第82話
制御不能
最初に動いたのは、風だった。
いや、正確には――風が「逃げた」。
森を撫でていたはずの気流が、そこだけを避けるように歪む。
“それ”の周囲だけ、空気が空白になる。
誰も声を出さなかった。
出せなかった。
管理者の使者が、ゆっくりと後退する。
「……下がれ」
自分に言い聞かせるような声だった。
だが、遅い。
“それ”が、首を傾ける。
興味を持った仕草。
次の瞬間、距離が消えた。
移動ではない。
跳躍でも、転移でもない。
最初から、そこにいたかのように、使者の目前に立っている。
「――ッ!」
使者が手を上げる。
位相が揺れ、身体が薄くなる。
だが。
“それ”は、迷わず踏み込んだ。
触れた瞬間、空間が鳴る。
音ではなく、概念が擦れる音。
使者の身体が、横に滑った。
切れたわけでも、吹き飛んだわけでもない。
ただ――位置が合わなくなった。
次の瞬間、地面に崩れ落ちる。
生きている。
だが、立てない。
「……撤退」
使者は、歯を食いしばって言った。
「全員、即時――」
言葉は、途中で途切れた。
“それ”が、振り返ったからだ。
視線が、初めてノイズに向く。
正確には――
シオンに向いた。
胸の奥が、強く引かれる。
(……来る)
理屈じゃない。
身体が、そう判断した。
「――下がれ、シオン!」
フェリスの声。
同時に、カイが前に出る。
「来るなら俺だろ!」
拳が振るわれる。
全力。
迷いなし。
だが、拳は届かない。
“それ”の輪郭が、わずかに揺れ、
衝撃が抜けた。
「……効かねえか」
カイが舌打ちする。
ユウが動く。
背後を取る――はずだった。
だが、背後がない。
“それ”は、どの方向にも「正面」を持っている。
「……厄介」
ユウ。
レナが、即座に判断する。
「物理じゃない」
「魔力も、通りにくい」
「じゃあどうする」
カイ。
「――削る」
シオンが言った。
全員の視線が集まる。
「削る?」
フェリス。
「壊すんじゃない」
シオン。
「ズレを、広げる」
言葉にした瞬間、
胸の奥の違和感が、はっきりと応えた。
剣が、静かに鳴る。
“それ”が、一歩踏み出す。
空間が、沈む。
だが、今度は違った。
シオンの足は、引かれない。
踏み込める。
剣を振るう。
狙いは、中心じゃない。
輪郭の“曖昧な部分”。
刃が、触れた。
触れた瞬間、
引っかかった。
「……っ!」
反発。
腕に、重さが走る。
だが、確かに――
削れた。
“それ”が、わずかに揺らぐ。
カイが笑った。
「当たるじゃねえか!」
次の瞬間、拳が重なる。
レナの魔法が、空間を固定する。
ユウの刃が、逃げ道を断つ。
フェリスの声が、正確に飛ぶ。
「――今!」
連携が、噛み合う。
“それ”の輪郭が、歪む。
完全ではないが、確実に。
だが。
管理者の使者が、低く叫んだ。
「……やめろ」
「それは――」
遅い。
“それ”の身体から、
別の気配が溢れ出した。
分裂ではない。
増殖でもない。
連鎖。
森の奥。
地面の下。
空の向こう。
同じ“質”の反応が、次々と立ち上がる。
「……嘘だろ」
カイ。
エッグが、歯を食いしばる。
「……だから言っただろ」
「外側だって」
フェリスが、即断する。
「……退く」
「今は、深追いしない」
「でも!」
シオン。
「生きる方が先よ」
フェリス。
「これは――」
一拍。
「“引き金”だった」
“それ”は、もうノイズを見ていない。
空を見上げている。
まるで、
呼びかけるみたいに。
遠くで、
何かが応えた。
低く、長い――
世界の底を擦るような音。
シオンは、剣を握りしめた。
胸の奥の違和感が、
今やはっきりとした“存在”になっている。
(……始まった)
終わりじゃない。
区切りでもない。
ただ――
制御できない流れに、踏み込んだ。
それだけだった。




