第一話 世界の異物、そして魔王の帰還
時は現在より一ヶ月前――。
人間界とは違う魔界と呼ばれる土地、そこにある巨大な城塞・魔王城にて、一つの決戦が行われていた。
「オラージュ……、天魔七十二姫、そしてメイド兵たち全軍を下がらせなさい」
そう呟くのは、最前線にあって長剣を手に、巨大な幻魔竜王を睨む白髪の老女――、現魔王であった。すぐ傍に控えるメイド服の女性は、その言葉を聞いて苦渋に顔を歪める。
「魔王様――」
「後は……、そうね、貴方の固有権能で、あの幻魔竜王の動きを、少しだけ止めてちょうだい」
老女は――、魔王は、優しげな笑顔を傍らのメイドに向ける。それをメイド――、オラージュ・ヴェルゼビュートは、悲しみに満ちた瞳で見つめた。
「ああ……、最後に、あの娘たちの顔を見ておきたかったけれど、――それは贅沢だわね?」
「魔王……さま」
「そんな顔をしないで――オラージュ。もはや三月も持たない命を……、貴方たちの為に使わせてちょうだい」
オラージュは、俯いて目を瞑り、確かに頭を縦に振る。それを満足そうに見つめて微笑む魔王は――、下りゆく背後の娘たちに向かって言った。
「オラージュ……、そしてみんな。最後の時まで一緒にいてくれてありがとう。この先は――、あの子と共に生きなさい……」
「……。……はい、承知いたしました。……全ては魔王様の御心のままに――」
首を垂れるメイドたちを背に魔王は一人歩みゆく。
雷鳴を纏い咆哮を放つ幻魔竜王。それを睨みながら魔王は――、微笑んで世界の向こうにいる我が子を想ったのである。
(ジード――)
――その日、魔王城を突如襲撃した幻魔竜王は、老いる事のないはずの天魔族の主、――しかし老いて寿命が尽きつつあった魔王の最後の一撃で消滅した。
そうして魔界は――、長きに亘り魔界を護り続けてきた、偉大なる魔王を失った。
◆◇◆
――何処とも言えない黒く白い力の奔流の中心で、メイド服の女性・オラージュ・ヴェルゼビュートは静かに言葉を発する。
「聞こえますか? 太陽系生命惑星管理体――、……さん」
その名前に当たる部分は、音声としては生まれることはなかった。彼ら神々の領域における御言葉による名前は、根源的・概念的な象徴であり、音という形を持たないからである。
そして、それに答えるように、オラージュの目前に淡く光る人型が現れた。
「――ふむ、君は……。なるほど、例の厄介者を回収しに来てくれたのだね?」
「厄介者……ですか。まあ……あなた方にとってはそうでしょうね」
そう言ってオラージュは小さく笑った。それを見て淡く光を放った人型は、さらに言葉を続ける。
「日常生活に支障がないよう、抑え込んではいるがもう無理だな。君たちの主神なんだから、早く自分たちの世界に戻すべきだろ?」
「……無論、そのためにこそ来たのです。とりあえず通行許可をお願いいたします」
「ふむ……」
その光の人型は小さく首を傾げる。
「君は……、通常稼働だけで約90メガジュール前後か……。なるべく人間には触れないでくれよ?」
「――大丈夫です。手加減ぐらいは出来ますとも――」
――私も、神格の端くれですから。
オラージュはそう言って、エプロンドレスのスカートの端をつまんで恭しく頭を下げたのである。
◆◇◆
僕は、和室の仏壇の前で手を合わせてその写真を見つめた。
「ばあちゃん……」
数日前、僕のことを育ててくれていた祖母が老衰でなくなった。これで、僕はまさしく天涯孤独の身になったのだ。
僕の名は【天魔 総司】――、近くの森部高等学校に通う高校生……、だった。
「はあ……」
僕はただため息を付く。
ただ一人の後援者であった祖母が亡くなった以上、僕自身の日頃のバイト代だけでは私立高校である森部高等学校の費用を賄うことは不可能だ。もちろん、ため息を付いているのは、祖母が亡くなったことによって通学費用を賄えなくなったからではない。
そんな事は、実のところどうでもいい話だった。
僕のことを大事にしてくれていた優しい祖母は、ただ僕の将来のため――、と無理を通して僕を高校に通わせてくれていたのだ。そんな彼女に、なにかの形でお返しができたら……そう考えていたのに、礼を返す前に祖母は旅立ってしまった。感謝を示す機会は永遠に失われた。
(――母さんの事も……)
祖母は、祖父とともに母さんから僕のことを預かって、大事に育ててくれた恩人だ。母さんのことを知っているのは祖父母だけであり、その事を聞く機会ももはや失われてしまった。
