第二十一話
夢、でしょうか。
怖いくらい真っ暗で動かしている手でさえわかりません。
目を開いているはずなのにいつまでたっても暗いのです。
今分かるのは非常に寝心地の悪い固くて痛いベッドの上で横たわっていること。
次第に苛立ちを隠せなくなり抵抗するように手を振り回しました。
真っ暗闇を掻き消そうと前に手を伸ばすと、なにやら柔らかな物に当たってしまいます。
それを機に黒い世界が徐々に明かりを示し始めて、ぼやけた映像が映りこみました。
同時に急激な眠気と気だるさが体にのしかかります。
小さな手の先にはこちらを険しい表情で覗き込んでいる青年の顔。
倭人にしては老け顔の青年は、着物姿で腰には純白の鞘に収められた刀を差していました。
「起きろ、緊急事態だ」
起きなければいけない、それだけで苛立ちが増して首を横に振ります。
「狂信者がクローン迫害にやってきたぞ」
上半身を起き上がらせると、周りから激しい銃撃と硝子が弾ける音が響き渡っているのに気づきました。
「お前はまだ特殊クローンになって日が浅い、自分の能力も特質もわかっていないようでは戦うこともできないだろ。逃げるぞ、狙いはお前だ」
青年の言葉は落ち着いているのですが、汗だくで眉間に皺を寄せている姿に思わず睨んでしまいます。
「ほら、立てよ」
大きな手に掴まると、いとも簡単に身軽な体が浮き上がりました。
青年は何もない狭い部屋の壁に目を向けて軽く笑っています。
「お前みたいな子供に好かれるなんて……」
彼の視線の先には、コンクリートの壁に白い粉で描かれた無数の落書き。
相合傘とその上にはハートマーク、さらに傘の下には名前が書いてありました。
見られたところで何も感情が湧き出ません。
可笑しそうにしている青年は髪を掻いて真剣な眼差しでこちらを覗いています。
「さ、逃げるぞ」
ついてこいと手招きされ、従うように走り出しました。
通路に出れば違う世界で、薄い服装と割れた瓶で対抗しようとしている子供達。
相手は遠距離からでも撃つことのできるアサルトライフルです。
泥のように浴びた血液と堪え様のない痛みに同年代の子供達は悶えていました。
割れた硝子の破片を踏みつぶしながら走っていく二人。
破片をナイフのように尖らせて相手へと無謀に突っ込んでいく子供が一人いました。
容赦なく発砲された弾は子供の腕を直撃してしまいます。
足元をよろけさせながら苦悶の表情を浮かべている子供はそれでも突っ込んでいきました。
何を思ってそんなことができるのか、到底勝てるとは思えません。
「ぼさっとするな! よそ見もするな!」
青年の怒鳴り声に首を小さく横に振ってとにかく逃げることだけを考えます。
飛び交う銃弾のなかようやく階段まで辿り着こうとした時でした。
青年の前に現れたのは布で目元以外を巻いている男。
手には爆弾と思わしき球体がありました。
「我らの母を殺したクローンに死を!!」
爆弾の安全装置が外されたと同時に青年は白銀の刃を鞘から抜刀。
男の胸部へと斬りつけましたが、仕留めるまでにはいきませんでした。
よろけた男の手から離れていく爆弾に青年はこちらを振り返って鞘ごと刀を投げてきたのです。
思わず受け取ったのですが、そのまま両脇を掴まれて体が宙に浮きました。
「ごめんな」
たった一言がこの騒がしい空間で確実に耳へ。
「たい……!?」
やっと喉から口へ飛び出してきた幼き声は無残にも掻き消され、大きな手から放たれました。
窓の外へ飛び出され背筋が冷えるほどの暗い闇に再び包み込まれると、
「たいがぁぁああ!!」
裂ける鼓動を声にしては引き戻すように全力で手を伸ばします。
鮮明な光が示す場所へ向かう為、暗闇の空間を足で蹴りあげて体を前進。
「ああぁああ!!」
目を覚ました少女は叫びました。
ここがどこなのか、そういうことを考えている場合ではありません。
漆黒の髪と瞳を持つ保住健児の襟首を掴むとそのまま走り出したのです。
単調な機械の音が激しさを増してきました。
