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優しい掌篇小説集  作者: 髙橋P.モンゴメリー


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5/5

スニーカーの音

六月の終わり、体育館の床は、まだ午前中のバスケットボールの熱を残していた。

 放課後の光が高い窓から差し込んで、ワックスのきいた床を斜めに照らしている。


 バドミントン部のシャトルが、宙で白く跳ねた。 ラケットが空気を切る音、誰かの笑い声、遠くで吹奏楽部のチューニング。

 その全部を少し離れたステージ袖から眺めながら、春斗はひとり、体育館シューズの紐を結び直していた。


「またほどけてるじゃん、その靴」


 声の方を見ると、バドミントンコートの端で、水色のTシャツを着た美咲が、ペットボトルを片手に立っていた。


「これ、もう寿命なんだよね。紐もさ、何回結んだか分かんない」


「でもさ、そのスニーカーじゃなきゃやだって言って、去年も同じの探してたよね」


「うん。なんか足に合うんだよな」


 春斗は笑って、もう一度ぎゅっと結び目を引いた。 二年生になってから、部活には顔だけ出して、すぐ帰ることも多くなった。

 受験、塾、模試、そんな言葉が廊下のあちこちで飛び交うようになって、体育館の熱気だけが、少し取り残されているように感じる。


「今日は、もう帰るの」


 美咲がステージの方まで歩いてきて、春斗の隣に腰をおろす。 体育館の床より一段高い場所。

 ここに座ると、コート全体が見渡せて、なんとなく観客みたいな気分になる。


「いや、ちょっと見てから帰ろうかなって」


「ふーん。うちらのフォーム、チェックしに来たの」


「いや、それは監督の仕事でしょ」


 二人で笑った。 会話はいつも軽くて、短い。

 でもその軽さが、ここでは心地よい。


 小学校のころから、美咲はどのスポーツをやらせてもそれなりにこなせるタイプだった。 バスケットボール、陸上、テニス。

 中学の三年間であちこちの部活を渡り歩いて、最終的に落ち着いたのがバドミントンだ。


「なんでバドミントンなのって、母さんにはまだ言われるけどね」


「なんでなの」


「シャトルってさ、打つときはめちゃくちゃ軽いのに、落ちるときはちゃんと落ちてくるじゃん。あれが好きなんだよね」


 美咲はラケットを膝に立てかけ、空中を指でなぞるようにしながら言った。


「高く飛んでも、ふわーって落ちてきて、最後はちゃんとラインの中とか外とかに決まるでしょ。

 ああ、ここに落ちたんだって、ちゃんと分かる感じがさ、なんか安心する」


「よく分かんないけど、らしいな」


「春斗は?」


「なにが」


「なんで、もうバスケほとんど来ないの」


 それは、最近自分でもずっとごまかしていた問いだった。 受験勉強のせい、体力が続かないせい、そんな理由を口にすれば、きっと納得はしてもらえる。

 でも、本当は少し違う。


「なんかさ、急に、自分だけ下手なのがしんどくなってきた」


 言葉にしてみると、思っていたよりも情けない響きがした。

 けれど、美咲は「ふーん」とだけ言って、特に笑いもしなかった。


「試合で全然決められなくてさ。 なのに、後輩にはなんかかっこいい先輩に見られてる感じがして。

 それに応えられないのが、きつくなった」


 昔は、ただ走っているだけで楽しかった。 ゴール下に突っ込んでいって、派手に転がって、チームメイトに笑われるのも悪くなかった。

 でも、高校二年になって、うまいやつとうまくないやつの差は、どうあがいても縮まらないみたいに見えてくる。


「じゃあさ」


 しばらく沈黙のあとで、美咲が言う。


「やめるのも、ありじゃない」


「え」


「だってさ。高く飛べないシャトルは、無理にスマッシュ打たなくてもいいじゃん。

 ネットのすぐ上を、ふわっと通る球だってさ、ちゃんと点になるときあるし」


「なんだよ、それ」


