第39話
ノイズは、引き留めない
夜が薄くなっていく。
ヴァル=カディアの夜明けは、色が少ない。
灰色が、薄くなるだけ。
それでも、人は起きる。
規律は日差しより先に動き出す。
焚き火はもう落ち着いていて、赤い炭だけがゆっくり息をしていた。
リィナは眠った。浅い眠りだ。寝返りのたびに布が擦れる音がして、その音がやけに大きく聞こえる。
誰も深く寝なかった。
別れの前の夜に、深く眠れるやつは鈍感か、強いか、その両方だ。
俺たちは――そのどちらでもない。
別れの準備は、荷物じゃない。
言葉でもない。
心の中の“位置”をずらす準備だ。
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カイ視点
カイは、火の近くに座ったまま、妙に真面目な顔でパンをちぎっていた。
ちぎる速度が一定。
均等。
そういう時のカイは、だいたい思考が深いか、胃が弱ってるかのどっちかだ。
(王女様、か)
本人は名乗ってない。
俺たちも言ってない。
でも、もう“扱い”が答えを出している。
カイは口の中で小さく舌打ちしてから、いつもの自分に戻ろうとする。
(いや、別にいいんだ)
(偉いのは、偉いで)
自分が嫌なのは、リィナが偉くなることじゃない。
偉くなったせいで、笑わなくなることだ。
カイは一度だけ、リィナの寝顔を見る。
(寝てる時は、普通のガキだな)
そこが救いで、そこが怖い。
王府の中で、その顔が許される時間は少ない。
許されないから、壊れる人間もいる。
(……あいつ、壊れねえかな)
“壊れない”って言葉は、カイにとって最大級の祈りだ。
だから、言う言葉を決める。
(次会った時、敬語な?)
(……いや、違う)
(敬語は距離ができる)
(距離は寂しい)
カイは鼻で笑った。
(じゃあ言うべきはこれだ)
(次会った時、もっと面倒になってろ)
面倒。
カイの辞書で、面倒は賞賛だ。
自分の意思で動いて、人を振り回して、それでも誰かに必要とされる存在。
(あいつにそれができるなら)
(俺らは安心して、ロクデナシをやってられる)
カイは、パンの最後の欠片を炭の近くに落として、わざと雑に言った。
「……ほらよ」
誰に言うでもなく。
火は食べない。
でもカイはいつも、こういう時に“意味のない行動”で気持ちを逃がす。
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レナ
レナは荷物をまとめていた。
余計なものを捨てる。
いつも通り。
いつも通りの顔で、いつも通りの手際。
“いつも通り”という形で、感情を押し込むのがレナだ。
(引き留めるのは、優しさじゃない)
レナは自分に言い聞かせる。
選ばせない優しさは、残酷だ。
自分がかつて受けた残酷さの種類が、それだ。
(行くなら、ちゃんと行け)
(戻るなら、ちゃんと戻れ)
中途半端に揺れて、どこにも居場所がなくなるのが一番怖い。
レナは小さく息を吐いて、リィナのブーツを見た。
汚れている。
擦り切れている。
でも、それが“旅”の証だ。
(……この靴)
(王府に戻ったら、履けないんだろうな)
それを可哀想だと思うのは簡単だ。
でもレナは、それを言わない。
代わりに、ひとつだけ決める。
(あの子が戻って、また笑えなくなるなら)
(……その時は、迎えに行く)
口にはしない。
口にしたら、約束になる。
約束は重い。
重いものを、今は背負わせない。
レナは荷物の一番上に、小さな布包みを置いた。
薬草。
簡易の止血。
そして、甘い飴。
(持っていけ)
(甘いのは、弱くなるから嫌いだろうけど)
飴は、弱さじゃない。
続けるための力だ。
レナの優しさは、いつも目立たない。
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ユウ視点
ユウは地図を見ていた。
火の明かりで、紙が揺れる。
ユウは揺れない。
指だけが動く。
ルートを引き直す。
リィナがいない前提で、線を引く。
(欠ける)
(だが、崩れない)
ノイズは寄せ集めだ。
最初から完成形じゃない。
だからこそ“欠ける”ことも前提だった。
(欠けるのは、痛い)
(崩れないのは、寂しい)
矛盾しているのに、両方が真実だ。
ユウはふと、火の向こうで剣を磨く俺の手を見る。
その動きが、普段より丁寧だと気づく。
(シオンは、寂しいのを隠すのが下手だ)
ユウはそれを言わない。
言えば、余計に寂しくなる。
代わりに、ユウは“現実”を置く。
明日からの道。
食料の補給。
安全な野営地。
人族圏へ戻るなら、どのルートが目立たないか。
ユウは、感情を地図に変える。
そうすることで、感情を扱える。
(会おうと思えば、会える)
ユウは結論だけを胸にしまった。
それは慰めじゃない。現実の確認だ。
そして、現実は――強い。
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フェリス視点
フェリスは、焚き火の跡を見ていた。
炎があった場所。
そこに残る熱の輪郭。
火は消えても、地面は覚えている。
フェリスの思考は、いつも“次”にある。
指揮官は、止まれない。
(……よく耐えた)
リィナは自分の立場を知っている。
立場を知っているからこそ、自由の甘さも分かる。
甘さに溺れなかったのは、強さだ。
(王に向く)
フェリスは冷静にそう判断する。
だが同時に、仲間として思う。
(行け)
(戻りたくなったら、来い)
矛盾しているようで、矛盾じゃない。
“選べ”という言葉だ。
フェリスが仲間に与えられる最大の敬意は、選択肢を渡すこと。
フェリスは、ふと気づく。
自分はリィナを引き留めたいと思っていない。
それは冷たいからではなく――
(引き留めたら、あいつは壊れる)
ここで続ければ、楽だ。
だが楽は、時に毒だ。
逃げ場所が居場所に変わってしまった時、戻る場所がなくなる。
フェリスは、静かに目を閉じた。
(……この別れは、必要だ)
指揮官としての判断。
仲間としての痛み。
両方を、黙って飲み込む。
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シオン視点
俺は剣を磨いていた。
刃に映る焚き火の光が、ゆらゆら揺れる。
その揺れが、自分の心みたいで嫌だった。
(また、置いていかれる)
前任者の経験が、静かに疼く。
別れに慣れてしまった感覚。
慣れたくなかった。
(でも今回は)
(自分で歩く背中だ)
それが救いで、それが痛い。
連れ去られるなら怒れる。
奪われるなら取り返せる。
でも、これは“選択”。
選択は尊い。
尊いから、邪魔できない。
俺は刃を拭いて、鞘に戻した。
呼吸が深くなる。
(次に会う時)
(俺はもっと強くなってる)
約束じゃない。
誓いでもない。
ただの、意地だ。
意地だけで生きてきた。
それでいい。
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空が白む。
リィナが目を覚ます気配がした。
寝返り。布の擦れる音。
そして、ゆっくり起き上がる影。
誰も声をかけない。
かけたら、揺らぐ。
ノイズは引き留めない。
それが優しさかどうかは分からない。
でも、彼女が選ぶなら――
俺たちはその選択を尊重する。
それがノイズの線だ。




