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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

「哀れな人は、憎むべき人でもある」

作者: 吉姜

新学期最初の週の午後、廊下にはキャリーバッグの車輪が床を擦る音が満ちていた。

寮の廊下は狭く、壁には雨水がコンクリートの隙間に染み込んで長く滞ったような、消えない湿気の匂いが漂っている。

階段口で誰かが叫び、誰かは荷物を抱え、誰かはしゃがみ込んで宅配便を開けていた。

階全体が賑やかで、けれど混沌としていた。

部屋のドアを開けると、目に飛び込んできたのは典型的な「上がベッド、下が机」という造りだった。

ぱっと見は整然としていて立派だ。木板の表面には光沢のある木目調のシートが貼られ、照明を受けて温かみのある模様を反射している。

だがよく見るとすぐに偽物だと分かる。シートの下、角の部分はすでに腐っていて、木は触れるだけで柔らかく崩れそうだった。

何本かのネジは抜け落ちて錆を残し、最後の一本だけが孔に固く食い込んでいる。

まるで落ちるべき釘が、意地でも落ちずに居座っているように。

その光景に、胸の奥で妙なざわめきを覚えた。

この部屋は体裁を繕っているけれど、骨の部分はもう壊れている。

そのときは深く考えず、むしろ「思ったより新しいじゃないか」と笑って机を撫でた。

――後になって気づく。この部屋の姿は、彼そのものだったのだと。

俺がキャリーバッグを押して部屋に入ると、彼も古びたリュックを提げて現れた。

リュックのファスナーは壊れ、細い紐で無理やり結ばれている。毛羽立ったその紐は、長年使い込まれた証のようだった。

着ている服は色褪せ、靴底は今にも剥がれそう。背中は窮屈そうに丸まり、歩くたびに全身が重みに押し潰されそうに見えた。

彼は顔を上げ、少しぎこちない笑みを浮かべた。

「どうも、新しく入ったんです。家が貧乏で、あまり準備できなくて……いろいろ迷惑かけると思います。」

声は低く、自嘲を含んでいた。先に自分を卑下しておけば、誰にも笑われないとでも思っているように。

俺たちは顔を見合わせたが、誰も言葉を発さなかった。

胸の奥に同情がふっと湧き上がる。

――そんなに可哀想な境遇なんだ。

人が苦しければ、性格も少しは穏やかになるんじゃないか。

助けてあげるべきなのかもしれない。

彼の荷物は少なかった。数枚の服と、歯ブラシの入ったコップ、そして折れ曲がった漫画本が一冊。

俺たちの荷物と比べると、あまりにみすぼらしい。そのとき、俺はむしろ気後れを覚えた。ノートパソコンや本を持ち込んだ自分が、少し恥ずかしかった。

彼は椅子に腰を下ろし、笑いながら言った。

「俺、たぶんいろいろ不便かけると思うんだ。金がなくて、少しずつ揃えるしかないから。」

言葉は丁寧だったが、その瞳に一瞬だけ光るものがあった。

それは怯えや卑屈さではなく、「ここはもう自分の場所だ」と確認するような光。

当時の俺は気づかず、ただ「正直でいい奴だな」と思っただけだった。

夜、初めて皆で食事に行ったとき、彼は財布を開き「もう数百円しかない」と笑い、料理を脇へ避けた。

「俺は見てるだけでいいよ、慣れてるから。」

俺たちは面食らった。誰かが「一緒に食べろよ」と言っても、彼は首を振った。

そのとき、俺はつい言ってしまった。

「じゃあ次は俺がおごるよ。」

彼は顔を上げ、ふっと笑った。安堵の色が一気に溢れる。

俺はそれを感謝の眼差しだと思った。

――後で気づいた。

あのときの笑みは「こいつから最初に吸える」と確信した証だったのだと。

その夜、ベッドの軋む音を聞きながら俺は思った。

「大変そうだけど、少しなら手助けできるだろう。人は困ったとき、誰かに引き上げてもらうものだ。」

――まさか、この「可哀想」という始まりが地獄の入口だなんて。まだ知る由もなかった。



本当の始まりは、ある静かな夜だった。

俺がノートパソコンに向かってレポートを書いていると、背後の影が机の灯りに伸びてきた。

「……ちょっと、金貸してくれない?」

不意に声をかけられ、手が止まった。

振り返ると、彼はぎこちなく立ち尽くし、スマホのケースをいじり続けていた。

指先が白くなるほど擦り、何かを誤魔化すように。

「どうした?」

