのならこれ以上の幸せはないのでしょう。
大統領よりも愛され、崇められる存在に聖女達は憧れるのです。
「聖母が愛されるなんて、変なの」
カナンは可笑しく呟いて首を横に振りました。
「聖女候補が皆死んだって聞いたから私がなれるって思ってたのに、長生きできるハーフのカナンが選ばれるなんて、そっちの方が変だよ」
右肩を強く握りしめてカナンは苦い表情を浮かべます。
「それに、聖母に選ばれることが私達の生きる意味なんだよ?」
息を吐き出したと同時に呟かれた言葉。
カナンは大きく目を開けてエリスを見つめました。
いつ死ぬか、そこは人間と変わらぬ恐怖ですがいつまで生きられるかなんて考える必要もないクローン達。
エリスは少しムッとした表情でカナンを睨みますが、すぐに笑みを浮かべます。
「ちょっと歩いて帰ろうよ。今頃セキウチが落ち着かせているから大丈夫」
「……」
手を引っ張られたカナンはそのまま力なく歩かされました。
そろそろ昼休憩も終わりなのでしょう、学生達は揃って施設の中へ入っていきます。
変わらぬ年頃の少年少女達の姿。
カナンは遠くに映る透明な青空を眺めて目を細めました。