ポケットのあめ玉
駅まで歩いて十五分。
春菜の通勤路のちょうどまんなかあたりに、小さな公園がある。
遊具はブランコが二つに、低いすべり台が一つ。 あとは、少しペンキのはげた木のベンチがぽつんと置かれているだけだ。
近くを通るたび、春菜はそのベンチに、心の中で「おはよう」と声をかけるのが習慣になっていた。
最初からそうしていたわけではない。 ある冬の朝、冷え込む道をうつむきながら歩いていたとき、ふと顔を上げると、ベンチの上にうっすら雪が積もっていた。
背もたれの上にかろうじて残った雪のラインが、肩をすくめて座っている誰かの背中みたいに見えて、思わず小さく笑ってしまったのだ。
「寒いね。風、つよいね」
そのとき、心の中でそうつぶやいたのが、最初の「あいさつ」だった。 それからというもの、公園の前を通るたび、春菜はベンチに話しかける。
声には出さない。けれど、胸のあたりで小さく言葉を浮かべる。
「今日も眠いね」「雨、降りそうだね」「あの雲、アイスクリームみたいだね」
返事が返ってくるわけではない。
それでも、ベンチにだけは、自分のどうでもいい気分を預けていいような気がしていた。
その日、職場で大きなミスをした。
書類の日付を一つ間違えただけ。
たったそれだけなのに、取引先からの信頼問題に発展してしまい、上司は会議室で深いため息をついた。
「春菜さん、確認したって言ってたよね」
責める声ではなかったが、言葉の重さが胸の奥に沈んでいく。
同じ係の先輩が「まあまあ」と場をなだめてくれたけれど、そのやさしささえ、刺さるときがある。
仕事が終わるころには、肩はがちがちに硬くなっていた。
パソコンをシャットダウンするとき、自分の名前が画面に現れるのさえ見たくなかった。
外に出ると、雨が降っていた。 細かな雨粒が街灯に照らされて、白い糸みたいに落ちてくる。
折りたたみ傘を鞄に入れていたはずなのに、朝は晴れていたからとロッカーに置いてきてしまった。
「最悪だなあ」
思わず口に出した声は、雨音にすぐ飲み込まれた。
公園の前まで来ると、足が自然と止まった。
ベンチは、いつもより色が濃く見える。 雨に濡れて、木目がくっきりと浮かび上がり、背もたれのところには水の筋がいくつも流れている。
誰も座っていないはずなのに、そこだけ、空気がやわらかく沈んで見えた。
雨宿りをするには頼りない屋根しかないけれど、それでも、春菜は公園に入っていった。 ベンチの横には、古い街灯が一本立っている。
その明かりに照らされると、濡れた木の質感は、なぜか少しあたたかそうに見えた。
ため息をついて、そっと腰をおろす。
ジーンズの布越しに、ひんやりとした感触が伝わった。
ポケットの中で、かさかさと包み紙が鳴る。 昼休みに食べようとして、そのまま忘れていたあめ玉が、一粒だけ残っていた。 白と緑のしま模様の、ミント味のあめ。
コンビニで三つ百円のシリーズのうちのひとつ。
春菜はそれを指先でつまみ、しばらくじっと見つめた。 今日一日、何度も「もう消えてしまいたい」と思った。 泣けたら少しは楽なのかもしれないのに、涙さえ出てこない。
代わりに胸の奥にたまっているのは、言葉にできない重たいものだった。
「……あげようか」
誰にともなく、つぶやく。
その声は、雨音に紛れながらも、確かに自分の耳に届いた。
春菜は、あめ玉をベンチの端にそっと置いた。 いつも自分が座る位置から、少し離れたところ。
そこは、誰かが隣に座るとしたら、腰をおろすであろう場所だ。
「今日は、私のほうが元気ないからさ。ちょっと分けてもらってもいい?」
そう言って、自分用のもう一粒を口に入れる。
ミントのひんやりした甘さが舌に広がり、鼻の奥がすっと通った気がした。
目を閉じてゆっくり息を吐くと、雨の匂いとコーヒーの残り香と、ミントの香りが混ざり合う。 失敗した事実も、叱られたことも、消えるわけじゃない。
