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優しい掌篇小説集  作者: 髙橋P.モンゴメリー


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3/5

ポケットのあめ玉

駅まで歩いて十五分。

 春菜の通勤路のちょうどまんなかあたりに、小さな公園がある。


 遊具はブランコが二つに、低いすべり台が一つ。 あとは、少しペンキのはげた木のベンチがぽつんと置かれているだけだ。

 近くを通るたび、春菜はそのベンチに、心の中で「おはよう」と声をかけるのが習慣になっていた。


 最初からそうしていたわけではない。 ある冬の朝、冷え込む道をうつむきながら歩いていたとき、ふと顔を上げると、ベンチの上にうっすら雪が積もっていた。

 背もたれの上にかろうじて残った雪のラインが、肩をすくめて座っている誰かの背中みたいに見えて、思わず小さく笑ってしまったのだ。


「寒いね。風、つよいね」


 そのとき、心の中でそうつぶやいたのが、最初の「あいさつ」だった。 それからというもの、公園の前を通るたび、春菜はベンチに話しかける。

 声には出さない。けれど、胸のあたりで小さく言葉を浮かべる。


「今日も眠いね」「雨、降りそうだね」「あの雲、アイスクリームみたいだね」


 返事が返ってくるわけではない。

 それでも、ベンチにだけは、自分のどうでもいい気分を預けていいような気がしていた。




 その日、職場で大きなミスをした。


 書類の日付を一つ間違えただけ。

 たったそれだけなのに、取引先からの信頼問題に発展してしまい、上司は会議室で深いため息をついた。


「春菜さん、確認したって言ってたよね」


 責める声ではなかったが、言葉の重さが胸の奥に沈んでいく。

 同じ係の先輩が「まあまあ」と場をなだめてくれたけれど、そのやさしささえ、刺さるときがある。


 仕事が終わるころには、肩はがちがちに硬くなっていた。

 パソコンをシャットダウンするとき、自分の名前が画面に現れるのさえ見たくなかった。


 外に出ると、雨が降っていた。 細かな雨粒が街灯に照らされて、白い糸みたいに落ちてくる。

 折りたたみ傘を鞄に入れていたはずなのに、朝は晴れていたからとロッカーに置いてきてしまった。


「最悪だなあ」


 思わず口に出した声は、雨音にすぐ飲み込まれた。




 公園の前まで来ると、足が自然と止まった。


 ベンチは、いつもより色が濃く見える。 雨に濡れて、木目がくっきりと浮かび上がり、背もたれのところには水の筋がいくつも流れている。

 誰も座っていないはずなのに、そこだけ、空気がやわらかく沈んで見えた。


 雨宿りをするには頼りない屋根しかないけれど、それでも、春菜は公園に入っていった。 ベンチの横には、古い街灯が一本立っている。

 その明かりに照らされると、濡れた木の質感は、なぜか少しあたたかそうに見えた。


 ため息をついて、そっと腰をおろす。

 ジーンズの布越しに、ひんやりとした感触が伝わった。


 ポケットの中で、かさかさと包み紙が鳴る。 昼休みに食べようとして、そのまま忘れていたあめ玉が、一粒だけ残っていた。 白と緑のしま模様の、ミント味のあめ。

 コンビニで三つ百円のシリーズのうちのひとつ。


 春菜はそれを指先でつまみ、しばらくじっと見つめた。 今日一日、何度も「もう消えてしまいたい」と思った。 泣けたら少しは楽なのかもしれないのに、涙さえ出てこない。

 代わりに胸の奥にたまっているのは、言葉にできない重たいものだった。


「……あげようか」


 誰にともなく、つぶやく。

 その声は、雨音に紛れながらも、確かに自分の耳に届いた。


 春菜は、あめ玉をベンチの端にそっと置いた。 いつも自分が座る位置から、少し離れたところ。

 そこは、誰かが隣に座るとしたら、腰をおろすであろう場所だ。


「今日は、私のほうが元気ないからさ。ちょっと分けてもらってもいい?」


 そう言って、自分用のもう一粒を口に入れる。

 ミントのひんやりした甘さが舌に広がり、鼻の奥がすっと通った気がした。