「来週、生活費が足りなくて……臨時で払うものがあって、もう無理なんだ。」

言葉は早口で、まるで暗記した台詞のように滑り出た。

その瞬間、胸の奥が軟らかくなった。

誰にだって苦しいときはある。入居したときから家が貧しいと言っていたし、仕方ないだろう。

俺はスマホを開き、金額を打ち込み、送金を確定した。

画面に「振込完了」と表示された瞬間、彼は大きく息を吐き出した。肩の荷が下りたように。

「助かった。必ず返すから。」

そう言って笑った顔に、俺もつられて笑ってしまった。

翌日、本当に少しだけ返金があった。

全部ではなかったが、「忘れてない」と示されたことに安堵した。

――彼は借り逃げするような奴じゃない。

そう信じた。

だが、すぐにまた頼まれた。

「三食で金が尽きて……」

「今日、サークル費払わないといけなくて。」

「カードが壊れて、手持ちがないんだ。」

理由は変わるが、口調はいつも同じ。少し申し訳なさそうに笑い、俺の心の柔らかいところを突いてくる。

断ろうと口を開いても、その笑顔を見た瞬間、言葉が喉で止まった。

やがて額が大きくなった。

「月末には返すから、もう少し……」

俺は迷った。

スマホの画面に表示された金額、指が宙で震える。

――貸すべきか。

頭の中で二つの声がぶつかる。

「前もちゃんと返してたじゃないか、きっと大丈夫だ。」

「いや、このままじゃずっと引きずられるぞ。」

結局、送金した。

彼は受け取ると肩の力を抜き、にっこり笑った。

「お前、本当にいい奴だな。」

その言葉に、俺は誇らしさすら覚えた。

自分の善意が、誰かの命を救ったような気がしたのだ。

けれど、それは習慣になっていった。

夜更け、他のルームメイトが眠った頃、彼は必ずやってきて声を潜める。

――断れない時間を選んでいるようにしか思えなかった。

返済の仕方もおかしくなっていった。

少額を少しずつ返し、「返しただろ?残りはそのうち」と胸を張る。

まるでそれで十分だと言わんばかりに。

俺は帳簿をつけ始めた。

メモ帳に「借りた日」「金額」「返済の有無」を列挙し、スクショを並べた。

証拠がなければ、自分の記憶さえ疑ってしまうから。

最初に金を貸したとき、俺は善意だと思った。

だが二度目からは、彼に新しい言い訳を与えていただけだった。

そして彼は笑って受け取り、一度も「清算しよう」とはしなかった。

その夜、俺は天井を見つめながら気づいた。

――これが泥沼の始まりだったのだ、と。



夏が本格的に訪れると、寮はまるで密閉された蒸し器のようになった。

空気は湿り気を帯び、壁に触れるとぬるりとした感触が残る。

シーツは一晩で汗に濡れ、重く張り付いた。

窓を閉めれば、部屋全体に熱がこもり、呼吸さえ苦しい。

唯一の救いは冷房だった。

冷房はカード式で、チャージしないと動かない。

俺たちは話し合って、皆で均等に出し合い、交代でチャージすることに決めた。

額は大きくない。それでも夏の夜を乗り切るための唯一の費用だった。

だが、彼だけは一度も払わなかった。

最初の日、彼は笑いながら言った。

「今ちょっと金がなくて……次に必ず出すよ。」

俺たちは黙って頷いた。――入ったばかりだし、少し猶予を与えてもいいだろう。

だが二日目も払わず、三日目も払わない。

そのまま「払わないのが当たり前」になった。

皮肉なことに、一番「暑い!」と騒ぐのは、いつも彼だった。

額に汗をにじませ、我慢できないと言わんばかりに立ち上がり、リモコンを奪うように操作する。

「もう無理!暑すぎ!」

冷風が轟音を立てて吹き出す。

真っ先にその涼しさを浴びるのは彼。

椅子に深くもたれかかり、半分目を閉じて、まるで人間に戻ったような顔をする。

俺たちは互いに目を合わせるだけで、何も言えなかった。

一度でも文句を言えば、すぐ返ってくるのは決まっている。

「俺が金ないのは知ってるだろ?そんなに責めたいのか?俺に死ねって言うのか?」

この台詞が、すべてを封じる。

同情を盾にされれば、誰も強く言えなくなる。

ある夜、カード残高が残りわずかになったときでさえ、彼は当然のように言った。

「また減ったのか?誰かチャージしてきてよ。」

喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。

――なぜ俺たちが払ってばかりなんだ?

