その切っ先が、この胸を貫くまでは。 ~敵として再会したその日まで、俺は君を忘れていた~
――北方戦線・グレイヴァルト城塞跡。
雪が降っていた。
焼け落ちる城にも。
死体が積み上がる城壁にも。
血に濡れた剣にも。
灰と血臭が染みついた戦場へ、雪だけが無関心な顔をして降り続けている。
俺は崩れた石畳へ膝をつき、込み上げてきた血を吐いた。
熱い。
肺が焼ける。
左腕は、もうほとんど感覚がない。
鎧の隙間から流れ込んだ血は、とっくに冷え切っているはずなのに、身体の芯だけが異様に熱かった。
立っているだけで精一杯。
それでも。
目だけは逸らせなかった。
十歩先。
崩れた城門の前。
そこに、一人の女が立っていた。
銀の長剣。白銀の長髪。黒い軍装。
そして――
たった今、残っていた味方兵全員を斬り伏せた女。
吹き荒れる北風と雪を浴びながら立つその姿は、まるで北境そのものが人の形を取ったみたいだった。
北境反乱軍第一軍・総軍長。
――《蒼い瞳の白狼》。
王都軍が長年追い続けた反乱軍の象徴。
――そう教えられてきた。
だが、初めて見るはずのその顔を、俺は知っている気がした。
いや、違う。顔じゃない。
もっと奥だ。
蒼い瞳。
雪へ落ちた白いマフラー。
雪道へ残った、二人分の小さな足跡。
幼い頃から、いつも隣にいた。
雪玉を投げ合い、川へ落ち、山を転がり、怒られ、腹が減ればどちらかの家へ勝手に入り込んでいた。家族みたいなものだった。
朝から日が暮れるまで一緒にいて、それが当たり前だった。
だから、離れるなんて考えたこともなかった。ずっとこのままだと思っていた。
重たい荷車。
父親の背中。
「もう行くぞ」
あの日も雪が降っていた。
父に連れられて村を離れる日、荷車が動き出した時、彼女は転びそうになりながら雪道を走ってきた。
「行きたくない!」
泣きそうな顔、白い吐息、差し伸べられる小さな手。
俺も必死に手を伸ばした。
指先が触れる。冷たい。
その瞬間だった。
「もう時間だ」
父に腕を掴まれる。
声を上げて泣き出した彼女。
彼女も手を必死に握り返してくる。
だが、大人たちは俺たちを無理やり引き剥がした。
指先だけが滑る。
冷たい。
小さな手の感触だけが、するりと消えた。
俺は泣きそうなのを隠すみたいに笑った。
――泣くな。大丈夫だから。
――またきっと会える。
そう言った自分の声だけが、なぜか耳の奥へ残っている。
割れた鏡の破片みたいな記憶。
繋がらない。掴めない。
思い出そうとすると、胸の奥が鈍く痛んだ。
いや、違う。
思い出せなかったんじゃない。
――思い出したくなかったんだ。
俺はいつだって、ヒーローでいたかった。
だけどあの日。
泣いている彼女を前にしても、俺はただの子どもだった。
何一つ守れなかった。
だから蓋をした。
王都軍へ入り、剣を握って、戦場を駆けた。
強くなれば、
あの日の無力な自分も許せる気がした。
けれど。
思い出した瞬間。
積み上げてきたものの下に埋めていた後悔が、無理やり掘り返される気がした。
女が静かに剣を抜く。
銀色の切っ先が真っ直ぐこちらを向いた。
その瞬間、蓋をしていたはずの何かが、胸の奥で疼いた。
「……ようやく、会えましたね」
その声は、再会を喜ぶ声じゃなかった。
長い時間をかけて辿り着いた答えが、
最悪だった――そんな声だった。
「忘れてしまったのですね……」
雪が降る。
積み上がる死体の上にも、
王都軍にも、反乱軍にも、互いに向けた剣にも。
生まれた時代も。
生まれた場所も。
幼かったあの日も。
笑った時間も――たぶん、同じだった。
ただ、育った時間だけが違った。
それだけで。
俺たちは敵になった。
女が雪を踏む。
キュッ――
小さな音。
次の瞬間、姿が消えた。
速い。
反射だけで剣を持ち上げる。
ギィィィン――ッ!!
