第十四話
人を殺める行為が許されるか、許されないか。
この世に生を受けて十八年目の少女、ヘレナは今更考えていました。
紅玉の瞳に映るのはアドヴァンス教会の中を逃げ回る街の住民と信者達。
武器も持たず抵抗もしない人間に対して自らの両手に握りしめられた刀を振れば、どうなるのだろうかと、全身から疑問と欲望が溢れていました。
脳内で予想してみればすぐに大惨事が起きることはわかるはずです。
今、この時も街では自然の摂理を守ると声を発し、クローンを虐殺する武装信者達が巡回をしていました。
教会の内側まで響き渡るアサルトライフルの銃声。
騒音など気にせず凛とした表情、長い茶髪を後ろで結い、歩くたび揺らしています。
黒い背広姿は男に負けません。
「く、クローンが教会にいる、誰か、助けてくれぇ!」
中年の男はヘレナに背を向けて鍵が閉まった扉を何度も叩いていました。
扉は開きません。
ヘレナは漆黒の刃を鞘に戻すと、右手で男の襟首を引っ張ります。
至近距離で目を合わせてしまった男は真っ赤な瞳に石化でもされたかのように、かたまってしまいました。
「カナンはどこだ?」
呟かれた声、男は唇を震わしてその問いに答えられずにいました。
「知っているか、知らないかを答えろ!」
「し、しし、知りません!」
思わず裏返った高い声で答えてしまう男。
ヘレナは苦い表情で男を手から放しました。
腰が抜けてしまった男はその場で座り込んで身動きもできません。
「無益な殺害なんて、意味はない……意味はないのに」
自身にしか聞こえない小さな声。
男を今から殺害して、住民達が閉じこもっているはずの扉の向こうへ投げ込めば、犯罪組織の恐ろしさを再度認識させることができます。
ですが、クローン迫害をさらに激しくさせることも可能です。
ヘレナは目を強く閉じて、空っぽの右手を握りしめました。
全てを失ったことで、ヘレナは混乱しているのです。
親しい仲間を自らの手で殺めたことが何より不快です。
ヘレナは左手にあった灰色の刃も鞘に戻し、男を一人残して別の場所へ向かいました。
教会内は広く、中央の聖堂だけでも百人以上は入れます。
武装信者の為に建てられた宿舎ともつながっていました。
街でクローン迫害を楽しんでいるのでしょう、教会には誰も残っていません。
宿舎よりさらに奥には聖職者達の部屋がありました。
部屋の扉は既に開かれ、室内を覗きますが誰もいないようです。
テーブルの上に用意された様々な果物、書類、束になった紙幣や金貨。
壁には高価な金が貼りつけられ、絨毯も上等な毛皮を使用した物です。
ヘレナは誰もいないことを確認し、次の部屋へ移動しようとしたときでした。
「お、お前はキングの、あの特殊クローンではないか!」
アドヴァンス教会の副神官を務めている男と対面します。
服装は信者からの寄付金を使用し、黄金色の布で織られた特注品のローブ。
惜しみなく宝石も散りばめられ、豪遊している様がすぐに思い浮かんできました。
「カナンはどこだ? 知ってるんじゃないのか!」
ヘレナは左右に差した刀の柄に両手を添えた状態で尋ねます。
「あんな小娘なぞ、穢れを知ってしまった以上用などはないわ! ここにはおらんぞ」
「ここに、カナンがいない? ならどこなんだ、カナンは一体どこへ」
ヘレナは首をゆっくりと横に振り、悲痛な表情でうつむきました。
「と、とにかく教会から出ていけ、この街から出ていくんだ! クローンの住む場所なんてあるものか」
副神官は声を上げ、重そうな服を引きずりながら速足で逃げていきます。
「ふ、副神官様」
いきなり副神官の前へと立ち塞がって現れた血まみれの武装信者。
「な、ななななんだ急に、驚かすな!」
顔面を覆うゴーグルと耳垂れがついた防寒用帽子を被り、緑一色の制服を着ています。
表情はわかりませんが、体を凍えるように震わしていました。
「フレッド博士が、フレッド博士が……」
「あのイカれた科学者が、なんだね」
ヘレナはフレッドという名前を聞いた瞬間、顔を前に上げて武装信者の声に耳を澄ます。
街から鳴り響いていたはずの銃声はいつの間にか消えていました。
正確な時刻はわかりませんが、外は雨が降っている様子で、淡い水色の窓ガラスには雫が何滴も付着しています。