言えなかった。

口にすれば、空気が一瞬で凍りつき、最後には俺が「細かすぎる奴」にされるのが目に見えていたから。

俺たちは黙って財布を開き、再びカードを満たした。

そのとき胸に広がったのは、涼しさではなく、焼けつくような怒りだった。

俺はふと思った。

――彼がいなければ、この部屋はもっと静かで、もっと公平で、もっと涼しかったのではないか。

だが口にすることはできない。

もし言えば、すぐさま返ってくるのは「彼をかばう声」だった。

「仕方ないだろ、あいつの家は大変なんだ。」

「少しは我慢してやれよ。」

――我慢。

その二文字が、首に巻き付く縄のように、少しずつ締まっていく。

冷房の風は顔に当たっても、胸の奥は熱く焼けつくばかりだった。

なぜなら、その涼しさの代金に、彼の分は一円も含まれていなかったからだ。

俺が見たのは、冷風の中で安らかに眠る彼の横顔だった。

その寝顔は穏やかで、誰よりも安らかで――

その瞬間、心の奥で初めてこう思った。

――こういう人間は、地獄で窒息してもおかしくない。



彼の口癖は「金がない」だった。

食費がない、冷房代がない、映画に行く余裕もない。

俺たちはみんなそれを信じて、時には代わりに払ってやった。学生だし、仕方ないと。

だが、ある晩――。

ドアが「ガチャリ」と開き、彼がビニール袋をいくつも抱えて帰ってきた。

袋同士が擦れ合い、「シャラシャラ」と硬い箱の音を立てる。

袋の隙間から、鮮やかなキャラクターの顔が覗いた。

彼の表情は異様なほど高揚していた。

目が輝き、口元が緩み、まるで宝物を掘り当てた子どものように。

机に袋を並べ、中から箱を取り出す。

厚紙の表面に印刷されたキャラクターたちが、こちらに冷たく笑いかける。

彼はそのテープを一つひとつ慎重に剥がし、目を細めてうっとりと眺めた。

俺たちは凍りついた。

思わず誰かが口を開いた。

「……お前、金がないって言ってなかったか?」

一瞬だけ彼の表情が固まった。だがすぐに戻り、今度は妙に正義感を装った声で言い放った。

「これが俺の唯一の楽しみなんだよ。これもダメなら死ぬしかないだろ?」

部屋の空気が一瞬で止まった。

箱の中のキャラクターたちは相変わらず笑っている。

だがその笑みは、俺たちを嘲笑しているようにしか見えなかった。

――死ぬしかない。

その言葉一つで、すべての疑問や怒りが封じられる。

何を言おうと、「人を死に追いやる酷い奴」にされてしまう。

彼はそれを知っている。

だからためらいもなく、その台詞を切り札のように使う。

俺の喉は詰まり、拳は膝の上で固まった。

心の中では、あのフィギュアの箱を全部床に叩きつけ、踏み砕き、粉々にしてやる光景がはっきり浮かんでいた。

プラスチックが割れる「パキッ」という音まで想像できた。

だが俺は何もできなかった。

ただ見ているしかなかった。

彼は机に一列に並べたフィギュアを、祭壇の供物のように整えていく。

その顔には、安堵と誇らしさが同時に浮かんでいた。

俺の胸は焼けつくように熱く、歯を食いしばる音が耳の奥で響いた。

――この男は、可哀想なんかじゃない。

――ただ「可哀想」を演じているだけだ。

あの瞬間、俺の中の同情は完全に死んだ。



ゴミ箱は三日間あふれたままだった。

一日目、俺は「まあ誰でも面倒な時はある」と自分に言い聞かせた。

二日目、「もう一日待てば、きっと誰かが捨てるだろう」と無理やり期待した。

三日目、諦めに変わった。――結局、誰も動かない。

床は足裏にべたつき、歩くたびに「ペタッ」と音を立てる。

そのたびに心の中で声が響いた。

――お前は他人のゴミの上で暮らしているのに、文句ひとつ言えないのか?

言いたかった。

だが言えばどうなる?

彼はきっと笑いながらこう返すだろう。

「お前の方がきれい好きなんだろ?ならお前がやればいいじゃん。」

俺はもう彼の口調を完璧に再現できる。

声色も、口角の角度も。

だからこそ、何も言えなかった。

夜はさらに酷かった。

彼のパソコンが点くと、部屋全体が戦場になる。

爆音のゲーム効果音、アニメの絶叫、笑い声が壁を震わせる。

「少し静かにしてくれ」と言いたかった。

喉まで出かかったが、また飲み込んだ。

――少し待てば、きっと切り上げるだろう。

だが、一時間経っても二時間経っても、彼は終わらない。

我慢すればするほど、自分が縮こまっていく気がした。

一番耐え難いのは彼の笑いだった。

唐突に爆発するような大声。

「ハハハハハ!」

机を叩き、体を震わせる。

俺はその度に心臓が止まりそうになり、手が震えてノートに飲み物をこぼしたこともある。

だが彼は止まらない。

むしろこちらに向かって叫ぶ。

「このシーンやばい!お前らも聞けよ!」

俺は布団の中で息を殺しながら、心の中で何度も叫んでいた。

――黙れ。静かにしろ。

だが声にすれば返ってくる答えは決まっている。

「お前、敏感すぎだろ?」

だから俺は黙った。

黙っているうちに、自分の方がおかしいのではないかと疑い始めた。

本当に俺が神経質なだけなのか?

他の奴らは平気そうに見えるじゃないか。

だが、心の奥でははっきり分かっていた。

この部屋では「大きな声を出した者が正義」なのだ。

黙る者は、存在しないのと同じ。

四日目、結局ゴミを捨てたのは俺だった。

黒い袋を持ち上げると、底から液体が漏れ、床に黄色い跡が残った。

――これは忍耐じゃない、強制的に飲まされているんだ。

心の中でそう叫んだが、次の瞬間、別の声が返ってきた。

――いや、お前が選んで黙ったんだろ?

