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異端(仮)  作者: vastum
アリス編
110/110

第88話

まだ人だったもの


 影は、ゆっくりと近づいてきた。


 足を引きずる音が、床に残る。

 速くもない。

 威圧する動きでもない。


 それなのに、誰も前に出なかった。


 人の形をしている。

 腕も、脚も、頭もある。


 ただ――顔が、ない。


 削れたのではない。

 最初から“そうなるように”整えられたみたいに、滑らかだった。


「……来る」

 フェリスが短く言う。


 シオンは、剣を構えた。

 だが、踏み出せない。


 胸の奥が、妙に静かだ。

 さっきまであった熱が、息を潜めている。


(……敵だ)


 そう理解している。

 理解しているのに、身体が止まる。


 影が、口を開く。


 声は出ない。

 それでも、空気が震えた。


 ――まだ、ここに。


 ――まだ、名前がある。


 言葉じゃない。

 意味だけが、胸に落ちる。


 カイが、歯を鳴らした。


「……ふざけんな」

「こんなの、反則だろ」


 影が、一歩踏み出す。


 床が、わずかに沈む。

 重さが、局所的に集中する感覚。


「来るぞ」

 ユウ。


 フェリスは、ためらいなく命じた。


「……止める」

「殺さない」


 レナが、すぐに魔力を走らせる。


 光は抑えめ。

 束縛の術式。


 影の足元が、鈍く固まる。


 だが。


 止まらない。


 影は、足を引き抜いた。

 拘束を“壊した”のではない。

 拘束される前提が、なかった。


「……くそ」

 レナ。


 影が、腕を持ち上げる。


 振り下ろす――その前に。


 シオンは、踏み出していた。


 剣を、振る。


 狙いは、中心じゃない。

 輪郭の“揺らいでいる部分”。


 刃が、触れた。


 引っかかる。


 確かに、手応えがあった。


 だが次の瞬間、

 影の中から、別の像が滲み出る。


 人の顔。


 幼い。

 怯えている。


 声が、重なる。


 ――やめて。


 ――まだ、帰りたい。


 シオンの腕が、止まった。


「……っ!」


 カイが叫ぶ。


「気を取られるな!」


 分かっている。

 分かっているのに。


 影が、シオンの剣を弾いた。


 衝撃は、重い。

 だが、殺すためじゃない。


 押し返す。


 距離が、詰まる。


 フェリスが割って入る。


「……下がりなさい、シオン!」


 盾で受ける。

 衝撃が、全身に走る。


 ユウが、影の背後に回った。


 刃を入れる――はずが、入らない。


「……抜けない」

 ユウ。


 影が、ゆっくりと振り返る。


 その動きは、

 生きていた頃の癖をなぞっているみたいだった。


 レナが、声を落とす。


「……これ」

「完全に壊れてない」


 フェリスが、即座に判断する。


「……鎮める」

「長引かせない」


 シオンは、剣を握り直した。


 呼吸を整える。


(……救えない)


 分かっている。

 でも――


(……終わらせることは、できる)


 剣を振る。


 今度は、力を抑える。

 削る。


 影の輪郭が、少しずつ崩れる。


 そのたびに、

 断片的な像が、浮かんでは消えた。


 走る足。

 呼ぶ声。

 暗い部屋。


 最後に見えたのは――

 扉。


 閉じられる、直前の。


 影が、膝をつく。


 床に、崩れ落ちる。


 完全に消える前、

 もう一度だけ、意味が伝わった。


 ――外に。


 ――答えは、外に。


 影は、静かに消えた。


 遺跡に、沈黙が戻る。


 誰も、すぐには動かなかった。


 カイが、吐き出すように言う。


「……最悪だ」


 レナは、視線を伏せた。


「……でも」

「知ってしまった」


 フェリスが、シオンを見る。


「……大丈夫?」


 シオンは、ゆっくりと頷いた。


「……ああ」

「多分」


 多分、という言葉に、誰も突っ込まなかった。


 遺跡の奥で、

 何かが――応えた。


 低い、重い音。


 構造が、変わり始めている。


 シオンは、胸の奥の静けさを感じた。


(……次は)


(……逃げられない)


 ノイズは、さらに奥へ進む。


 人だったものを、背にして。


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