間隔もないまま鳴り響き、地面に倒れている目元以外の体を布で巻きつけた男の腹部で赤い光を点滅させています。
狭い部屋を出れば目の前は硝子のない窓。
「うわ、せ、セツナ!?」
健児の声など耳に入りません。
窓枠を蹴って熱砂の外へと飛び出したのです。
「ちょっ、セツナぁぁああ!」
背後で熱い突風が巻き起これば、その勢いでさらに押されてしまいます。
数秒後、地響きのような轟音が廃墟となった施設から発生。
二階の壁が破損して砕け散った瓦礫も一緒に吹き飛んできました。
空中を飛び続ける二人。
セツナと呼ばれた紅玉の瞳をもつ少女はようやく相手を視界に映します。
「お前は……誰だ!?」
思っていた相手と違い、セツナは握っていた手を広げてしまいます。
先に地面へと落下していく健児。
「あぁぁあー!」
「あっ」
後を追うように落ちていくセツナは急いで健児の襟首を掴み直しました。
そのまま引き上げると健児を抱きかかえ、両膝を曲げて柔らかな砂の上に着地します。
顔を青ざめたまま頭を手で押さえている健児。
周りを見渡せば一面砂漠の世界でした。
どうやら遠くへ飛ばされたのでしょう、景色が揺らぐ蜃気楼のなかに存在する巨体な岩と岩の間で舞い上がる煙。
唖然としたままの少年を熱々の砂に落とすと、セツナは力なく座り込んでしまいます。
太陽の熱を浴びた砂を素手で握りしめますがどうしても掴みきれず隙間から零れて逃げていきました。
現実なのか、夢なのか、事実なのか、視界に映ってきた全てが混ざり合います。
「街は……どうなった?」
曖昧な記憶のなかに留められたレンガの街。
「その、街は」
言葉を濁す彼の態度に、表情を一切変化させることがなかったセツナは徐々に強張りはじめます。
腰には白銀の刀を収めている純白な鞘。
受け取った刀が今ここにあり、この刀で犯した行いが断片的な映像として駆け巡りました。
強烈に締めつける心臓によって意識がどこかへと飛んでしまいそうです。
衝動的に刀を鞘ごと掴むと力任せに投げ捨てました。
柔らかな砂の山に抵抗なく落ちた刀は太陽の光によってさらに照り輝いています。
頭を抱えてセツナは紅玉の瞳から涙を溢れさせながら唸り声を上げました。
「君のせいじゃない、あれはフレッドが」
「そんな、そんな……簡単なことか!!」
気持ちを紛らわすような言葉なんていりません。
セツナを支配する憂鬱な重み。
「こんな刀も、銃も、結局は命を奪うだけだ!! こんなもの、なんで……わたし、に」
持つ必要のなかった武器を持っていたことが何より不快で、セツナは亀のように蹲って泣き崩れてしまいます。
「とにかく、ここから出よう」
肩を優しく抱き寄せられ、ゆっくりと立ち上がりました。
主人に捨てられた白銀の刀を健児が預かることに。
容赦なく浴びせられる太陽の熱。
上下から熱されるのはとても耐え難いものです。
運がよかったのでしょう、飛ばされた場所は草原地との境目でありました。
一時間ほど歩いていけば砂だらけの地域から緑の草が生える草原地帯へ。
生暖かい風と日射しが降りかかりますが砂漠を歩き続けることを考えればまだ良いはずです。
汗まみれの健児は背広を脱いで白いシャツ姿でネクタイも緩めます。
セツナは真っ赤なマフラーと茶色いコートを脱がされていました。
自ら進んで歩く気配もないセツナ。
「もう少し歩けば湖の街だよ」
「……」
「湖の街にもレヴェルがいるから」
「っ!?」
セツナは組織の名前を聞いた途端、健児を突き飛ばしました。
よろけた健児は思わず目を丸くさせます。
「犯罪組織になんか、もう関わりたくない!」
泣きじゃくるセツナはしゃがみ込んでその場から動きません。
感情的になっている姿は駄々をこねる幼い子供のようです。
「もう……嫌だ」
あんなにも無表情であったセツナの顔はくしゃくしゃで、紅玉の瞳も疲れ果てて暗く沈んでいます。
驚いていた健児は笑みを浮かべてすぐにセツナのもとへ近寄りました。
「わかったよ、レヴェルには行かない。街で宿を探そう」
差し伸べられた手に泣きながら掴むと自らの力で立ち上がり、健児に寄り添って歩きだします。