矛盾の中で、俺の歯は砕けそうなほど食いしばられていた。

夜、部屋の隅では彼がまた爆笑していた。

机の上にはフィギュアが並び、白い照明を浴びて冷たく笑っている。

その笑みが俺にはこう言っているように見えた。

――お前は負け犬だ。ここでは何も変えられない。

俺はシーツの下で目を閉じ、心臓の鼓動を押さえつけながら、ただ耐えるしかなかった。



深夜零時を過ぎても、部屋は爆音で満ちていた。

ゲームの効果音が炸裂し、アニメの叫び声が耳を刺す。

耳栓をして布団に潜り込んでも、低音は胸に響き、心臓を乱打した。

「ドンドン、ドンドン」――胸の内側から叩かれるようで、呼吸が乱れる。

布団の中でシーツを掴み、皺が増えていく。

「もう一日だけ我慢すれば」と自分に言い聞かせた。

だが、それは何度目の「我慢」だったか。

ゴミは俺が捨てた。

床も俺が拭いた。

冷房代も俺が出した。

何一つ変わらなかった。

心の奥で鋭い声が突き刺さる。

――お前が黙っているから、相手は勝っているんだ。

体を起こし、呼吸が荒くなる。

涙は出ない。ただ目の奥が熱い。

モニターの光に照らされた彼の背中。肩が揺れ、大笑いが爆発する。

「ハハハハハ!」

その声が耳元で机を叩かれるように響き、俺の肘は壁に当たり、鈍い痛みが走った。

彼は気づきもしない。ますます笑い、椅子を揺らした。

――もう無理だ。

俺はノートパソコンを開き、迷わず音量を最大にした。

轟音が部屋を満たし、瓶やノートが震える。

彼の爆音を押し潰すように、低音が床を突き抜けた。

振り返った彼の目が怒りに揺れる。

だがすぐに冷めた表情に戻り、何事もなかったかのように画面へ向き直った。

俺の心臓は乱打し、呼吸は焼けるように熱い。

――これが毎日俺に与えていた音だ。思い知れ。

その夜、部屋は二つの音がぶつかり合い、蛇のように絡み合った。

天井から埃が落ち、壁が震え、まるで戦場だった。

翌朝、頭痛と耳鳴りに襲われながらも、心の奥で笑みが浮かんだ。

――ようやく一晩、俺だけが我慢したわけじゃない。

だが数日後、皆が一斉にヘッドホンをつけ始めた。

まるで示し合わせたように。

俺が部屋に戻ると、全員が一瞬視線を上げ、すぐ逸らした。

空気が冷たく張り詰め、芝居のように揃っていた。

昼、寮長に呼ばれた。

「音量の件、君が通報されている。」

冷房の効いた事務室で、その言葉だけが氷のように突き刺さった。


――なぜ俺なんだ?