それでも、ベンチとあめ玉に少しだけ気持ちを預けてみたら、「全部自分ひとりのせい」という感覚が、ほんの少し薄くなった。
どれくらい座っていただろう。
気づけば雨は弱まり、空の色も、真っ黒から濃い群青へと変わっていた。
立ち上がる前に、春菜はもう一度ベンチの端を見た。
そこには、さっき置いたあめ玉が、街灯の明かりを受けてちいさく光っている。
「明日の私にも、ちょっと元気残しておいてよ」
冗談みたいなお願いをして、春菜はベンチから離れた。 背中に柔らかな視線を感じた気がして、振り返りたくなったが、あえてそのまま歩き出す。 ポケットの中には、もう何も入っていない。
でも、胸の中には、さっきより少しだけ軽い何かが入っているようだった。
翌朝。
空はからりと晴れて、昨夜の雨がうそのようだった。
寝不足気味の頭を抱えながらも、春菜はいつもどおりの時間に家を出た。
公園が近づくにつれ、心臓の鼓動がすこしだけ早くなる。 ベンチは、どうなっているだろう。
あめ玉は、まだそこにあるだろうか。
公園の入口からのぞくと、ベンチはちゃんとそこにいた。 街灯の下で見るよりも、朝日のほうが似合っている。
木の色は少し明るく、濡れた跡もほとんど消えていた。
そして、ベンチの端には、あめ玉がなかった。
誰かが拾って食べたのかもしれない。 掃除のおじさんが「危ないから」と片付けたのかもしれない。
もしかしたら、カラスが興味本位でつついていったのかもしれない。
それでも春菜は、少しだけ考えてから、心の中でこう決めた。
「ベンチが、ちゃんと食べたんだ」
そう思うと、なんだかうれしくなった。 自分が置いていった気持ちを、誰かが受け取ってくれたような気がしたからだ。
それが誰であれ、もう自分ひとりが抱えているだけの重さではない。
春菜はベンチに向かって、胸の中でそっとあいさつする。
「おはよう。昨日はありがとう」
いつもより少しだけ長い「おはよう」だった。 ベンチは、もちろん何も言わない。 しかし、不意に吹いた風が枝を揺らし、葉っぱがさらさらと鳴った。
それが、聞き慣れない返事のように思えて、春菜は小さく笑った。
その日、会社では昨日のミスの後処理が続いた。
取引先へ謝罪の電話をかけ、書類を作り直し、上司と一緒に再発防止のチェックリストを作る。
「大変だけど、これで次からはもっと安心だね」
先輩がそう言って笑ったとき、春菜は素直に「はい」と答えることができた。 昨日の自分なら、きっと「すみません」を先に口にしていただろう。
謝ることも大事だけれど、それだけだと、いつまでも自分のことを許せないままだと気づいたのだ。
昼休み、コンビニへ行った春菜は、ついさっきの棚の前で立ち止まった。 あのミント味のあめ玉が入った袋を手に取る。
今日は、三粒すべて自分のために買った。
「ひとつは、帰り道の私。ひとつは、家でがんばる私。もうひとつは……」
頭の中に浮かんだのは、公園のベンチの姿だった。
夕方。
帰り道、公園に着くと、ベンチの上には落ち葉が数枚乗っていた。 春菜はそれをそっと払ってから、ポケットを探る。
新しいミントのあめ玉を一粒取り出し、昨日と同じ位置に置いた。
「今日はお礼。ちゃんと受け取ってね」
自分の分を口に入れると、胸の奥がすっとする。 昨日の涙の出ない重たさとは違う、静かな冷たさだ。
この冷たさなら、少しぐらいなら抱えて歩いていける気がした。
春菜は立ち上がり、ベンチに背を向ける。
ポケットの中には、もう一粒、明日のためのあめ玉が残っている。
「また明日も、ここを通るからね」
心の中でそう告げて、歩き出した。
駅へ向かう道は、昨日と同じ長さのはずなのに、今日は少しだけ短く感じる。
世界は何ひとつ変わっていない。
けれど、ポケットにあめ玉を一粒入れているだけで、自分の中の何かが、すこしずつ変わりはじめているような気がした。