僕は、もはやどうしようもない後悔を想う。あの時――、高校入学直後祖父がなくなり、迷惑をかけまいと高校を辞める決意をした僕に――、
「――ばあちゃんのことをバカにしないでおくれ。せめて、総司が高校を卒業する姿を見せておくれ」
――そう言って祖母は止めたのである。あの時、本当はどうすればよかったのか? 僕はただ重い心を胸に抱くだけであった。
遥か彼方の記憶。おそらくは物心がつく前後のうっすらとした記憶。
僕は母の腕に抱かれて、そして母は僕に涙を流しながら謝っていた。
――ごめんねジード。
(ジード……、僕の本当の名前。それが何を意味するのか……)
僕は、幾度かのため息をついてから立ち上がる。
これから一人で生きていかなければならない。せっかく祖母に言われて通っていた高校も、費用が払えない以上通い続けることは不可能だ。
いろいろな手続きをするために、僕は立ち上がってそして祖父母と暮らした家を後にする。
――その先に、僕は一つの出会いを迎える。
ガラララ……。
僕が家の玄関を出て、見慣れた住宅街を役所へと歩いていると、不意に眼の前を塞ぐ人たちが現れた。それを見て僕は、ただ困惑の表情を浮かべる。
「よう……、天魔……」
「葛城くん?」
それは、森部高校の同級生でもある少年たちである。その最前列で僕を睨む葛城くんが僕に向かって手にした煙草の吸殻をほおってきた。
「……学校に出てきてないな天魔。怖気づいたのか?」
「葛城くん……あの」
僕は困った顔で俯く。そんな僕と視線を合わせるべく、腰を曲げて下から僕を睨みつけてくる葛城くん。
「天魔ぁ。いい加減俺等をばかにするんじゃねえよ? 俺等と本気でやり合えや……」
「……」
僕は黙って視線をそらす。それを葛城くんは侮辱と受け取った。
「天魔ぁ……、てめえいつも手加減しやがって、気に障るんだよ……、俺等を馬鹿にしやがって」
「馬鹿になんて……」
「じゃあ本気出せや!! あの時は……」
僕はそういう葛城くんから目を逸らしながらかつてを思い出す。彼らが同級生の女子にひどいことをしようとしていた時、偶然それを見てしまった僕は、黙っておけずに止めたことがあったのだ。
「……あれから、いっつも手加減しやがって! あの時のてめえは、今みたいな俺らにヤられっぱなしじゃなかったろうが!!」
「……」
彼らの語る通り僕は彼らを止めた。彼らを止めるには、乱暴な手段を取らざるおえなかった。
――僕は、生まれつき異様なほど身体能力が高かった。
それは、わざと手加減して記録を抑えないと、体育の身体測定などで異常な値を示してしてしまうほどだった。言ってしまえば【あまりに人間離れしていた】のである。
喧嘩の経験の一切ない僕は、それでも、日常的に喧嘩をして、更には元空手部主将クラスである葛城くんと、その仲間たちを一人で叩きのめしてしまった。それ以降、葛城くんたちに目をつけられて追われる毎日を暮らしていた。
僕のことを取り囲んで、そしてじわじわ間合いを詰めてくる葛城くんの仲間たち。僕は――、
「急ぐからごめん!」
「あ!」
その場から、軽くジャンプして包囲する彼らを飛び越えてから、僕は走ってその場を後にしたのである。
「――!!」
後方、遥か果てから叫び声が聞こえるが僕は構わずに走った。全力ならば自動車に追いつける僕ならば、彼らを振り切るのは簡単な話だった。
「はあ……」
ため息をつきながら僕は今後を考える。もしかしたら、今の家を出て別の場所で暮らすべきなのかもしれない。――そう僕は考えていた。
◆◇◆
夕方頃、現在可能な手続きをすべて終えて家路についた僕の前に、再び葛城くんたちが現れた。
僕はとっさに逃げようと考えるが――、僕はその脚を止めざるおえなかった。
「葛城くん……」
僕は呆然として彼に向かって呟く。
彼は――、
「……総司にいちゃん」
僕の近所に住んでいる仲の良い小学生――、たまに遊んであげている子どもの首にナイフを突きつけていたのである。
「いつも遊んでいて仲が良さそうだったからなぁ……。これなら俺らに逆らえないだろ?」
「な、なんてこと……」
「お? 大きな声出すなよ? 近所に知らせるような事するならこのガキの首が切れるぞ?」
さすがの僕は何も言えなくなる。ナイフを突きつけられた少年は涙目で怯えきっていた。
「葛城くん、もうやめよう? こんなことしたら……」
「うるせぇ……、俺等をこれ以上馬鹿にするな」
その血走った眼が僕を睨む。僕は決意の思いでその場に正座をした。