本当に毎晩騒いでいたのは彼だ。

大声で笑っていたのも彼だ。

なのに、寮長に通報されたのは俺だった。

部屋に戻ると、彼は机でフィギュアを磨いていた。

棚に並んだ顔がライトに照らされ、冷たく笑っていた。

他の奴らはイヤホンを外さず、肩を固くして画面を睨んでいる。

俺は立ち尽くし、胸が焼けるように痛んだ。

――リーダーは彼。

――他はただの追従者。

全員、同じ穴の狢だ。

心の中で叫んでも、声にはできなかった。

もし叫べば、涙混じりの哀願にしかならないと分かっていたから。

その夜、布団の中で何度も繰り返した。

「毎晩騒いでいたのは俺じゃない。

本当に暑いと騒いで冷房代を払わなかったのも俺じゃない。

それなのに、罰を受けたのは俺だった。」

――公平なんて、演技の上にしか存在しない。



その夜、腹痛に襲われ、俺は足を引きずるようにしてトイレへ向かった。

灯りは冷たく白く、タイルに反射して目に刺さる。

床はまだ濡れていて、誰かが水を流した直後のようだった。

空気には消毒液の匂いと、カビのこもった臭気が混じっていた。

腰を下ろした瞬間、冷たい便座が肌に触れ、背筋が震えた。

その時、廊下から鍵の回る音がした。

「カチリ」――扉が押し開けられ、彼ともう一人が入ってきた。

靴底が廊下の水跡を踏み、「パシャ、パシャ」と響く。

一歩一歩が耳に突き刺さるほど大きく聞こえた。

最初は何でもない雑談だった。

だが、すぐに聞こえた――俺の名前。

声は大きくなかったが、刃物のように胸に突き刺さった。

「アイツはただの芝居だよな。」

「そうそう、音量の件でも被害者ぶりやがって。」

「死んじまえばいいのに。」

心臓が一気に縮み上がった。

手に握っていたトイレットペーパーが汗で湿り、ぐしゃりと硬く歪んだ。

便座の冷たさが骨にまで染み込むのに、顔だけが燃えるように熱い。

――気づいてるのか?俺がここにいるって。

いや、多分気づいてない。

だが、それがかえって恐ろしかった。

これが本当の奴らなんだ。

迷いもためらいもなく、愉快そうに俺を切り捨てる。

きっと、何度も繰り返してきた会話なのだろう。

俺は喉を鳴らし、わざと音を立てた。

外は一瞬、静まり返った。

だが次の瞬間、彼の声が低く、より冷たく響いた。

「人間には人間の言葉で、犬には犬語でいいだろ。」

全身が石のように固まった。

耳の奥で血流の音が轟き、頭蓋の中で太鼓が打ち鳴らされる。

立ち上がろうとしても、脚が杭のように床に打ち付けられたまま動かない。

怖いからではない。

あまりに不快で、吐き気がするほどだった。

借金を願い出る時の卑屈な笑み。

「金がない」と訴える時の無垢な顔。

フィギュアを抱えて帰る時の開き直った態度。

その全てが脳裏で交錯し、胃の中をかき乱した。

――これが本性だ。哀れな仮面の下に隠された、犬の口。

ようやく身を拭き終え、震える手で紙を丸めて便器に落とした。

壁のひび割れを睨みつけ、深く息を吸い込む。

ドアノブは冷たく滑り、全力で回してようやく開いた。

廊下の空気が流れ込み、洗濯室の湿気を含んでいた。

