第85話
背中が遠ざかる
しばらく、誰も動かなかった。
エッグの背中が森に溶けて、完全に見えなくなっても。
足音が消えても。
風が、元の流れに戻っても。
誰も、追わなかった。
追えば戻ると、全員が分かっていたからだ。
そして――戻らせてはいけないと、分かっていたからだ。
「……行っちまったな」
カイが、ぽつりと言った。
それだけだった。
冗談も、悪態も続かない。
フェリスは、エッグが消えた方向を一度だけ見てから、踵を返した。
「……進むわよ」
声はいつも通り。
隊長の声だ。
それが、逆に助けになった。
歩き出す。
足並みは自然と揃った。
森は、何も変わらない顔をしている。
だが、空気の密度が違う。
何かが一つ、抜けた。
それだけで、こんなにも軽く――そして重い。
シオンは、剣を腰に戻した。
胸の奥を、そっと確かめる。
昨夜まで続いていた熱は、少しだけ落ち着いている。
消えたわけじゃない。
ただ、静かに奥へ沈んだ。
(……あいつ)
思い出すのは、軽口ばかりだ。
役に立たない話。
どうでもいい癖。
それなのに。
いないと、こんなにも分かる。
アリスが、横に並んだ。
「……後悔、してる?」
「してない」
シオンは即答した。
嘘じゃない。
「……でも」
一拍。
「寂しい」
アリスは、小さく頷いた。
「それでいい」
「それが、正常」
ユウが、少し後ろから言う。
「……置いていかれた、とは思わない」
「俺もだ」
カイ。
「置いていった、でもねえ」
レナが、前を見たまま口を開く。
「選んだのよ」
「それぞれが」
フェリスが、歩きながら言った。
「……だから、無駄にしない」
「エッグが引き受けたものも」
「私たちが進むことも」
誰も、反論しなかった。
森を抜けると、
遠くに、遺跡の輪郭が見え始める。
静かで、
何も語らず、
それでも確かに“そこにある”。
シオンは、足を止めた。
一瞬だけ。
「……あいつさ」
誰に向けたともなく言う。
「俺のこと、見てるって言ったよな」
「言ったわね」
フェリス。
「……だったら」
シオンは、前を見る。
「行かないとな」
止まる理由は、もうない。
背中を押すものも、
引き留めるものも。
あるのは、ただ一つ。
進む先。
森の奥で、
誰にも聞こえない距離で。
別の足音が、
同じ方向へと向かっていた。
それが再び交わるのか、
交わらないのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――
ノイズは、もう戻らない場所へ
足を踏み入れた、ということだけだった。




