ひと駅分のメモ
その人と話すようになったのは、「終電一つ前」に乗り遅れた日からだ。
大学二年の春。
講義が終わって、サークルの集まりが終わって、打ち上げの片付けまで手伝ったら、時計はもう二二時半を過ぎていた。
駅のホームに駆け込んだとき、ちょうど私がいつも乗っている「終電一つ前」の電車が、ドアを閉めるところだった。
「あっ」
思わず声が漏れた。
でも、ホームの端で立ち止まる私に、電車は何事もなかったみたいな顔をして走り去っていく。
残されたのは、少し冷たい夜風と、ホームに響くアナウンス。
「次の電車は、終電となります」
私のすぐ左で、同じタイミングで立ち止まった人が、ふっと笑った。
「惜しかったですね」
スーツのジャケットを肩にかけた、見覚えのある横顔。
大学の最寄り駅から何度も同じ電車に乗り合わせていた、あの人だった。
いつも本を読んでいて、降りる駅も同じ。
勝手に「終電一つ前の人」と呼んでいたその人が、思ったより少しだけ近くで笑っている。
「すみません、声出てましたか」
「出てました。ドラマみたいなタイミングで」
からかうような口調だけど、目は優しかった。
「いつも、この時間ですよね」
「え」
驚いて顔を向けると、相手は少しだけ肩をすくめた。
「いや、なんか、よく同じ車両にいるなあって」
「それは、こっちの台詞です」
思わずそう返してしまって、夜風に混ざって笑い声がこぼれた。
終電まであと一五分。
思ったより長い空き時間だった。
ホームのベンチは冷たそうで、私たちは何となく、線路を眺めながら立ったまま話を続けた。
「お仕事、遅くまでですか」
そう聞くと、その人は手に持っていた紙袋を少し持ち上げた。
「今日は取引先との会食だったんです。飲んでないので、そこは信じてください」
「信じます」
紙袋のロゴは、駅前にある小さなケーキ屋さんのものだった。
「それ、もしや」
「ああ、これですか。ここのシュークリーム、終電前にまだ残ってたので」
「いいなあ、いつも売り切れてて買えないやつ」
「やっぱり人気なんですね」
彼は少し考え込むように紙袋を見下ろしてから、ふいにこちらを見た。
「ひとつ、いります?」
「え」
「一人で食べると、三つは多いなと思ってたところで」
「三つも買ったんですか」
「同僚に頼まれて。けどその同僚、さっき酔い潰れてタクシーで帰りました」
それはそれでお気の毒だなと思いながら、私はきちんと遠慮してみる。
「でも、悪いです」
「いいですよ、もともと人に渡す予定の分でしたし。
それに、同じ電車に乗ってる人と話せる機会なんて、あんまりないじゃないですか」
そう言われると、断る理由が見つからなかった。
「じゃあ、ありがたく」
紙袋から出てきたシュークリームは、箱の角で少しだけクリームがはみ出していた。
ホームの端、壁際のベンチに腰掛けて、私たちはそれぞれひとつずつ受け取る。
「いただきます」
「どうぞ」
一口かじると、思っていたよりずっとやわらかくて、甘かった。
寝る前に食べたら絶対に良くないやつだ。でも、今日くらいはいい。
「どうですか」
「おいしいです」
「よかった」
シュークリームの皮が少し崩れて、指先にクリームがつく。
それを慌てて舐め取る仕草が、妙に子どもっぽくて恥ずかしかった。
「大学、帰りですか」
彼がそう尋ねるので、私はうなずいた。
「はい。サークルの飲み会で」
「いいですね、そういうの」
「いいですかね。終電ギリギリまで残って、今はちょっと後悔してます」
「でも、終電一つ前を逃さなかったら、こうしてシュークリームは食べられなかった」
「たしかに」
それは、変な慰めだけど、妙に納得できてしまう。
「いつも、本読んでますよね」
私がそう言うと、彼は少し目を丸くした。
「見られてましたか」
「見えますよ。向かいの席とか、斜め前とか」
「そういえば、いつも同じ車両だ」
彼は少し照れたように笑ってから、首を傾げた。
「何の本、読んでると思ってました?」
「推理小説とか、経済書とか」
「正解は、小説と経済書、半々です」
「ずるい取り方ですね」
思わず笑うと、彼も声を立てて笑った。
ホームのスピーカーから流れる次のアナウンスが、一瞬だけ遠く感じる。
「あなたは」