一歩踏み出した時、彼が振り返った。

その目は、まるで何もなかったかのように澄んでいた。

さっきの言葉など、幻覚だったとでもいうように。

俺は口を開かず、その横を通り過ぎた。

背後は静まり返り、靴底が床に吸い付く音だけが響いた。

心の中では叫んでいた。

――忘れるな、この瞬間を。この顔を。

幻覚じゃない。これが奴の本当の姿だ。

そして、俺が完全に見限った瞬間でもあった。



金のことが一番厄介だった

最初のうちは彼も遠慮がちで たまに少し返してきた

「悪いな 次は必ず返すよ」

振込履歴には確かに数百円が表示されていた

その時はほっとして まだ覚えてくれているんだとすら思った

「人間 誰だって落ち込む時期はある 少し我慢すればいい」 そう自分に言い聞かせた

だがすぐに金額は膨らみ 回数も頻繁になった

週に三度 しかも理由はいつも同じだった

「急に必要になった 金が足りない」

「今月はちょっと厳しい だから貸して」

「食費がないんだ 頼むよ」

その口ぶりは台本を覚えた役者のように滑らかだった

最初は貸すかどうか迷ったが 結局いつも心が折れた

返済は?

一応はあった

だが返すのはますます遅くなり 金額もどんどん少なくなっていった

やがて新しい言い訳が出てきた

「この前返したじゃん」

俺は固まった 頭の中で必死に振込履歴を探る

「いつ?」

彼は眉を上げ 堂々とした声で答えた

「この前まとめて返したろ」

俺はじっと見つめた

心臓がドクドク鳴る

返していないのは確かだ だが彼はあまりに自然に言うので 本当にあった気がしてくる

俺は自分の記憶を疑い始めた

その後はもっと馬鹿げたやり取りが続いた

「その分まだ返してないぞ」

「返したよ お前が忘れてるだけだろ」

さらに突っ込むと「どうせ一緒に計算すればいいだろ」と言い換える

どの言葉も靴底にこびりついたガムのように汚く どこまでもついてくる

仕方なく俺は記録を取り始めた

スマホのメモ帳に日付ごとに金額を書き入れ 返済済みにはチェック 未返済にはバツ

振込履歴を何度も開き スクリーンショットをフォルダいっぱいに並べた

夜 その数字の列を睨みつけ 目が裂けそうなほど痛んだ

証拠を集めているはずなのに 見れば見るほど自分が道化に思えてくる

たとえ証拠を突きつけても 彼は一言で押し返す

「お前 ケチすぎだろ」

「そんなに細かく考えてどうする」

一度 本当にスマホを突きつけて言ったことがある

画面の光で俺の顔は蒼白に照らされていた

「ここ ここ これ全部まだ返してないだろ」

彼はベッドに半分寝そべり スマホを弄りながら まぶたすら上げずに答えた

「金がない」

その三文字は軽く吐き出されたのに 俺の顔面に石をぶつけられたように重かった

俺は茫然とした

頭の中は真っ白 耳鳴りが「ブーン」と響く

その言葉が特別鋭かったわけじゃない

俺が突然悟ったからだ

――彼にとって 俺の善意は命綱じゃなく ただのATMだった

使えるだけ使い 切れたら捨てる それだけだ

その瞬間 俺は自分を疑った

俺が本当に細かすぎるのか?

