第81話
均衡が崩れる
最初に変わったのは、音だった。
森を満たしていた微かなざわめきが、
一瞬で――消えた。
鳥の声も、風の擦れる音も、
焚き火の残り香すら、遠のく。
まるで世界が、息を止めたみたいに。
「……まずいな」
カイが、低く呟いた。
その声だけが、やけに大きく聞こえる。
空気が、重い。
さっきまで沈んでいた感覚とは違う。
押し潰す圧ではなく、引き裂く前触れ。
男――管理者側の使者が、わずかに眉を寄せた。
「……想定外」
その一言で、全員が理解した。
これは、あいつらの手の内じゃない。
森の奥。
気配が、はっきりと形を持ち始める。
数は、一つ。
だが、質が異常だった。
レナが、息を呑む。
「……魔力が、荒れてる」
「制御されてない……いや」
言葉を選ぶ。
「制御する気が、ない」
アリスが、目を細めた。
「……生き物」
「でも……近い」
「何にだ」
ユウ。
「境界に」
アリス。
「触れて、なお離れている」
矛盾した言い方だった。
だが、誰も否定できなかった。
地面が、鳴った。
遠雷みたいな低い振動が、
足裏から骨を揺らす。
次の瞬間。
森の一角が、崩れた。
木が倒れたのではない。
地面が抉られ、空間が割れた。
そこから――
“何か”が、姿を現す。
「……人、か?」
カイ。
確かに、二本足で立っている。
腕も、二本。
だが。
輪郭が、曖昧だった。
身体の境目が、はっきりしない。
まるで、
人の形を“なぞっただけ”の存在。
管理者の男が、一歩後ずさる。
「……これは」
「記録にない」
その声に、初めて焦りが混じった。
“それ”が、顔を上げる。
目が合った。
その瞬間。
シオンの胸が、強く脈打った。
(……っ)
昨夜から続く違和感が、
一気に前へ出てくる。
痛みではない。
恐怖でもない。
――共鳴。
剣が、微かに鳴った。
「……シオン?」
フェリスが気づく。
「……あいつ」
シオンは、視線を逸らさなかった。
「俺を、見てる」
“それ”の口が、動く。
声は出ない。
だが、意味だけが、頭に流れ込む。
――未完成。
――調整外。
――だが、可能性。
エッグが、歯を食いしばる。
「……くそ」
「最悪だ」
「知ってるのか」
カイ。
「ああ」
エッグ。
「中で聞いた話の……外側だ」
管理者の男が、声を張る。
「退いてください」
「それは――」
言葉は、最後まで届かなかった。
“それ”が、一歩踏み出したからだ。
踏み出しただけで、
空気が歪む。
森が、悲鳴を上げる。
レナが、反射的に結界を張る。
「――防御!」
間に合ったかどうかは、分からない。
衝撃。
音ではない。
概念がぶつかる感覚。
視界が白く弾ける。
次に見えたのは、
吹き飛ばされる管理者の男だった。
「……ッ!?」
地面を転がり、
ようやく体勢を立て直す。
“それ”は、ノイズを見るでもなく、
管理者を見るでもない。
ただ、そこに立っている。
均衡が、完全に崩れた。
誰が主導権を持つか。
誰が敵で、誰が味方か。
そんな区別が、意味を失う。
フェリスが、即座に判断する。
「……全員、距離を取る!」
「不用意に触るな!」
その声で、全員が動く。
だが、シオンだけが――
一瞬、動けなかった。
胸の奥が、強く引かれる。
“それ”と、何かが繋がっている。
理由は分からない。
だが、切れない。
“それ”が、ゆっくりと首を傾げた。
そして。
初めて、はっきりと“意識”が向けられる。
――シオンへ。
その瞬間。
管理者の男が、低く呟いた。
「……まずい」
「これは……」
言葉を、続けられなかった。
森の奥から、
さらに別の気配が、動き出したからだ。
連鎖。
一つが崩れたことで、
止めていたものが、次々と外れる。
フェリスは、歯を食いしばった。
「……来るわね」
「本当に――」
一拍。
「制御不能よ」
“それ”が、一歩、前へ出る。
その足取りは、
人間のそれと、ほとんど同じだった。
だが。
踏みしめるたび、
世界の方が、後退する。
この場にいる全員が理解した。
――もう、元には戻らない。
選択の余地は、ない。
残されたのは、
どう生き残るかだけだった。