「はい?」
「いつも、降りる駅が一緒ですよね」
「はい」
「なんとなくですけど、音楽聴いてるイメージありました」
「え、なんで」
「ホームで、ときどきリズム取ってますから」
同じ電車に乗っているだけの人だと思っていたのに、自分が見られていた側だと知って、胸がざわつく。
「恥ずかしいな、それ」
「いや、いいと思います。テンポよさそうな曲、聴いてるなあって」
彼は、さも当たり前のように言う。
「こうやって話してみると、想像してた通りというか」
「どのあたりが」
「真面目そうで、でもちょっと抜けてるところとか」
「抜けてるのは否定したいです」
「さっき電車に間に合わなかったの、見てましたよ」
「うっ」
言い返す言葉が見つからなくて、シュークリームをもう一口かじる。
甘さが少しだけ、悔しさをやわらげてくれた。
やがて、ホームに電車のライトが見えてくる。
終電の表示を掲げたその光は、さっきよりも少しだけ心細く見えた。
「そろそろですね」
「ですね」
立ち上がろうとして、私の目に紙袋の底が入った。
シュークリームがひとつ、まだ残っている。
「最後のひとつ、どうするんですか」
「どうしましょう」
彼はしばらく考えてから、静かに言った。
「今日の自分用にしようかと思ってましたけど」
「けど?」
「もしよかったら、これ、預かってもらえませんか」
「預かる?」
「はい。終電一つ前に乗れた日用の、ご褒美シュークリームとして」
意味を飲み込むまでに、少し時間がかかった。
「それって」
「また同じ電車で会えたら、そのとき受け取りに行きます。無事に終電一つ前に乗れた記念に」
「もし会えなかったら」
「そのときは、あなたの夜食にしてください」
あまりにも自然に言うから、こっちが戸惑ってしまう。
「そんな、変な約束じゃないですか」
「変ですかね」
「ちょっと」
でも、嫌ではなかった。
むしろ、心の奥がじんわりとうれしくなっていく。
「終電一つ前を逃した日が、そんなに悪い日じゃなかったって、思ってもらえたらうれしいので」
「……ずるい言い方ですね」
「さっきの、ずるい取り方よりましです」
やりとりをしているうちに、電車がホームに滑り込んできた。
ドアが開く音がして、終電前の乗客たちが、静かに乗り込んでいく。
「どうします」
彼が少し首を傾げる。
「預かりますか、それとも、ここで食べますか」
「預かります」
答えは、思ったより早く口から出た。
彼はほっとしたように笑って、紙袋から残りの箱を取り出す。
「落とさないでくださいね」
「落としません。終電一つ前より大事にします」
「それは光栄です」
電車に乗り込む前、彼がふと付け足した。
「もし次に会えたら、そのときはお名前、聞いてもいいですか」
「え」
「いつも心の中で、何て呼ぶか悩んでたので」
彼の方が、少し恥ずかしそうに目をそらす。
その仕草が、やけにまぶしく見えた。
「次に会えたら、こちらから名乗ります」
そう答えると、彼はうれしそうに笑った。
「楽しみにしてます」
電車の中では、いつも通り少し離れた場所に立った。
でも、いつもと違って、彼の存在が妙に近く感じられた。
ガタンゴトンという揺れに合わせて、紙袋の中でシュークリームの箱がかすかに音を立てる。
それが、小さな約束の心音みたいに聞こえた。
駅に着いて電車を降りるとき、振り返る勇気はなかった。
彼もきっと、いつものように本を閉じて、いつもの歩幅でホームを歩いている。
ただひとつ違うのは、私の鞄に、預かったシュークリームが入っていること。
その夜、家に帰って箱を開けた。
ふたを閉じる前に、小さなメモを一枚入れる。
「終電一つ前のひとつ前で会えた日」
シュークリームは、冷蔵庫の奥にしまった。
明日の自分がうっかり食べないように、箱の上に赤いペンで「食べない」と書いた付箋を貼っておく。
でも、本当のところ、私は知っていた。
きっとこの箱を開けるとき、そこにはもうシュークリームは残っていない。
代わりに、あの人と話した時間の記憶だけが、ふんわり甘く残っている。
次の「終電一つ前」に、ちゃんと乗れますように。
目を閉じながらそう願って、私はいつもより少しだけ、穏やかな気持ちで眠りについた。