こんなに真剣になる方がおかしいのか?

友情に金の計算を持ち込むこと自体 間違いなのか?

だが心の奥でもう一つの声が叫んだ

――違う!

彼が「可哀想」という仮面を何度も被ったからこそ 俺は吸い尽くされたんだ

ベッドに戻り 天井を睨んだ 胸が火に焼かれるように痛む

「この前返した」という言葉が耳の奥で反響し続け 頭皮を掻きむしりたくなり 歯を噛み砕きたくなった

俺はようやく気づいた

息が詰まるのは金額のせいじゃない

毎回の清算が 俺の中に残っていた同情を 少しずつ引き剝がしていくからだ

そして最後には もう「可哀想な奴だ」とさえ言えなくなっていた。



週末の夕方 寮の空気は乾ききって 今にも裂けそうだった

俺はドアの前に立ち 手を鍵にかけた 心臓がドクドクとうるさく跳ねる

この瞬間 もう退路はないと分かっていた

「カチリ」と音を立てて鍵が閉まる その澄んだ音は まるで自分を裁判室に閉じ込めた合図のようだった

彼は椅子の背にもたれ 足を小さく揺らし 椅子の脚が床を引っ掻いて耳障りな音を立てていた

モニターの光が彼の顔を照らし 白々しく眩しい

他のルームメイトは皆 俯いたまま 一人はスマホを弄るふり 一人はイヤホンをして 一人は壁に背を向けた

部屋の空気は凝り固まり 唯一聞こえるのはPCファンの回転音だけだった

俺は彼を睨み 声を低くした

「冷房カード 一度も出してないくせに 一番よく暑いって騒ぐのはお前だ」

彼は目を細め 口元を歪め 冷笑した

「俺に金なんてないんだよ」

胸の炎が一気に噴き上がる

「金は返すって言ったのに 結局返してない」

「その時まとめて返したじゃん!」彼は苛立ちを隠そうともせず返す

俺は机の上のフィギュアの列を指差した プラスチックの顔が揃って笑っている

「金がないって言いながら フィギュアは机いっぱいに並べるんだな」

彼は勢いよく顔を上げ 挑発的な目で言い放った

「お前に関係ないだろ」

空気が凍りつく

他の奴らの肩が一瞬震えたが すぐに固まって 誰も口を開かなかった

自分の血の音が耳の奥で轟いていた

「通報の件 みんな本当は分かってるはずだ 毎晩音を撒き散らしていたのは俺じゃない! なのに狙われたのは俺だ!」

声は震えながらも 叫べば叫ぶほど鋭くなる

「一人が先導し 他の奴はただ追従する 全部クソ同じだ!」

空気が数秒 固まった

その時 隅から押し殺した声が響いた 震えながらも刺さるような声で

「……お前の方がマジでやりすぎなんだよ 彼の音量ならまだ我慢できるだろ」

俺は反射的に振り向き 目の前が真っ暗になった

心臓が内側から鷲掴みにされたように強く縮み 息が詰まる

その後の言葉はもう聞き取れない 耳の中に「ブーン」という音が広がり 世界全体が遠のいた

頭の中は真っ白 ただ一つの問いだけが壁に激しくぶつかっていた

――何が「我慢できる」だ?

俺は何夜も耐えてきた 何度も心臓が止まりそうなほど驚かされ 何度も布団に潜り込み 口を噤んできた

その結果が 「やりすぎ」だと?

