第十話
建物全てがレンガで造られた街でのことです。
既に太陽は沈み、少し欠けた月がもうすぐ真上を通るところ。
無限に広がる星が濃厚な青空に点々と繋がっているかのように浮かんでいました。
もうすぐ気温が高くなる時期に差し掛かってきたはずですが、セツナは気にせず首に真っ赤なマフラーを巻いています。
紅玉の瞳を曇らせ、元々無表情であるセツナはさらに虚無感を抱いて高級なソファーに蹲っていました。
街の端に建造された豪邸と呼ばれる三階建ての邸宅。
乗用車五台が駐車できるスペースと後ろには動物も自由に走り回れる広い庭があります。
ここだけが街とは別のような世界。
「休まったかい?」
二階の寝室、倭人の保住健児が黒の背広姿で笑顔のまま扉を静かに開けて入ってきます。
返事をするつもりがないのか、それともする気力がないのか、セツナは顔を両手で覆う。
健児は漆黒の瞳を細めて、彼女に近寄っていきました。
「なにか思い出したことはあるかな?」
セツナは答えません。
「ソファーじゃ体も休まらないし、ベッドで寝ていた方がいいよ」
優しい言葉を無視してセツナは腕で顔を隠します。
「そういえばジャンの埋葬に」
「黙れ」
セツナの口が動いたことに健児は一度驚きますが、すぐに笑顔へと戻りました。
「やっと声を出してくれた。一週間振りかな」
セツナはすぐに唇を噛み締め、顎を引っ込めるとマフラーで口元を隠します。
また無言になったセツナに、健児は真面目な顔つきで同じソファーへ腰を座らせました。
「いつまでも黙ったままじゃダメだよ、アドヴァンス教会はクローンを当然狙っている。戦わないといけない」
表情を隠しているセツナへと視線を向けます。
「君一人だけじゃない。ヘレナや俺も皆やらないといけない」
「なら私に何をしろと……」
まともな返事があったことで健児は口元に笑みを浮かべながらも、それを噛み締めます。
「君がやるべきことは君自身が知っているはずだよ。俺はそれをサポートするし、その為ならレヴェルの全てを動かす」
物騒なことを言う健児。
「お前は知っているのか、私がどうしてここにいるのか」
「うん、全部知っているよ、はる、セツナ」
名を呼ばれたセツナは口を半開きにさせて、間を置きます。
両手を額の方へ寄せて、視界を隣に座っている健児へ。
そこに映ったのはただひたすら真っ直ぐにこちらを見つめている健児の顔。
すぐにセツナは両手を瞼の上に覆いました。
「春香、それが私の本当の名前?」
「うん、片桐春香、君がクローンになる前の本名だ」
本名を知ったところで何も感じないのでしょう、セツナは無言を貫きます。
「知りたいことがあるなら俺に何でも聞いてほしい。少しでも君がやるべきことに近づけるなら、ね」
優しい落ち着いた声、セツナの肩に余分な力が入ってしまいます。
「家を燃やしたのは?」
「モグラは少人数の組織だから、しかもこの前セツナが倒したメンバーが全員だった。君を憎んでいる者か、もしくはアドヴァンス教会か」
実際誰だっていい、セツナはマフラーを左手で握りしめました。
「ヘレナが帰ってくるまでもう少し待つかい? 君とヘレナがいれば無敵だ」
これまで何回か耳に入ってくる、セツナも知っている少女の名前。
「お前はヘレナのことを知っているのか?」
「うん、三年前くらいに知り合ったんだ」
セツナは健児から視線を外して何もない純白の壁に顔を向けました。
「今じゃ立派な戦士だけど、初めて会ったときは大金持ちのお嬢様って感じだったよ」
苦笑いをした健児は眉を下げます。
「お嬢様?」
「うん、クラウベルっていう有名な銀行家の元で生まれたお嬢様だったかな。不治の病で売られて、フレッド博士達のクローン実験で特殊クローンになったって聞いたかな」
セツナは上体を起こして健児を睨みました。
「お前は苦手だ、嫌い。ヘレナのことを私はよく知らない、私は私のことも知らない、よくわからない」
感情の起伏さはありませんが、恨むように言葉を吐きだします。
健児は目を丸くさせて、すぐに笑顔を浮かべました。
「昔は昔だよ、セツナは今の自分を知っているんだから気にしなくていい。過去のことなんて……いらないよ」
最後だけ声を小さくして、健児はセツナの左手を掴みます。
セツナは眉をしかめてすぐに左手を引き抜こうとしますが、想像以上に力が強く、自身より非力そうな健児を軽く睨んでしまいます。
「やめろ、なんのつもりだ?」
「でも、でもどうしても俺の頭から春香の笑顔が消えてくれない。セツナ、俺は……」
徐々に身を乗り出して迫ってくる。
まるで何かを期待している、もしくは何かをしようとしている。
左手で健児の顔を押さえますが、すぐに掴まれて両腕が動けない状態にされてしまいます。
これまで以上のなにか危機感を覚えたセツナは突然、
「離せ!!」
獣のような眼光で今日一番の大きい怒声で吠えました。
セツナの拒絶反応を確認した健児は口を下げて表情を固めてしまいます。
ゆっくりと掴んでいた左手を離し、ソファーに座りなおしました。
「やっぱりもう、俺の知っている春香はいないか」
静まり返った部屋、二人の呼吸音も耳で拾えます。