曇り空は一向にこの街から去っていきません。
「地下で、首を何者かに刎ねられて殺されて……いました。他にもクローンが数人、八つ裂きにされて、地下は体の一部が散らばり血だらけ、です。倭人のクローンが、化け物のように暴れていま……す」
武装信者は説明を終えたと同時に力なく前へと倒れこみました。
「な、なんだ!?」
背中には鋭い刃物で切り裂かれた痕があります。
酷い出血で武装信者は眠るように息を引き取りました。
「フレッドは教会にも手を貸していたのか、どういう関係だ!?」
整理もつかない状況で副神官は、ヘレナに両襟を掴まれて壁に押し付けられてしまいます。
「う、ぐううぅ」
首も圧迫されうまく呼吸できず答えることもできません。
顔を赤くさせています。
「しかも倭人のクローンだと? セツナが人を殺していると!?」
「し、知らん、たす、け」
このまま続けていれば、この副神官の息を止めることが可能です。
両足が浮き上がり、酸素を求めて暴れますが、抵抗もむなしく空中で足が動いているだけです。
両襟を掴んでいる手を外そうとしていますが、特殊クローンの力は計り知れません。
もがいていた両手足は次第にゆっくりと揺れるだけ。
首を圧迫させて殺そうとしているヘレナ。
「っ」
ヘレナは歯を食いしばって、副神官を石の地面へと投げ飛ばしました。
頭から着地してしまい、口から涎を垂らして気を失います。
「保住は!」
教会に用がなくなったヘレナは、思い浮かんだ倭人少年に会う為走り出しました。
まだ逃げ回っている人間を置き去りに、ヘレナはレンガで造られた街へ。
クローンの遺体が転がっているなか、武装信者と思われる肉体も地面に落ちています。
目を伏せたくなるほどの悲惨な光景が広がってきました。
破損の激しい武装信者の死体や逃げ遅れた住民の無残な最期。
何を踏んでいるのかわからない感触が足から伝わってきます。
「保住! セツナ、アル、マリア、主、どこにいる!?」
血の雨が降ったかのように真っ赤な液体が地面を染めていました。
空から降り注ぐ恵みの雨も地面を濡らして対抗しています。
まるで孤独になったような錯覚に襲われたヘレナは周辺に転がる同類の仲間と敵対すべき武装信者の遺体に囲まれているのに気づき、背筋から悪寒を走らせました。
「カナンは、一体どこにいる!!」
独り言を街全体に怒鳴り声で響かせます。
今にも両目から溢れそうになる透明な雫を落とさせないよう顔を暗雲へ。
「ヘレナ、大きな声を出しちゃいけない」
ようやく違う声が聞こえてきました。
内緒話でもするような小声を、ヘレナの背後から発しています。
優しい、落ち着いた少年の声。
漆黒の瞳と髪、幼い顔立ち、倭人特有の容姿を全て持っているのは、保住健児でした。
ヘレナと同じ背広姿で、右手には自動式拳銃があります。
口元から零れた笑み、ヘレナは振り向かなくても健児だとすぐに理解できていました。
「君の核はもう長くもたない、これ以上危険なことはさせたくないんだ、レヴェルへ戻ろう」
冷めきった心を温かくさせてくれる言葉が、非情に思えた途端、口元は固く閉じられます。
「それは、仲間としての心配なのか、それとも」
「ヘレナ? 皆心配している、戻るんだ」
求めていた答えとは違う、ですが、一体何が正解だったのかもわかりません。
ヘレナは小さく首を左右に振りました。
「カナンは、どこだ?」
「あの子は、政府に売られた。ガイ達から何も?」
「なんだと、ガイは出て行ったとしか言わなかった!」
溜めていた雫が俯いたと同時に瞳から頬へ、そして顎へとつたって、地面へ落ちていきました。
一呼吸おいて、ヘレナは呟きます。
「じゃあセツナは?」
「わからないんだ。どこに行ったのか、姿も見えない。せっかく会えたのに」
ヘレナは自然と眉に皺を寄せてしまう。
胸を圧迫させるほどの締めつけがヘレナを襲います。
ですが今は、するべきことをしなければならない。
「探してくる。先に戻っていろ」
「また君は」
「帰ってこなかったら、探せばいい。もちろん、死ぬ気なんてないぞ、私は」
言葉を遮ったヘレナは苦笑しながら離れていきます。
決して健児へ顔を向けません。
伝えたい言葉は沢山あるはずでした。
