第37話
戻る道は、用意されている
ヴァル=カディアの朝は、静かだ。
静かというより――音が削られている。
小鳥の声はする。どこかの家の扉の開閉音もする。金属を打つ鈍い音だって遠くにある。
なのに、耳に残らない。余計な音が最初から存在しないみたいに、生活の音が“整列”している。
「……落ち着かない」
カイが宿の前で肩を回した。
「静かすぎる」
「うるさくても文句言うくせに」
レナが冷たく返す。
「うるさいのは嫌いだけど、静かすぎるのも嫌い」
カイは真顔だ。
「ほどほどがいい」
「ほどほどで生きてきた顔じゃない」
レナが容赦なく刺す。
ユウは会話を無視して、路地の奥を見ていた。視線が固定されている。
「……来る」
短く言う。
俺も気配を拾う。
近いのに、近づいてこない。
隠れているのに、隠す気がない。
影が一つ、路地から滑るように現れた。
ミラではない。
若い魔人だ。角は小さく、服装も地味。だが、歩幅と姿勢が“役目の人”のそれだった。
距離が保たれている。
こちらが不快にならない距離。
こちらが襲えない距離でもある。
「失礼します」
深く一礼。
礼の角度が正確すぎる。
王府の訓練を受けた者だと、俺でも分かる。
「用件は」
フェリスが短く問う。
若い魔人は一瞬だけ言葉を飲んだ。
視線が彷徨うのは迷いではなく、“線の選び方”だ。
「……伝言です」
声は落ち着いている。
「“戻る道”が整いました」
その一言で、空気が変わった。
強制じゃない。命令じゃない。
ただ、選択肢を置かれた。
それだけなのに――置かれた瞬間、選ぶ責任が生まれる。
リィナが、わずかに息を吸った。
驚きはない。
“来ると分かっていた”顔だ。
「いつでも、ですか」
リィナが言う。
「はい」
魔人は頷いた。
「あなたが“帰る”と決めた瞬間に繋がります」
「期限も条件も設けません」
カイが俺に小声で言う。
「な? 重いだろ」
「優しい顔して一番重い」
「優しくない」
レナが即座に切る。
「合理」
「合理って便利だな」
カイは口の端を上げた。
「嫌なこと全部押し付けられる」
魔人は続ける。
「……追われてはいません」
「ただ、見失ってはいない」
「そういう意味です」
この国らしい。
捕まえない。だが見ている。
縛らない。だが責任は逃がさない。
フェリスが一歩、前へ出た。
「我々に条件は?」
「ありません」
魔人は即答した。
「あなた方は、あなた方の線で動けばよい」
“あなた方の線”。
それはつまり、ノイズの在り方を試すということでもある。
リィナの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……ありがとう」
礼を言うのが自然な場面なのに、礼が重い。
その言葉の先に別れがあるからだ。
魔人は深く頭を下げる。
「以上です」
「どうか……ご無事で」
最後の一言は、役目を外した温度が混じっていた。
それを悟られないように、魔人は踵を返して去っていく。
残されたのは沈黙。
フェリスが言った。
「……急ぐ必要はない」
「答えは今日でなくていい」
リィナは頷く。
頷きの角度が、どこか“学んだもの”に見えた。
「うん」
「考える時間、あるよね」
「ある」
フェリスは即答。
「決めるのはお前だ」
その言葉が、この数日で一番あたたかかった。
⸻
昼。
俺たちは街を歩いた。
ヴァル=カディアの市は、整っている。
値段は明示され、取引は短い。争いが起きても、周囲は無闇に介入しない。
線の外から見て、線の内で終わらせる。
俺たちが歩くと、人の流れがわずかに変わる。避けられているというより、ぶつからないように“調整”されている。
「……昨日までの“異物”じゃない」
ユウがぽつり。