「……僕のことをどうにかしたいなら自由にしていいから。その子を離してくれ……。このとおりだ」
僕はそう言って地面に頭を擦り付けて土下座をした。その光景を少年と、そして葛城達は驚きの目で見つめた。
「気に入らないなら自由にしてくれ。もう誰も傷つけないでくれ」
僕はただひたすらそう訴える。あの時、暴力で解決しようとしてしまった僕の間違いだと考えたからである。
僕が彼らからの暴力を受け入れてしまえば、彼らは納得するだろうと考えた。それは間違いだったのだが――。
「……」
絶句していた葛城くんは、一瞬眉を歪めた後にその表情を怒りの色に染めた。
「やっぱ……、てめえ俺等を馬鹿にしてるな?!」
唾を撒き散らしながらそう怒りの声を上げる葛城くん。その腕に抱えた少年をほおって僕に向かってナイフを向ける。
「俺は誰にも負けない!! 負けなかった!! それなのに……、てめえみたいないい子ちゃんなんかに!!」
そのまま、僕に向かって走って。そしてナイフを振るった。
「……!!」
その時、その場の誰もが言葉を失った。何もいない空間に不意にメイド服を来た女性が現れて、葛城くんの腕を掴んでみせたからである。
その女性は歳の頃は20代前半あたりか、長い黒髪を頭の後ろでまとめて、白黒のヘッドドレスとエプロンドレスを身に着けた、今まで見たこともないほど美しい女性だった。
その手に白手袋をはめて、メイドシューズを履いたその姿は、西洋の昔のドラマなどで出てきそうなゴシック系のメイドに見えた。
そして、その女性は僕に背を向けた状態で、静かにはっきりとした口調で言ったのである。
「総司様……、貴方の、自身を犠牲にする考え方は崇高ではありますが、彼に対しては決して正しい事ではありません」
そう言って静かに佇む女性に、葛城くんの仲間たちは口々に叫んだ。
「な、なんだテメェ!!」「いきなりなんだ?!」
僕はその場で跪いたまま彼女を見上げる。
「あ、貴方は……」
「お迎えに参りました総司様。私の名はオラージュ・ヴェルゼビュート、貴方の母上の使用人でございます」
その言葉を聞いた瞬間、僕は心臓が破裂しそうなほどの驚きを得た。押し殺すような声が僕の口から出る。
「か、母さんの?」
「……はい。この件は、もはや見届けるに値しないと判断し、介入させていただきました」
そう言って無表情で葛城くんを見つめる女性。葛城くんは必死に暴れて、その掴む腕を剥がそうとするが……、その手は万力に掴まれたかのように動かなかった。
「テメェ放せ! 人質が……」
傍にいた葛城くんの仲間たちが、逃げようとする少年を捕まえて叫ぶ。しかし、女性は感情のない表情で彼らを見つめた。
「……」
「ぐ! 離さないと……」
「人質をどうにかしたいなら、どうぞご自由に……。そうすれば、私の貴方がたに対する容赦が消えるだけですので……」
そういう女性の表情は、まるでマネキン人形のように無機質で冷たいものであった。そして、そんな彼女は僕に向かって言葉を発する。
「総司様……、貴方のその人間に対してお優しいその御心、間違いではありませんが、彼らの為にはなっておりません。何故なら、彼らをここまで追い詰めたのは、貴方のその優しさなのですから」
「……!」
驚く僕に視線を向けて、その女性は静かに語りかけてくる。
「彼らが望むのは納得です。彼らの望みは正しい決着なのです」
「……」
「ですから、あなたは彼らに対して、徹底的な、容赦のない決着を示すべきでした。そうすれば彼らにとってあなたはただの恐怖となって、もはや抗う意思もなくなったでしょう」
その言葉を聞いて僕は黙って俯く。その姿を見てその女性は優しく微笑んだ。
「ええ……、無論、わたくしも理解しておりますとも。そうなれば、あなた様は、自らと彼らの違いを自ら示し、そして孤独感を感じるのですよね?」
「くそ、放せ!」
必死で暴れる葛城くんを無視して彼女は言葉を続ける。
「ええ、それはどうしようもないことでございます。なぜならば……」
――貴方様はこの世界の存在ではないのですから。
僕はその彼女の言葉を、驚きと、微かな納得をもって聞いた。
◆◇◆
「この世界の存在ではない?」
その僕の言葉に女性は静かに頷く。そして――、
「人間様方……、どうか抵抗なきよう。今からわたくしの力を示しますので、それでご判断を――」
そう言った彼女は、葛城くんを掴んだまま近くのコンクリート壁の方へと歩いてゆく。そして――。
ゴ……!
