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優しい掌篇小説集  作者: 髙橋P.モンゴメリー


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4/5

ひと駅分のメモ

その人と話すようになったのは、「終電一つ前」に乗り遅れた日からだ。


 大学二年の春。

 講義が終わって、サークルの集まりが終わって、打ち上げの片付けまで手伝ったら、時計はもう二二時半を過ぎていた。


 駅のホームに駆け込んだとき、ちょうど私がいつも乗っている「終電一つ前」の電車が、ドアを閉めるところだった。


「あっ」


 思わず声が漏れた。

 でも、ホームの端で立ち止まる私に、電車は何事もなかったみたいな顔をして走り去っていく。


 残されたのは、少し冷たい夜風と、ホームに響くアナウンス。


「次の電車は、終電となります」


 私のすぐ左で、同じタイミングで立ち止まった人が、ふっと笑った。


「惜しかったですね」


 スーツのジャケットを肩にかけた、見覚えのある横顔。

 大学の最寄り駅から何度も同じ電車に乗り合わせていた、あの人だった。


 いつも本を読んでいて、降りる駅も同じ。

 勝手に「終電一つ前の人」と呼んでいたその人が、思ったより少しだけ近くで笑っている。


「すみません、声出てましたか」


「出てました。ドラマみたいなタイミングで」


 からかうような口調だけど、目は優しかった。


「いつも、この時間ですよね」


「え」


 驚いて顔を向けると、相手は少しだけ肩をすくめた。


「いや、なんか、よく同じ車両にいるなあって」


「それは、こっちの台詞です」


 思わずそう返してしまって、夜風に混ざって笑い声がこぼれた。




 終電まであと一五分。

 思ったより長い空き時間だった。


 ホームのベンチは冷たそうで、私たちは何となく、線路を眺めながら立ったまま話を続けた。


「お仕事、遅くまでですか」


 そう聞くと、その人は手に持っていた紙袋を少し持ち上げた。


「今日は取引先との会食だったんです。飲んでないので、そこは信じてください」


「信じます」


 紙袋のロゴは、駅前にある小さなケーキ屋さんのものだった。


「それ、もしや」


「ああ、これですか。ここのシュークリーム、終電前にまだ残ってたので」


「いいなあ、いつも売り切れてて買えないやつ」


「やっぱり人気なんですね」


 彼は少し考え込むように紙袋を見下ろしてから、ふいにこちらを見た。


「ひとつ、いります?」


「え」


「一人で食べると、三つは多いなと思ってたところで」


「三つも買ったんですか」


「同僚に頼まれて。けどその同僚、さっき酔い潰れてタクシーで帰りました」


 それはそれでお気の毒だなと思いながら、私はきちんと遠慮してみる。


「でも、悪いです」


「いいですよ、もともと人に渡す予定の分でしたし。

 それに、同じ電車に乗ってる人と話せる機会なんて、あんまりないじゃないですか」


 そう言われると、断る理由が見つからなかった。


「じゃあ、ありがたく」


 紙袋から出てきたシュークリームは、箱の角で少しだけクリームがはみ出していた。

 ホームの端、壁際のベンチに腰掛けて、私たちはそれぞれひとつずつ受け取る。


「いただきます」


「どうぞ」


 一口かじると、思っていたよりずっとやわらかくて、甘かった。

 寝る前に食べたら絶対に良くないやつだ。でも、今日くらいはいい。


「どうですか」


「おいしいです」


「よかった」


 シュークリームの皮が少し崩れて、指先にクリームがつく。

 それを慌てて舐め取る仕草が、妙に子どもっぽくて恥ずかしかった。


「大学、帰りですか」


 彼がそう尋ねるので、私はうなずいた。


「はい。サークルの飲み会で」


「いいですね、そういうの」


「いいですかね。終電ギリギリまで残って、今はちょっと後悔してます」


「でも、終電一つ前を逃さなかったら、こうしてシュークリームは食べられなかった」


「たしかに」


 それは、変な慰めだけど、妙に納得できてしまう。


「いつも、本読んでますよね」


 私がそう言うと、彼は少し目を丸くした。


「見られてましたか」


「見えますよ。向かいの席とか、斜め前とか」


「そういえば、いつも同じ車両だ」


 彼は少し照れたように笑ってから、首を傾げた。


「何の本、読んでると思ってました?」


「推理小説とか、経済書とか」


「正解は、小説と経済書、半々です」


「ずるい取り方ですね」


 思わず笑うと、彼も声を立てて笑った。

