第23話
三十秒の代償
撤退の合図が鳴った瞬間、世界の音が戻った。
さっきまで、耳栓でもしていたみたいに薄かった剣戟の音が、急に現実の厚みで押し寄せてくる。叫び声、鎧の擦れる音、遠くの魔術の爆ぜる音――全部が「戦場」の音だ。
「……はぁ、やっと戻ったな」
カイがそう言って、どさっと尻をついた。笑い方はいつも通りなのに、声が妙に軽い。軽すぎて、逆に怖い。
「戻ったんじゃないよ」
レナが膝を抱えたまま言う。
「私たちが、戻ってきただけ。……まだ耳が痛い」
「耳が痛いって言うな」
俺は笑おうとして、喉がひゅっと鳴った。息が上手く吸えない。
膝に力が入らず、視界が一瞬ぐらりと揺れる。
「おい」
カイが立ち上がり、俺の肩を掴む。
「座れ、シオン」
「大丈夫」
と言ったつもりだったけど、音になってなかったらしい。
「大丈夫じゃねえ」
カイは迷いなく肩を貸してくる。
「お前、今のままだと“風に負ける”」
「風に負けるは言いすぎだろ」
「負ける」
ユウが淡々と言った。
「今のシオンは、姿勢が崩れると戻せない」
刺さる。的確すぎる。
俺は、ちょっと情けない気持ちで地面に腰を下ろした。土の冷たさが、逆にありがたい。
「……撤退路は?」
俺が息を整えながら言うと、
「できてる」
フェリスが短く答えた。
フェリスは相変わらず、立っている。顔色は変わっていないけど、目の奥が少しだけ硬い。さっきまでの“静かな場所”が、まだ瞳の裏に残ってるように見えた。
「撤退は成立した」
フェリスが続ける。
「生存者も、予定より多い」
「予定より多いって何」
カイが文句を言う。
「予定を立ててないと、守れない」
フェリスは言い切った。
俺は、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。フェリスの言葉は冷たいんじゃない。責任の言葉だ。責任を引き受けるって、こういうことだ。
「……隊長」
俺は口を開いた。
「俺、あの時……」
「話は後だ」
フェリスは即答する。
「今は、動ける者が動く」
レナがふっと息を吐く。
「ねえ、シオン」
レナが言う。
「あなた、最後の方……“音”聞こえた?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……うん」
「聞こえた」
「剣が鳴った」
ユウの視線がわずかに鋭くなる。
「それは、ヴァンが“動いた”ということだ」
「だよね」
レナは苦々しそうに頷いた。
「私、魔力の流れが一段変わったのを感じた」
「“このままだと事故る”って分かった」
「事故?」
カイが眉をひそめる。俺も同じ顔をした。
「魔術事故」
レナは淡々と答える。
「ヴァンの“整理”って、魔力の流れを壊すの」
「暴走が起きたら、味方が勝手に死ぬ」
背筋が冷えた。
「……そんなの、俺見えてなかった」
「見えなくていい」
レナが言う。
「見えると、あなたは前に出る」
「出るな、って言うところじゃない?」
カイが突っ込む。
「違う」
レナは真顔で言った。
「出るなら出るで、出る場所を作るのが私の仕事」
「……今日の私は、それをやった」
レナの声は平坦だけど、指先が微かに震えている。限界近かったんだ。俺はそれが分かって、胸が痛くなった。
「ユウは?」
俺が聞くと、
「外側を測っていた」
ユウが短く言う。
「ヴァンの干渉範囲の“外側”なら、分かる」
「測れないのに?」
「測れないから、外側」
ユウは当たり前みたいに言う。
「内側は死ぬ。外側は生きる」
カイが鼻で笑った。
「お前の理屈、たまに怖い」
「生きるための理屈だ」
ユウは表情を変えない。
フェリスが俺を見る。
「シオン」
「はい」
「三十秒」
フェリスは言った。
「お前が前に出た時間だ」
「守りました」
俺は言う。
「守った」
フェリスは頷いた。
「だが、守らせたのは私だ」
刺さる。刺さり方がえぐい。
「……隊長」
俺は正直に言った。
「俺、一人でやった気がしない」
カイが肩をすくめる。
「当たり前だろ」
「お前一人なら、あの“静かな場所”で溶けてた」
「一人でやってたら死んでいる」
フェリスが即答した。
俺は息を吐いて笑った。
「はい」
それでいい。心底そう思った。
フェリスが続ける。
「お前が“境界”に触れた瞬間」
「ヴァンの視線は、お前に固定された」
「だから、俺が前に出た」
「そうだ」
フェリスは淡々と頷く。
「その瞬間が、唯一の隙だ」
「私たちは、そこに全てを賭けた」
レナがふっと目を閉じた。
「……賭けに勝った、のかな」
「勝ってない」
ユウが言う。
「生き残っただけだ」
「十分だ」
カイが言った。
「生きてないと、次がない」
俺は剣の柄を握った。静かだ。なのに、あの瞬間の“音”がまだ指先に残ってる。
あの音は、俺の中で何かを変えた。
フェリスが空を見上げる。
「撤収する」
「街へ戻る」
「隊長」
俺は言う。
「……次は、奪い返せますか」
フェリスは即答しなかった。ほんの一拍だけ、目を細めてから言った。
「奪い返す」
「そのために、今日の三十秒がある」
その言葉で、体の震えが少しだけ止まった。
俺たちは歩き出す。
戦争の後始末の始まりだ。