火花が散る。腕が痺れる。
重い。細身の剣とは思えない。
二撃。
三撃。
遠くで怒号や、反乱軍の雄叫びが聞こえる。
だが、俺たちの周囲だけは、まるで切り取られたかのように静かだった。
――その静寂を切り裂き、銀の斬撃が雪を裂く。
見えない。
いや、見えている。
なのに身体が追いつかない。
踏み込み。肩の捻り。剣筋。身体だけが先に覚えていた。
なんでだ。
この気配も。
雪の向こうから届く微かな髪の匂いも。
俺は知っている気がした。
女が踏み込むたび、距離が消える。
吐く息が混ざる。
目が合う。
近すぎた。
敵を斬る距離じゃない。
それは、昔から知っている誰かと殺し合う距離だった。
だから。
俺も剣を振った。
首、胴、脚。
躊躇を殺す。
感情を押し潰す。
ただ生き残るためだけに、剣を振るう。
血が散る。
その最中、蒼い瞳が揺れた。
ほんの一瞬、悲しそうに。
彼女の視線が背後へ流れる。
守る者たち。
彼女の背負うものが、一瞬だけ見えた。
女は踏み込んだ。
俺の足が滑る。
砕けた石。
崩れる体勢。
しまった、と思った時には、
銀の切っ先が喉元へ届いていた。
あと数寸。
それだけで終わる距離。
だが、女は止めた。
白い吐息が揺れる。
「……どうして」
切っ先が震える。
「私は……忘れられなかったのに」
雪へ溶けるような小さな声。
けれどその言葉だけは、なぜかはっきり聞こえた。
「私には守るものがあるけど……どうして」
小さな声。
怒りじゃない。
憎しみでもない。
運命に向けた張り裂けそうな悲鳴だった。
切っ先が僅かに下がる。
その瞬間、見えた。
彼女の背後、崩れた城壁の陰。
さっきから何度か動いていた影。
王都軍の槍兵。
腕が振り抜かれる。
次の瞬間、一本の槍が放たれていた。
狙いは――反乱軍総軍長。
雪を裂く必殺の投擲。
俺たちは敵。
……なのに。
失いたくないと思ってしまった人。
彼女はまだ気付いていないようだった。
「――っ」
限界だった身体が、思考を置き去りにして動いた。
肺が焼ける。
左腕は死んでいる。
足も、まともに動かない。
それでも、身体のどこかが叫んでいた。
――行け、と。
遠い雪の日。
凍えた手。
転びそうになって握った指。
あの時、失ったはずの温もり。
今度こそ。絶対に離したくなかった。
石畳を蹴る。
考えるより先に、俺は彼女の横をすり抜け、飛び込んだ。
その瞬間――
彼女が敵の急襲と判断して放った銀閃が、俺の右脇腹を斬り裂いた。
熱が走る。
右脇腹。
遅れて、焼けるような痛み。
彼女の長剣が、浅く俺の身体を裂いていた。
「なっ――」
蒼い瞳が見開かれる。
自分の剣。
裂けた軍服。
飛び込んだ男。
彼女の身体が、一瞬だけ止まった。
その隙に、俺は彼女の背後へ回り込む。
迫る穂先。両手を広げる。
せめて。
今度こそ。守りたかった。
次の瞬間、鈍い音。
背中を襲う凄まじい衝撃。
遅れてやってくる圧倒的な熱。
視線を落とす。
胸から、
冷たい穂先が、生えていた。
溢れ出した紅が、
純白の雪を容赦なく染めていく。
「……いや……っ」
崩れ落ちる俺を、彼女が抱き止める。
乱れた吐息。
震える腕。
熱い血で濡れていく黒い軍装。
ああ。
……そうか。
俺はずっと怖かった。
この戦いの最後は、
彼女のその切っ先が、この胸を貫くことを。
だけど。
違った。
まだ。
彼女の切っ先は、俺を貫いていない。
彼女はまだ、俺を敵として殺していない。
だからもう少しだけ。
もう少しだけ、このままで。
そう思った瞬間、ようやく分かった。
俺は、死ぬのが怖かったんじゃない。
ずっと。
あの日、離してしまったその手を、
今度こそ、離したくなかった。
「……だい、じょうぶ……だから」
涙で滲んだ蒼い瞳が、すぐ近くにあった。
あの日離してしまった小さな手が、今は血に染まりながらも、しっかりと自分を握り返してくれている。
震える腕が、俺を強く抱き寄せる。
雪だけは――
二人がまだ幼く、
無邪気に笑い合っていた、
あの日と同じように。
ただ平等に降り続いていた。
【了】
お読みいただき、ありがとうございます。