 ホームのスピーカーから流れる次のアナウンスが、一瞬だけ遠く感じる。


「あなたは」


「はい?」


「いつも、降りる駅が一緒ですよね」


「はい」


「なんとなくですけど、音楽聴いてるイメージありました」


「え、なんで」


「ホームで、ときどきリズム取ってますから」


 同じ電車に乗っているだけの人だと思っていたのに、自分が見られていた側だと知って、胸がざわつく。


「恥ずかしいな、それ」


「いや、いいと思います。テンポよさそうな曲、聴いてるなあって」


 彼は、さも当たり前のように言う。


「こうやって話してみると、想像してた通りというか」


「どのあたりが」


「真面目そうで、でもちょっと抜けてるところとか」


「抜けてるのは否定したいです」


「さっき電車に間に合わなかったの、見てましたよ」


「うっ」


 言い返す言葉が見つからなくて、シュークリームをもう一口かじる。

 甘さが少しだけ、悔しさをやわらげてくれた。




 やがて、ホームに電車のライトが見えてくる。

 終電の表示を掲げたその光は、さっきよりも少しだけ心細く見えた。


「そろそろですね」


「ですね」


 立ち上がろうとして、私の目に紙袋の底が入った。

 シュークリームがひとつ、まだ残っている。


「最後のひとつ、どうするんですか」


「どうしましょう」


 彼はしばらく考えてから、静かに言った。


「今日の自分用にしようかと思ってましたけど」


「けど?」


「もしよかったら、これ、預かってもらえませんか」


「預かる?」


「はい。終電一つ前に乗れた日用の、ご褒美シュークリームとして」


 意味を飲み込むまでに、少し時間がかかった。


「それって」


「また同じ電車で会えたら、そのとき受け取りに行きます。無事に終電一つ前に乗れた記念に」


「もし会えなかったら」


「そのときは、あなたの夜食にしてください」


 あまりにも自然に言うから、こっちが戸惑ってしまう。


「そんな、変な約束じゃないですか」


「変ですかね」


「ちょっと」


 でも、嫌ではなかった。

 むしろ、心の奥がじんわりとうれしくなっていく。


「終電一つ前を逃した日が、そんなに悪い日じゃなかったって、思ってもらえたらうれしいので」


「……ずるい言い方ですね」


「さっきの、ずるい取り方よりましです」


 やりとりをしているうちに、電車がホームに滑り込んできた。

 ドアが開く音がして、終電前の乗客たちが、静かに乗り込んでいく。


「どうします」


 彼が少し首を傾げる。


「預かりますか、それとも、ここで食べますか」


「預かります」


 答えは、思ったより早く口から出た。

 彼はほっとしたように笑って、紙袋から残りの箱を取り出す。


「落とさないでくださいね」


「落としません。終電一つ前より大事にします」


「それは光栄です」


 電車に乗り込む前、彼がふと付け足した。


「もし次に会えたら、そのときはお名前、聞いてもいいですか」


「え」


「いつも心の中で、何て呼ぶか悩んでたので」


 彼の方が、少し恥ずかしそうに目をそらす。

 その仕草が、やけにまぶしく見えた。


「次に会えたら、こちらから名乗ります」


 そう答えると、彼はうれしそうに笑った。


「楽しみにしてます」




 電車の中では、いつも通り少し離れた場所に立った。

 でも、いつもと違って、彼の存在が妙に近く感じられた。


 ガタンゴトンという揺れに合わせて、紙袋の中でシュークリームの箱がかすかに音を立てる。

 それが、小さな約束の心音みたいに聞こえた。


 駅に着いて電車を降りるとき、振り返る勇気はなかった。

 彼もきっと、いつものように本を閉じて、いつもの歩幅でホームを歩いている。


 ただひとつ違うのは、私の鞄に、預かったシュークリームが入っていること。




 その夜、家に帰って箱を開けた。

 ふたを閉じる前に、小さなメモを一枚入れる。


「終電一つ前のひとつ前で会えた日」


 シュークリームは、冷蔵庫の奥にしまった。

 明日の自分がうっかり食べないように、箱の上に赤いペンで「食べない」と書いた付箋を貼っておく。


 でも、本当のところ、私は知っていた。


 きっとこの箱を開けるとき、そこにはもうシュークリームは残っていない。

 代わりに、あの人と話した時間の記憶だけが、ふんわり甘く残っている。


 次の「終電一つ前」に、ちゃんと乗れますように。


 目を閉じながらそう願って、私はいつもより少しだけ、穏やかな気持ちで眠りについた。

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