 目を閉じてゆっくり息を吐くと、雨の匂いとコーヒーの残り香と、ミントの香りが混ざり合う。 失敗した事実も、叱られたことも、消えるわけじゃない。

 それでも、ベンチとあめ玉に少しだけ気持ちを預けてみたら、「全部自分ひとりのせい」という感覚が、ほんの少し薄くなった。




 どれくらい座っていただろう。

 気づけば雨は弱まり、空の色も、真っ黒から濃い群青へと変わっていた。


 立ち上がる前に、春菜はもう一度ベンチの端を見た。

 そこには、さっき置いたあめ玉が、街灯の明かりを受けてちいさく光っている。


「明日の私にも、ちょっと元気残しておいてよ」


 冗談みたいなお願いをして、春菜はベンチから離れた。 背中に柔らかな視線を感じた気がして、振り返りたくなったが、あえてそのまま歩き出す。 ポケットの中には、もう何も入っていない。

 でも、胸の中には、さっきより少しだけ軽い何かが入っているようだった。




 翌朝。


 空はからりと晴れて、昨夜の雨がうそのようだった。

 寝不足気味の頭を抱えながらも、春菜はいつもどおりの時間に家を出た。


 公園が近づくにつれ、心臓の鼓動がすこしだけ早くなる。 ベンチは、どうなっているだろう。

 あめ玉は、まだそこにあるだろうか。


 公園の入口からのぞくと、ベンチはちゃんとそこにいた。 街灯の下で見るよりも、朝日のほうが似合っている。

 木の色は少し明るく、濡れた跡もほとんど消えていた。


 そして、ベンチの端には、あめ玉がなかった。


 誰かが拾って食べたのかもしれない。 掃除のおじさんが「危ないから」と片付けたのかもしれない。

 もしかしたら、カラスが興味本位でつついていったのかもしれない。


 それでも春菜は、少しだけ考えてから、心の中でこう決めた。


「ベンチが、ちゃんと食べたんだ」


 そう思うと、なんだかうれしくなった。 自分が置いていった気持ちを、誰かが受け取ってくれたような気がしたからだ。

 それが誰であれ、もう自分ひとりが抱えているだけの重さではない。


 春菜はベンチに向かって、胸の中でそっとあいさつする。


「おはよう。昨日はありがとう」


 いつもより少しだけ長い「おはよう」だった。 ベンチは、もちろん何も言わない。 しかし、不意に吹いた風が枝を揺らし、葉っぱがさらさらと鳴った。

 それが、聞き慣れない返事のように思えて、春菜は小さく笑った。




 その日、会社では昨日のミスの後処理が続いた。

 取引先へ謝罪の電話をかけ、書類を作り直し、上司と一緒に再発防止のチェックリストを作る。


「大変だけど、これで次からはもっと安心だね」


 先輩がそう言って笑ったとき、春菜は素直に「はい」と答えることができた。 昨日の自分なら、きっと「すみません」を先に口にしていただろう。

 謝ることも大事だけれど、それだけだと、いつまでも自分のことを許せないままだと気づいたのだ。


 昼休み、コンビニへ行った春菜は、ついさっきの棚の前で立ち止まった。 あのミント味のあめ玉が入った袋を手に取る。

 今日は、三粒すべて自分のために買った。


「ひとつは、帰り道の私。ひとつは、家でがんばる私。もうひとつは……」


 頭の中に浮かんだのは、公園のベンチの姿だった。




 夕方。


 帰り道、公園に着くと、ベンチの上には落ち葉が数枚乗っていた。 春菜はそれをそっと払ってから、ポケットを探る。

 新しいミントのあめ玉を一粒取り出し、昨日と同じ位置に置いた。


「今日はお礼。ちゃんと受け取ってね」


 自分の分を口に入れると、胸の奥がすっとする。 昨日の涙の出ない重たさとは違う、静かな冷たさだ。

 この冷たさなら、少しぐらいなら抱えて歩いていける気がした。


 春菜は立ち上がり、ベンチに背を向ける。

 ポケットの中には、もう一粒、明日のためのあめ玉が残っている。


「また明日も、ここを通るからね」


 心の中でそう告げて、歩き出した。

 駅へ向かう道は、昨日と同じ長さのはずなのに、今日は少しだけ短く感じる。


 世界は何ひとつ変わっていない。

 けれど、ポケットにあめ玉を一粒入れているだけで、自分の中の何かが、すこしずつ変わりはじめているような気がした。

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