スニーカーの音
六月の終わり、体育館の床は、まだ午前中のバスケットボールの熱を残していた。
放課後の光が高い窓から差し込んで、ワックスのきいた床を斜めに照らしている。
バドミントン部のシャトルが、宙で白く跳ねた。 ラケットが空気を切る音、誰かの笑い声、遠くで吹奏楽部のチューニング。
その全部を少し離れたステージ袖から眺めながら、春斗はひとり、体育館シューズの紐を結び直していた。
「またほどけてるじゃん、その靴」
声の方を見ると、バドミントンコートの端で、水色のTシャツを着た美咲が、ペットボトルを片手に立っていた。
「これ、もう寿命なんだよね。紐もさ、何回結んだか分かんない」
「でもさ、そのスニーカーじゃなきゃやだって言って、去年も同じの探してたよね」
「うん。なんか足に合うんだよな」
春斗は笑って、もう一度ぎゅっと結び目を引いた。 二年生になってから、部活には顔だけ出して、すぐ帰ることも多くなった。
受験、塾、模試、そんな言葉が廊下のあちこちで飛び交うようになって、体育館の熱気だけが、少し取り残されているように感じる。
「今日は、もう帰るの」
美咲がステージの方まで歩いてきて、春斗の隣に腰をおろす。 体育館の床より一段高い場所。
ここに座ると、コート全体が見渡せて、なんとなく観客みたいな気分になる。
「いや、ちょっと見てから帰ろうかなって」
「ふーん。うちらのフォーム、チェックしに来たの」
「いや、それは監督の仕事でしょ」
二人で笑った。 会話はいつも軽くて、短い。
でもその軽さが、ここでは心地よい。
小学校のころから、美咲はどのスポーツをやらせてもそれなりにこなせるタイプだった。 バスケットボール、陸上、テニス。
中学の三年間であちこちの部活を渡り歩いて、最終的に落ち着いたのがバドミントンだ。
「なんでバドミントンなのって、母さんにはまだ言われるけどね」
「なんでなの」
「シャトルってさ、打つときはめちゃくちゃ軽いのに、落ちるときはちゃんと落ちてくるじゃん。あれが好きなんだよね」
美咲はラケットを膝に立てかけ、空中を指でなぞるようにしながら言った。
「高く飛んでも、ふわーって落ちてきて、最後はちゃんとラインの中とか外とかに決まるでしょ。
ああ、ここに落ちたんだって、ちゃんと分かる感じがさ、なんか安心する」
「よく分かんないけど、らしいな」
「春斗は?」
「なにが」
「なんで、もうバスケほとんど来ないの」
それは、最近自分でもずっとごまかしていた問いだった。 受験勉強のせい、体力が続かないせい、そんな理由を口にすれば、きっと納得はしてもらえる。
でも、本当は少し違う。
「なんかさ、急に、自分だけ下手なのがしんどくなってきた」
言葉にしてみると、思っていたよりも情けない響きがした。
けれど、美咲は「ふーん」とだけ言って、特に笑いもしなかった。
「試合で全然決められなくてさ。 なのに、後輩にはなんかかっこいい先輩に見られてる感じがして。
それに応えられないのが、きつくなった」
昔は、ただ走っているだけで楽しかった。 ゴール下に突っ込んでいって、派手に転がって、チームメイトに笑われるのも悪くなかった。
でも、高校二年になって、うまいやつとうまくないやつの差は、どうあがいても縮まらないみたいに見えてくる。
「じゃあさ」
しばらく沈黙のあとで、美咲が言う。
「やめるのも、ありじゃない」
「え」
「だってさ。高く飛べないシャトルは、無理にスマッシュ打たなくてもいいじゃん。
ネットのすぐ上を、ふわっと通る球だってさ、ちゃんと点になるときあるし」
「なんだよ、それ」
「ほんとだよ。高く飛ぶのだけが、すごいってわけじゃないってこと」