微かに遠くから短い間隔で響く発砲音が聴こえてきました。
女性の叫び声や男の激しい罵声が途切れながらも街中で響かせていました。
「ほぉい、健児いるかねー」
騒がしい音を掻き消したドアの向こう側から枯れきった男の声が。
「はい」
健児はすぐに立ち上がってドアを開けました。
廊下には杖を両手に体を震わしながら腰を曲げている老人が一人。
胸元まで生やした顎鬚の方が頭髪より多い気がします。
「主、どうしました?」
「いつの間にこっちに来ていたのか、部下が教えてくれるまで知らなかったぞ。ちゃんと連絡してくれ、んん?」
主と呼ばれた老人は健児の後ろへ体を傾かせて覗いていました。
「特殊クローン、かの。いいところにおった。ヘレナが別の任務で不在だったもので困っていたのでな、護衛を頼まれてくれ。今から街の外で部下が別の組織と取引をするので裏切りや違反がないか見張ってほしい、もちろん健児も、それを伝えたかったのだ。じゃあの」
伝えることができたことに満足した様子で主はゆっくりと廊下を再び歩いていきます。
残された二人、健児の視線がセツナへ向けられました。
黙っているセツナは少し眉をしかめてソファーから離れます。
微笑む健児、無表情のセツナ。
「セツナ、街の外まで一緒に行こう。途中で君は離れて監視、もし何か疑いのある行動をした奴がいた場合君の思ったように対応してほしい」
返事をすることもなく、セツナは健児を通り越して部屋を出ました。
健児は内ポケットから取り出した自動拳銃を腰のホルスターへ装着。
愛する彼女の背中を追って、ゆっくりと街の外へ。
街の外には既に背広姿の厳つい男達が待っていました。
全員健児の仲間でもあります。
「ボス」
健児に向けられた言葉。
気に入らない様子で健児は困惑した表情を浮かべます。
「ええと、何?」
「今回の件、相手は教会の者です。怪しくありませんか? 先日鎮静剤を通常の値より倍で買うと言い出し、主はそれを簡単に承諾したので……私共はあまり賛成できないのですが」
「主が承諾したなら従おう、それが一番今の生活を安定させることができる最良の選択だよ」
「わかりました」
厳つい男の表情は黒いサングラスで隠れてわかりにくいですが、口元は下向きでした。
「やれやれ、人数が多いではないか? 随分疑っているようだな」
金が強調された礼服に身を包んだ白髪が目立つ男の姿が真っ暗な世界に現れます。
長く生やした顎と口の髭、頭部に金の冠。
その男の後ろには二人の武装信者が護衛役として同行していました。
「副神官が教会の仕事をそっちのけでここに来る方が不思議です」
「これも重要な仕事なのだよ。私は忙しいのだ、無駄はやめて話を進めようか」
厳つい男が両手に抱えている木箱。人間一人が簡単に入れるほど大きいです。
健児の手招きで厳つい男は副神官の前へ進みました。
後ろにいた武装信者は何も言わずにその木箱を受け取ります。
武装信者二人は中身を確認して副神官へ報告。
「よし、約束の金だ。受け取れ」
服の内側から取り出したのは分厚い封筒三枚でした。
「ごめん、計算してくれ」
「はい」
健児は部下へと封筒を渡し、副神官を軽く睨んだまま立ち尽くしています。
「それと、レヴェルに相談なのだがね。クローン撲滅運動に参加してほしいのだ」
「そのことは主に直接お願いします。俺には選択権なんてありません」
「最近キングと密会しているという報告がこっちに来ている。それは教会とレヴェルの条約に違反しているのだ。二人組のクローンのせいで教祖様はおかしくなられたのだぞ、クローン撲滅に協力すると約束したくせに、聖女様が穢れたという噂も聞いた。出来損ないのマリアのせいでな、教会は今混乱している、貴様らの飼い主と呑気に話している場合ではない!」
健児は溜息を吐き出しそうになりました。
副神官の顔が険しくなるのがわかります。
厳つい男達は歯を剥き出しにして戦闘態勢に入ろうとしていますが、健児は軽い挙手でその態勢を止めさせました。
「今回は取引だけです。返答もできません。終わりましょう、副神官」
先に後ろへ足を進んだのは健児達。
足早に去っていく姿を憎く睨む副神官は両手を震わします。
何もしてこない教会の様子に健児は少し微笑み、街を囲む壁の上に顔を向けました。
そこには何一つ変わらない無表情のセツナ。
「レヴェルは無駄な争いはしないよ、ちょっと今回のは危なかったけどね。安心してほしい」
「そう……」
紅玉の瞳を細めて副神官達がまだ残っている場所へと視界を映します。
得体の知れない教会の人物。
クローン撲滅運動がどういうことなのか、セツナはまだ理解できていません。
無血で終わらすことが正しいと思っていいことなのか、なら何故刀が手にあるのか、疑問が疑問を連想させてセツナは眉をしかめます。
「ゆっくり考えよう」
健児の優しい言葉にセツナはもう思考を巡らすのを中止しました。
「ヘレナが戻ってきたら聞こう……」
「うん、それがいい」
二人だけの会話を終わらせて、健児は主が待つ邸宅へ向かいます。
セツナも別の道から邸宅へと向かっていきました。