体全てを前進させて、健児から離れていきます。
いつ、何が襲ってくるか分からない状況の街。
崩れたレンガが通路に散らばっています。
建物のドアも壊されて、住んでいた人の生活が覗けてしまう。
ヘレナが民家の前を通過する寸前でした。
「どけ!」
いきなり飛び出てきた見知らぬ男性。
ヘレナはすぐに後ろへ下がり、相手を確認します。
男性の赤い瞳はクローン特有の色でした。
腕に刻まれた数字が言い逃れのできない事実。
男性はヘレナと目を合わせると、動きを止めました。
「あ、あんたもクローンか!?」
ボサボサの短髪に精悍な顔立ちをし、いくら縫い直しても破れてしまう薄いシャツと黒いズボン姿です。
顎には不揃いな髭が伸びています。
「こんなところを武器も持たずに歩いていると武装信者に殺されるんじゃないのか、貴様」
「おっと悪いな、俺を他のクローンと一緒にされちゃ困る。これでもあの邪教共と戦える力はあるんでな」
丸腰の男性にそう言われても、ヘレナは信じられません。
両腕を前で組み、相手を睨みます。
「まぁ、息子に武器を渡しちゃってね、無いのは確かだ。だが素手でも倒せるよ」
ヘレナは呆れて肩をすくめました。
「貴様は倭人のクローンがどこにいるか知っているか?」
「ああ、知ってるよ。あのイカれた科学者に薬を盛られたクローンがうろついてるから、あんたこそ気を付けな」
男性の言葉に、ヘレナは隙を与えることもなく飛びつきます。
「姿を見たのか?」
両襟を掴み、壁に押し付けると、脆くなっていたレンガの壁が一部崩れてしまい男性の頭へ破片が落ちてきます。
「イテテテ! 見た見た、刀を持って振り回してんのを!」
正体が明確に出てきたことをヘレナは考えたくありませんでした。
殺しを嫌う友が今、切れ味のいい刃物を持って会う人間、クローンを切り裂いているのです。
友人と思える存在が、今も。
「そこへ案内しろ!」
「あ、ああ、わかったから、離してくれ」
男性を手から解放し、自身より前へ進ませます。
「あんた、名前は?」
「そんな質問はあとにしろ」
面白くない、男性は肩をすくめて指示された通りに前を歩きました。
そのあとも男性は、ヘレナに歩きながら質問していきますが全て無視されてしまいます。
教会から遠くに離れた街の正面入り口付近。
鉄分の臭いが先ほどよりひどく、鼻をつまみたくなります。
「どこだ、どこにいる?」
ヘレナは右、左へ何度も視界を動かします。
「確かここら辺にいたよ、地下通路から出てきたんだ。イカれた野郎の首を投げ捨てて、逃げ回るクローンを刺して、信者の肉体を切り刻んで、怖いね薬ってのは」
「薬?」
男性は腕を腰に当てて、自信をもって答えます。
「そりゃ、よくある興奮剤みたいなもんさ。普通の人間にならただの麻薬、だが俺達クローンに使用すれば、こういう事態になる」
男性は息を深く吐いて、肩を落とします。
「俺もフレッドによって造られたクローンだ。短命なはずが何故か予定の寿命より生きているけどな」
ヘレナは表情を険しくさせました。
「ちょっと黙ってないで何か言って……」
続きが出てこない、ヘレナは男の顔を覗き込みます。
先ほどまでのお気楽な表情とは遠い冷めた目。
「いた」
人差し指がゆっくりとヘレナより後ろへ向けられました。
男に背を見せて、示された場所を確認します。
曇り空で隠れているというのに、太陽に照らされたように輝く白銀の刃。
軽く触れただけも斬れることは間違いありません。
鋭い刃先から手に持つ柄まで血液が染み渡っています。
刀の所持者は紛れもない、倭人の少女でした。
セミロングの黒髪、幼い顔立ち、瞳は獣のように変化し血液より濃く黒い。
首元に巻かれた真っ赤なマフラーだけは汚れていません。
「セツナ」
既に二人を獲物と断定し、捉えている様子。
「ヤバいな、死ぬ前に名前を聞かせくれよ」
男は瓦礫の上に座り込みます。
「誰が死ぬと決めた? 貴様も戦えるのならやれ!」
「武器なんてないぜ」
両手を挙げて何もないことをアピール。
「さっさと刀を受け取れ!」
ヘレナは灰色の刀を男へ放り投げます。
慌てて受け取るともう目の前にヘレナはいませんでした。
残された微かな甘い香りと、風。
その場に取り残された男は鞘から灰色の刀身を抜きます。