「“観察対象”に格上げされた」
「格上げって言い方嫌だな」
俺が苦笑すると、
「安心しろ」
カイが笑う。
「格上げされても俺らの中身は変わらん」
「相変わらずロクデナシだ」
「自分で言うな」
レナが刺す。
「仲間内の皮肉呼称、採用してくれてありがとうな?」
カイがリィナを見てにやっとする。
「ありがとうって言ってない」
リィナが即答する。
「……でも、嫌いじゃない」
「嫌いじゃないのかよ!」
カイが大げさに驚く。
「嫌いじゃない」
リィナはぷいっと横を向く。
「だって、悪口のわりに、優しいじゃん」
「優しくはない!」
カイがすぐ否定する。
「俺はただのロクデナシだ!」
「訂正」
レナが淡々と言う。
「“自称”ロクデナシ」
「本当にロクデナシなら、もっと被害が出る」
「褒めてる? けなしてる?」
カイが混乱する。
「どっちも」
ユウが即答。
リィナが小さく笑った。
でも、その笑いは風に紛れてすぐ消えた。
市の外れ、触媒を扱う露店を見つけた時、リィナは足を止める。
転移関連の小物。ダンジョン由来の、危険な香りのする道具。
リィナの指が、無意識に動きかけて止まる。
「……欲しい?」
俺が聞く。
「いらない!」
即答。
「ぜったい!」
「強調しすぎ」
カイがにやにや。
「だって、触ったら絶対ろくなことにならないもん!」
「自覚があるの偉い」
俺が言うと、リィナがむっとする。
「偉くない」
「普通だよ!」
「普通は“触ったら暴走”って自覚しない」
レナが冷静に追撃。
「うるさい!」
その時。
露店の奥から、ひとりの女が現れた。
地味な服装。だが歩き方が違う。視線が研ぎ澄まされている。
(……ミラとは違う。でも同類だ)
女の視線は俺たちを通り過ぎ、リィナで止まった。
ほんの一瞬。
驚きはない。
確認。判断保留。警戒と、少しの安堵。
そしてすぐ、視線は露店の商品へ戻る。
「……今の」
俺が小声で言う。
「気づいたね」
レナが頷く。
「扱いが変わってる」
「“重要かもしれない物”を見る目」
ユウが短く言った。
「壊したら面倒、って顔だな」
カイが笑う。
「その言い方やめて!」
リィナがむっとする。
フェリスが静かに言う。
「線を守れ」
「余計な動きをするな」
「……うん」
その返事が、やけに素直だった。
素直すぎて、俺は逆に胸がきゅっとなる。
(……もう答えに近づいてる)
本人はまだ決めていないふりをしている。
でも体は、心は、すでに方向を向いている。
⸻
帰り道。
街の端に差し掛かった時、リィナがふいに立ち止まった。
「ねえ」
俺にだけ聞こえる声。
「ん?」
「戻るって、怖いね」
リィナは笑って言った。
「……行くのが怖いんじゃなくて」
「戻ったら、自由じゃなくなる」
その言葉が刺さった。
自由。
俺たちが欲しかったもの。
俺たちが奪われたもの。
「自由ってさ」
カイが背後から割り込んできた。
「選べるってことだと思うんだよ」
リィナが驚いた顔で振り返る。
「聞いてたの!?」
「聞こえる声で喋ってた」
カイは平然と言う。
「……うそ」
「本当」
レナが淡々と追撃する。
「防音が甘い」
「なにそのダメ出し!」
カイは歩きながら続けた。
「自由がなくなるって怖いだろ」
「でもさ、自由って“なくなる”だけじゃない」
「“守る側”になる自由もある」
リィナは黙って歩いた。
その横顔が、少しだけ大人びて見える。
フェリスが言った。
「夜に話す」
「今日は、それでいい」
リィナは頷く。
戻る道は用意された。
だが、戻る決断はまだ先だ。
今はまだ、
火を囲んで話す時間が残っている。
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