それは、多分バドミントンの話だけではなかった。
でも、美咲はそれ以上、春斗のバスケについては何も言わなかった。
コートでは一年生の試合が始まっていた。 ミスも多いけれど、そのたびに大きな声で笑い合っている。
去年の自分たちも、あんな感じだっただろうか。
春斗は、体育館シューズのつま先を見つめた。 白い生地は少し汚れて、側面には落書きみたいなサインがいくつか書いてある。
美咲が中三の文化祭のときに、ふざけてマジックで書いた星印も、まだ薄く残っていた。
「さ」
美咲が立ち上がる。
膝を軽く伸ばして、ラケットをくるりと回しながら。
「とりあえず、今日は走って帰ろっか」
「は? なんで」
「春斗んち、うちの帰り道の途中でしょ。ひと駅ぶんぐらい、いけるって」
「いやいや、体育の後にそれはきついって」
「部活サボってる先輩のセリフ?」
「ぐうの音も出ねえ」
二人はステージから飛び降りて、体育館の出入り口へ向かった。
外履きに履き替えるとき、スニーカーの紐がまたほどける。
「ほらね」
「はいはい」
結び直して外に出ると、夕方の風が汗ばんだ首筋をなでていった。
校門の前の桜並木は、すでに青々とした葉を繁らせている。
二人並んで走り出すと、スニーカーの音がアスファルトの上にリズムを刻んだ。 決して速くはない。
息もすぐ上がる。
それでも、誰かと横に並んで走っていると、その遅ささえ少し誇らしく思えた。
「ねえ、春斗」
「は、い」
「もしさ。もし、ほんとにバスケやめたくなったらさ」
美咲は走りながら、前を向いたまま続ける。
「やめたあと、どこに落ちたいかだけ、考えときなよ」
「落ちたい、って」
「ほら、さっき言ったじゃん。シャトルって、最終的にどこに落ちたいかで、打ち方変わるって」
「ああ」
「やめて、どこにも行きたくない、じゃなくてさ。
やめたあと、この辺に落ちたいなって場所があれば、そんなに怖くないと思う」
「……そんなもんかな」
「そんなもんだよ。たぶん」
自信満々というより、自分にも言い聞かせているような言い方だった。
美咲にも、美咲なりの「落ちたい場所」が、まだぼんやりしているのかもしれない。
信号に引っかかって、二人は足を止めた。 肩で息をしながら、春斗は美咲の横顔を盗み見る。
髪の毛が少し額に張り付いている。
目尻にはうっすら汗がにじんでいた。
「美咲はさ」
「ん」
「どこに落ちたいの」
「なにそれ、プロポーズみたい」
「そういう意味じゃねえよ」
二人で笑ったあと、美咲は少しだけ真面目な声になった。
「でも、そうだな。
いつかさ、どっかの体育館の隅っこで、私の教えた子が打ったシャトルが、ちゃんと狙ったとこに落ちるとこ、見ていたいかも」
「コーチになるってこと」
「分かんないけどね。
でも、自分が打つより、誰かの一打を見守るのも、案外いいなって思うんだ」
「らしいな、それも」
信号が青に変わった。
二人は再び走り出す。
春斗はまだ、どこに落ちたいのか分からない。 受験も、将来のことも、ぼんやりとした霧の中にある。
けれど、今日みたいに誰かと話しながら走った感覚だけは、体のどこかに確かに残っていく。
家の角を曲がるところで、美咲が片手を上げた。
「じゃあ、また体育館でね。サボんなよ」
「お前もな」
美咲の背中が夕焼けに溶けていくのを見送りながら、春斗は自分のスニーカーのつま先を見下ろした。
ほどけやすい紐も、薄くなった生地も、急に愛おしく思えた。
今はまだ、高く飛べないシャトルかもしれない。
でも、どこに落ちたいかを迷いながらでも考えていけるなら、もう少しだけ、この靴で走ってもいい気がした。