切れ味が鋭いようにはみえない印象をもつ刀で、指を刃先から下へなぞっても問題はありません。
男はすぐに得体の知れない刀がどういう物なのかを理解できました。
「こりゃ重罪だぜ、あんた」
呟くも本人に声など届かず、駆け出して行ったヘレナを男は視界で追いかけます。
漆黒の刀を手に、切っ先から遠慮なく斬りこむつもりのヘレナ。
瞳孔を瞬時に獣の目へと変化させ、全ての動きをスローモーションに映しました。
ですが、その世界は数秒も持たず打ち消されてしまったのです。
「効かないだと!?」
それでも刃先は、ただ立ち尽くすような形で動かないセツナへ触れる寸前。
双方の刃先と刀身が交じり、耳を塞ぎたくなるほどの共鳴音が響きわたりました。
以前と同様の電流が刀から走り、手を痺れさせたヘレナ。
瞳孔がもとの形へと戻ってしまい、すぐに距離を取ります。
感情など読み取ることもできないセツナの表情。
少し唇を上向きにして口元だけが笑みを浮かべているようにみえました。
「戻す術など私は知らない。こんな私にできるのは貴様を楽にしてやることだけだ」
クローン特有の能力が使えなくとも、倒せるはずと。
セツナは相手が誰なのかを認識することもできない。
ただ二人は刀を、命を奪う物として振るうのです。
遠くから傍観者として立ち尽くす男は戦闘に参加する隙もわからず、灰色の刀を持て余していました。
「なんだかな」
お気楽な表情も冷めた目もせず、精悍な顔つきで二人を眺めるだけです。
「貴様! そこで立っている暇があるなら戦え!!」
男に背を向けているのに関わらず、ヘレナはその姿に苛立ちを頂点にさせて男へ声を荒げました。
「あー、こわい女」
刀の柄をしっかりと握りしめた男は独り言を何度も呟いて、二人の元へ走り出します。
それに気付いたセツナは狙いをヘレナから男へ。
「おいおい、こっち見るなよ」
「殺せ! 無駄口を叩くな、殺せ!!」
少しでもふざけた言動や行動をすれば待っているのは無残な結末であること、ヘレナはまたも怒鳴ります。
白銀の切っ先でヘレナを刀ごと払いのけ、セツナはクローンの動体視力さえ無視するほどの速さで立ち塞がりました。
男が刀身で受け止めようとしますが、セツナに力負けして押されてしまいます。
「おっ、わ」
刃先が男の鼻を斬りつけました。
綺麗に横一線を描いて男の鼻に傷跡を刻んだのです。
何も掴んでいない左手で顔を覆い、噴出する血液と絶えない痛みをおさえようとしますがどうにもなりません。
その隙に背後からセツナを斬りつけようとするヘレナですが、刀を握っている左手を背に回したセツナに、いとも簡単に受け止められてしまいます。
そのまま体を振り返らせ、漆黒の刀を受け流したセツナ。
「役立たずか貴様は、早く態勢を立て直せ!」
いつまでも痛がっている男へ飽きることなく吠えました。
「悪いけど俺じゃこの刀は使えねぇって、子どもを殺すことなんてできないぜ」
男は刀を落としたのです。
「どういうつもりだ!?」
ヘレナはセツナを押しのけて距離を無理にでも取りながら、戦うことを放棄した男の行動を問いました。
「こんなんでも父親だよ、俺は」
その言葉が何よりもヘレナの平常心という形を崩そうとしています。
親という単語が不快で、仕方がありません。
この男を切り刻んでしまいたい、その感情が湧いてくるのです。
ですが、
「なら、さっさと逃げてしまえ! もう用はない!!」
最後の理性を保ち、ヘレナは戦いへ再度駆け出してきました。
刃を重ね、鈍い音と電流を走らせながら何度も交じりあいます。
どちらも傷をつけることすら叶いません。
「私は殺される気なんてない、カナンを探すまでは、核が尽きても、だ」
ヘレナの呟きが聞こえているのかわかりませんが、セツナは時折目を細めたり、眉をしかめたりと、表情に変化があります。
漆黒の刃と白銀の刃が同時に横へ一閃を描きました。
電流によって飛び散った火花。
ぶつかり合った衝撃で二人は後ろへ下がります。
クローンといえどまだ十代で、人間だった少女達。
セツナは興奮剤を体内に注入され、望まぬ殺戮を繰り返す。
それを止める方法は息の根を止めることしかできないのでしょうか、ヘレナはそれ以外のやり方を考えている場合ではなかった。