「ほんとだよ。高く飛ぶのだけが、すごいってわけじゃないってこと」


 それは、多分バドミントンの話だけではなかった。

 でも、美咲はそれ以上、春斗のバスケについては何も言わなかった。


 コートでは一年生の試合が始まっていた。 ミスも多いけれど、そのたびに大きな声で笑い合っている。

 去年の自分たちも、あんな感じだっただろうか。


 春斗は、体育館シューズのつま先を見つめた。 白い生地は少し汚れて、側面には落書きみたいなサインがいくつか書いてある。

 美咲が中三の文化祭のときに、ふざけてマジックで書いた星印も、まだ薄く残っていた。


「さ」


 美咲が立ち上がる。

 膝を軽く伸ばして、ラケットをくるりと回しながら。


「とりあえず、今日は走って帰ろっか」


「は? なんで」


「春斗んち、うちの帰り道の途中でしょ。ひと駅ぶんぐらい、いけるって」


「いやいや、体育の後にそれはきついって」


「部活サボってる先輩のセリフ?」


「ぐうの音も出ねえ」


 二人はステージから飛び降りて、体育館の出入り口へ向かった。

 外履きに履き替えるとき、スニーカーの紐がまたほどける。


「ほらね」


「はいはい」


 結び直して外に出ると、夕方の風が汗ばんだ首筋をなでていった。

 校門の前の桜並木は、すでに青々とした葉を繁らせている。


 二人並んで走り出すと、スニーカーの音がアスファルトの上にリズムを刻んだ。 決して速くはない。

 息もすぐ上がる。

 それでも、誰かと横に並んで走っていると、その遅ささえ少し誇らしく思えた。


「ねえ、春斗」


「は、い」


「もしさ。もし、ほんとにバスケやめたくなったらさ」


 美咲は走りながら、前を向いたまま続ける。


「やめたあと、どこに落ちたいかだけ、考えときなよ」


「落ちたい、って」


「ほら、さっき言ったじゃん。シャトルって、最終的にどこに落ちたいかで、打ち方変わるって」


「ああ」


「やめて、どこにも行きたくない、じゃなくてさ。

 やめたあと、この辺に落ちたいなって場所があれば、そんなに怖くないと思う」


「……そんなもんかな」


「そんなもんだよ。たぶん」


 自信満々というより、自分にも言い聞かせているような言い方だった。

 美咲にも、美咲なりの「落ちたい場所」が、まだぼんやりしているのかもしれない。


 信号に引っかかって、二人は足を止めた。 肩で息をしながら、春斗は美咲の横顔を盗み見る。

 髪の毛が少し額に張り付いている。

 目尻にはうっすら汗がにじんでいた。


「美咲はさ」


「ん」


「どこに落ちたいの」


「なにそれ、プロポーズみたい」


「そういう意味じゃねえよ」


 二人で笑ったあと、美咲は少しだけ真面目な声になった。


「でも、そうだな。

 いつかさ、どっかの体育館の隅っこで、私の教えた子が打ったシャトルが、ちゃんと狙ったとこに落ちるとこ、見ていたいかも」


「コーチになるってこと」


「分かんないけどね。

 でも、自分が打つより、誰かの一打を見守るのも、案外いいなって思うんだ」


「らしいな、それも」


 信号が青に変わった。

 二人は再び走り出す。


 春斗はまだ、どこに落ちたいのか分からない。 受験も、将来のことも、ぼんやりとした霧の中にある。

 けれど、今日みたいに誰かと話しながら走った感覚だけは、体のどこかに確かに残っていく。


 家の角を曲がるところで、美咲が片手を上げた。


「じゃあ、また体育館でね。サボんなよ」


「お前もな」


 美咲の背中が夕焼けに溶けていくのを見送りながら、春斗は自分のスニーカーのつま先を見下ろした。

 ほどけやすい紐も、薄くなった生地も、急に愛おしく思えた。


 今はまだ、高く飛べないシャトルかもしれない。

 でも、どこに落ちたいかを迷いながらでも考えていけるなら、もう少しだけ、この靴で走ってもいい気がした。

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