第十七話
今、何時、何分なのでしょうか。
明かりを灯す物がなければ窓もない小屋の中。
暗闇では目を開けていようが閉じていようが変わりません。
黒い背広姿の少女ヘレナは呆然として横向きに倒れていました。
紅玉の瞳に無気力な表情、つややかな長い茶髪が乱れています。
頬や首筋につたう汗は思わず舐め取りたくなるほど。
動かないヘレナをよそに隣では壁にもたれて満足げな表情を浮かべる中年の男タイガ。
真っ赤な瞳を輝かせてはヘレナに卑猥な視線を送ります。
ヘレナは爪が食い込むほど強く右手を握りしめて、目を細くしました。
「……それで、貴様はルノー博士の助手をしていたのか」
「そういうこと、ルノー博士だけじゃないぜ? フレッド、主、モグラ、セレスティア博士の助手もしていたさ」
「クローンが助手をするなんて」
ヘレナは力なく失笑してみせます。
「元々俺のオリジナルがクローン研究をしていた奴だったからな、実験に失敗して死んだオリジナルを使って、フレッドが面白半分に作ったわけよ」
逞しい上半身の筋肉を露出させているタイガは腕に刻まれた数字を覗き込みました。
「02」と刻まれた腕を見ればすぐにクローンだとわかってしまいます。
タイガは鼻で笑うと、顔を天井へ。
「まだユリウスだったお前を実験体にした時も、まだ春香だったセツナを実験体にした時も俺はフレッドやルノー博士の傍にいた。だからお前らの過去も経緯も知っている」
「なら、どうしてセツナにカノンを殺させた?」
自力で上半身を起き上がらせ、タイガと同様に壁へと体をもたれさせました。
着衣が乱れて隙間から見えてしまった白い肌と黒がベースの下着。
タイガの視線はすぐにそこへと釘づけになりました。
「それは知らねぇよ、フレッドが勝手にやったのさ」
納得のできない答えなど求めていません、ヘレナは横目で睨みます。
「あーまぁー、大半は名誉挽回と権力のため、だろうな」
「好き放題私の体を弄り回したくせに、重大なことを知らないなんて」
ヘレナの下腹部に残る不快な異物感。
捨てたはずの羞恥心が体内から沸き上がってきました。
両腕で自らの体を抱きしめたヘレナ。
「……情けない」
力が抜けるように言葉を吐き出します。
壁に背を向けて丸くなり、瞳に浮かべているのは一粒の涙。
タイガは短い髪を手で掻きながらゆっくりと立ち上がりました。
「もう、朝かもよ。ヘレナちゃん」
暗闇のなか、手探りの必要もなくタイガはドアノブに触れました。
扉を開けると眩しい太陽の光が小屋へと射しこみます。
明かりのない場所から出てきた人間ならば手で目を塞ぎたくなるほどの眩しさですが、タイガは気にしません。
雲も流れない透明に近い空が広がる世界。
「ほらほら、ヘレナちゃん。聖女様を救いにいかないと」
元気の良い、調子のいい声で小屋にこもっているヘレナへと声をかけました。
狂っていたはずの表情はどこにもありません。
「砂漠地帯はいいぜ、最高に良い所だ」
大空にまでと精一杯全身を伸ばし、太陽のエネルギーを思いきり浴びます。
正反対の世界にまだこもっているヘレナは乱れた背広を直しながらようやく立ち上がりました。
転がっていた刀を二本、腰のベルトに差して、くしゃくしゃになった長い髪を後ろで束ねて結い直します。
真っ直ぐに映る紅玉の瞳は既に消え、今映るのは力のない瞳。
怒りを通り越し、ヘレナは諦めた様子でタイガに何も言う事はありません。
達成しなくてはならない大切なゲームがまだ続いているのです。
ヘレナは先頭に立ち、目指すべき場所へと向かい始めました。
人がいなくなった村から立ち去って一面草原の平野を歩き続けること数時間。
大地に強く根を張り生えていた草が徐々に薄くなり、次第に土が露出している部分が多くなります。
太陽の陽射しが強く、遠くの景色が揺らいでみえました。
そして草と地面の境目には頑丈な壁をもつ街。
鉄製の大きな門に並ぶ武装した兵士が二人、ライフルを手に構えて辺りを警戒しています。
日射し避けのため頭部に布を被り茶色系の軍服に身を纏う。
「いやぁ、やっと帰ってきたなぁ。俺達の故郷だ」
タイガは自らの肉体に語りかけ、懐かしそうに笑みを浮かべました。
「問題はあの門番が通してくれるかどうか、だな」
「政府軍がどうしてここに? 無法地帯の砂漠にいるなんて聞いたことがない」
「これはどこかのクローンが軍最強の装甲車を破壊したり、狂った科学者が政府に余計なクローン撲滅を煽ったり、倭人のクローンが聖母殺害なんて恐ろしい事件を起こしたのが原因だと俺は思っている」
ヘレナは苦い表情で口を閉じます。
「ま、特定の条件さえこなせば入れてくれるでしょ」
「条件?」
まぁ見ていろと、タイガは街の入り口へ。
当然、政府軍兵士はクローンがこちらへやって来ることに警戒します。
ライフルの銃口をいきなり向けられ、タイガは両手を頭より上に挙げました。
「街に入りたいけど、ダメ?」
満面の笑みを惜しみなく政府軍兵士に浴びせるタイガ。
二人の政府軍兵士は顔を見合わせるとおかしそうに笑ったのです。
「お前、自分が一体なんなのかわかって言っているのかよ」
「腕の数字に赤い目、どう見たってクローンだ。ふざけているのなら牢屋にぶち込むぞ」
「おー怖い。お願い、なんでもするからさぁ、用が済んだらすぐ出ていくよ」
なんでも、その言葉に注目した政府軍兵士は軽く首を揺らして頷き、ライフルの銃口でタイガを押し出そうとしました。
ですが人間程度の力では岩のようなタイガは動きません。
政府軍兵士の方が跳ね返ってしまいます。
首を傾げつつ、兵士は眉間にシワを寄せて睨みました。
「このクソが……砂漠にクローン収容所がある。そこへ行って狂信者共を片付けたら通してやるよ」
余裕の表情を浮かべながら、ヘレナのもとへ。
「クローン収容所ってとこに狂信者がいるそうで、さっさと片付けてこいってさ」
「はぁ、また遠回りか。時間がないというのに」
「まぁまぁ、いいじゃないの。首都は逃げないさ」
どこまでも調子の良いタイガに、ヘレナは頭を抱えてしまいそうです。
タイガは先頭に立って悠々と常人には耐え難い砂漠へと足を進めていきます。
「……そういう問題じゃない」
小さく呆れた声でヘレナは吐息とともに呟きました。
続。