悲しくて、つらくて仕方がありません。
鼻も目も真っ赤にさせて、鼻水が垂れてしまっています。
たくさん涙を流して嗚咽しながらも健児にもたれて歩き続けるセツナ。
湖の街に着くころには泣いたことがわかるくらい顔中が真っ赤ですが、泣きやんでいました。
いつものように無表情でいますが、泣いていたなんてことを知られるのが嫌で、セツナは真っ赤なマフラーを首から顔半分まで巻いて隠します。
街の中央には向こうの端が見えないほど広い湖。
名前はありません。
湖を囲むように建ち並ぶ木造建ての家々は景観を損なわないように自然の色と揃わせていました。
暑さからようやく解放された二人は早速宿を探す為に街を歩き回ります。
街の住民は倭人を珍しそうに見ては影からひそひそと喋っていました。
「おいおい、倭人さん」
一際大きい一軒家から顔を出したのは太っている男性。
揃えられた口と顎の髭、そしてスキンヘッドの男性は二人を呼び止めて手招きしています。
「宿探しているならうちにおいでよ、倭人なんて珍しいなぁ。倭国に帰ったら宣伝しといてくれ」
豪快に笑う宿主は二人を家の中へ。
狩りに使用する猟銃や鹿の剥製が壁に掛けられています。
「もう少し早ければ次期聖母様の姿を見ることができたのに、おしいねぇお二人さん」
次期聖母という単語にセツナと健児は目を合わせました。
「もしかして、カナンのことでしょうか」
宿主は嬉しそうに笑顔で頷きます。
「そうそう。よく知っているね! しかも聖女様は三代目聖母様の娘だ。こりゃまた聖祭は盛大に祝わないとなぁ」
セツナは目を細めて俯くとしばらく考え込みました。
透明に近い青空の瞳をもっていた聖女は今、赤く濁った瞳をしているはずです。
そんなに穢れてしまった彼女を聖母にできるのでしょうか。
聖母になることを望んでいたのでしょうか、セツナは疑問を浮かべてしまいます。
「部屋でゆっくりどうぞ」
鍵を受け取っている健児の袖を掴み、セツナは部屋へとついていきました。
木の香りが漂う部屋に設置されたベッドとテーブル。
「ちょっとは落ち着いた?」
健児の言葉に小さく頷いたセツナ。
「カナンのこと、気になるね。ヘレナも探しているみたいだし」
「……カナンが聖母じゃないといけないのか?」
「ううん、そんなことないよ。カナンはキングにいたから本当は候補から外されているはずだし、それに他の聖母候補は皆ヘレナが殺してしまった」
ヘレナが狂った科学者に依頼されていた記憶を脳内の隅から引っ張り出し、セツナは思い出します。
「他にいないのか?」
「いるのは、マリアと……あの子か」
「あの子?」
「首都にいるんだ。変な言い方をすると予備のクローン、かな」
セツナはクローンという単語に眉をしかめました。
壁に飾られている鏡にいる自身の姿を視界に映すと、紅玉の瞳がなによりも目立ちます。
健児の漆黒の瞳が羨ましく思えてついつい睨んでしまいます。
どれだけの攻撃に当たっても死なない、痛くない、苦しくない体。
セツナは自身の体を触って確認しますが傷ひとつありません。
生きている心地なんてしない肉体をもってしまったことが不快です。
「収容所にいた時、聖母について少しだけ習った」
「あそこで?」
「聖母を崇拝しているのは人間だけだって、なら迫害されているクローンから選ぶ必要があるのだろうか、初代は人間の女性マリアだったはず」
健児は苦い表情になって目を細めていました。
答えようとしない様子にセツナは再び睨んでしまいます。
「難しいね、とっても……迫害しているクローンが聖母で人々は何も知らずに崇めているなんてほんとおかしな話だよ。邪険に扱われてもクローンは必要不可欠だから」
セツナはもう一度、鏡に自身を映して紅玉の瞳を眺めました。
疲れ切っている瞳はどうしても、穢れているようにしか見えません。
こんな目を周囲に曝していると思えば嫌気が差して、マフラーで表情を隠してしまいました。
どうしようもないくらい自分自身が嫌いになりそうです。