空いているもう一つの手の指で、そのコンクリート壁を容易く砕いてしまったのである。
流石のその光景に絶句する葛城くんたち。
「……以上のことは、ここにいらっしゃる総司様もおこなえます。なんなら貴方がたの頭を掴んで、果実のように軽く潰すことも出来るのです」
「え?! あ……」
その言葉にその場の皆が青ざめる。葛城くんはなにか憑き物が落ちたかのような表情で僕を見た。
「彼がそれをしないのは、貴方がたを共に暮らす仲間だと考えているからです。その想いをどうかご理解ください」
その場の誰もが黙って僕を見る。僕は黙って俯くことしか出来なかった。
「総司様……、この世界への違和感。そして孤独感。ご理解いたします。それゆえにどうか我らの故郷へとご帰還ください」
「あなたの世界――、僕の本当の故郷?」
「――それが、あなたのお母様の遺言でございます」
その言葉に、僕は再び驚き目を見開く。
――お母様の遺言。ならば僕の母さんは……。
「貴方様のお母様は、故有って貴方様をこの世界に逃さなければならなかった」
「僕を、逃がす?」
「ええ、でも――、今の貴方様であれば問題も、来たるべき試練も乗り越えられるでしょう」
彼女はそう言って僕に微笑む。
「そして、そしてどうか我々を――」
――貴方様の同族である我々の未来を、お救いくださいますよう。
その女性は――、オラージュ・ヴェルゼビュートさんはそう言って僕に向かって手を差し出す。
僕は立ち上がると、黙ってその手に自分の手を重ねた。
――そして光が満ちてゆく。
◆◇◆
葛城とその仲間たちは呆然とした様子で周りを見回す。
「あ? あれ俺らなにを?」
誰もが自分たちが今何をしているのか覚えていない。彼らに人質にされていた少年も、何が起こってなんでここにいるのか理解できずに首を傾げた。
――その世界のすべての要素から【天魔 総司】の記録が消えていた。
そして、彼という存在が消えた事実は、世界律の影響を受けながら矛盾がない形へと急速に修正されてゆく。
こうして【天魔 総司】の生きた証は、その世界から消えたのである。
◆◇◆
ゴオオオオオオオオ……!!
雲を突き抜けたその先に、無限に広がっているかのように見える森林地帯が現れる。
現在、僕は遥か空の上から、オラージュ・ヴェルゼビュートさんの腕にすがりついた状態で落下しているのであった。
普通ならば、水平線が球の一部として曲がって見えるはずが、その彼方は真っ直ぐに直線に見えている。その事実が何なのか考える暇もなく、僕はただ風に煽られて吹き飛びかける自身を彼女の腕に縋り付いた。
「……先程は、説教のような話をして申し訳ありません」
「うぐううう……、そ、それはいいですけど……、これは」
「ええ、あなた様の故郷であるテラ・ラレースを、手っ取り早く理解していただけたらと、あえて中央大陸上空――、高度30kmあたりに帰還いたしました」
「――さ、さんじゅ」
あまりの事態に涙目で絶句する僕。オラージュさんは、そんな僕に優しく微笑むと。静かに頷いてから僕をその胸に抱き寄せた。
とてもあたたかく柔らかい感触と、いい匂いが鼻孔をくすぐり、僕は顔を真赤にする。彼女はそんな僕の様子に構わず、そして――。
ボ……!
不意に、オラージュさんの腰の、黒いリボンが左右へと大きく広がり、その姿をコウモリやドラゴンの如き被膜翼へと変えた。
そうして生まれた翼は、彼女自身よりも大きく左右に広がり、そして物理法則を完全に無視してその身を、僕らを遥か天空で支えたのである。
「総司様……、いえ魔王様……、ようこそご帰還くださいました。我らが故郷テラ・ラレースへ――」
僕は言葉もなく、ただ目前に広がる異世界を見つめる。
「このまま魔王城へと向かいます。そこでお母様――、先代魔王様とお会いください」
そう言って優しく微笑む彼女に、その時の僕は黙って頷いた。