俺は生身の人間じゃなく 笑いものだと感じた 過敏で 大げさで 醜い道化だと

その瞬間 初めて本当の意味で分かった

沈黙は中立じゃない それは刃物だ

彼らは大声で責めなくても 軽い一言で 俺を逃げ場のない場所に押し込める

この部屋には 俺の味方なんて最初からいなかった

俺は一人から孤立したんじゃない この空間そのものに飲み込まれていたんだ

彼は眉を上げ 例の無垢な表情を作ってみせた

「寮長が言ったことだろ 俺に関係ねぇ」

その口調は軽く 最初から傍観者であるかのようだった

呼吸が荒くなり 喉は火がついたように乾く

俺は彼の机に近づき そのフィギュアの列を睨みつけた

プラスチックの顔が一つ残らず冷たく笑い 俺を見据えている

手が痙攣し 掴んで机から薙ぎ払いたくて仕方なかった 叩き落として踏み砕き その笑みを徹底的に壊したかった

頭の中では鮮明な映像が流れていた

箱が落ちる プラスチックが砕ける 彼の目が見開き 表情が崩れる

耳には「パキン」と割れる音まで響いていた

呼吸は荒く 指先まで真っ白に冷えていた

だが俺は何もできなかった

衝動は胸の中で爆弾のように膨れ上がり 胃液が喉に逆流し 焼けるように熱かった

その塊を飲み込み 血の味を嚥下するしかなかった

振り向き クローゼットの取っ手を掴む 鏡に映った自分の顔は真っ赤に染まり 血走り 獣のように追い詰められていた

自分でも知らない冷え切った声が出た

「俺は出ていく」

彼は椅子に寄りかかり 両手を後頭部で組み 軽蔑の笑みを浮かべた

「勝手にしろ」

その瞬間 俺は悟った

これは口論でも議論でもない

最初から決まっていた裁きだった

そして俺は死刑を宣告されたのだ。



衣装棚の一番上から荷物をまとめ始めた

そこには冬用の大きなコートがあった 袖口は硬くなり まるでインスタントラーメンの汁で焦がした跡のようだった

それを広げると 細かな埃がぱらぱらと落ちた 壊れた時間から零れ落ちる砂のように

背板にはうっすらとしたひびが 木目に沿って下まで伸びていた 静かに大きくなっていく傷口のように

引き出しの中の碗の底には油の跡が丸く残っていた 紙で拭うとすぐに黄ばんだ輪が浮かぶ

「これは俺の油じゃない」 小声で呟く まるで引き出しに向かって話しているように

その碗を箱に入れるとき 手はまだ震えていた 怒りではなく 長い忍耐の果てに出る微かな痙攣 ずっと張り詰めていた筋肉がようやく解放されるように

シーツをまとめると 洗剤の匂いでは隠せない古びた匂いが残っていた

ベッド板を持ち上げると 見覚えのない計算表や折れたプラスチックのフォーク そしてくしゃくしゃに潰れたレシートが出てきた 文字は滲んでいたが「XXフィギュア」の文字だけが読めた

レシートを丸め また広げる 紙は柔らかく 皺だらけ 俺の心みたいだった

彼は机に座り 背筋を崩さず フィギュアを布で拭いていた

俺が一つ物を片づけるたび 椅子の脚が「ギィ」と鳴る まるでここがまだ彼の領域だと主張するように

言葉はなかった 俺も彼を見なかった

数秒のあいだ 俺はあの並んだプラスチックの顔を羨んだ いつも笑っているだけで 引っ越しの惨めさを味わう必要がないから

一つ目の箱をテープで封をする テープが紙を裂く音が長く響く まるでこの部屋に最後の線を引くように

箱には「本」「衣類」「雑貨」と書いた わざと「食器」とは書かなかった あの油汚れを思い出したくなかったから

スリッパが床に貼りつき 一歩ごとに「ペタ」と音を立てる

雑巾でその部分を拭くと 瞬く間に灰色に染まった それを袋に放り込み 結び 封をした箱の横に置く

部屋は少しずつ切り裂かれていくようだった 俺の物は減っていき 彼の物はそのまま

まるで「俺」をこの空間から切り離す手術のように

二つ目の箱を閉じたとき 廊下を誰かが通りかかり 中を覗き込んだが 何も言わずに去った

背中が一瞬強張った 誰かに指先で突かれたように それは恥ではなく ただ すれ違う人の視線の方が 今ここにいる連中より俺の状況を理解していると分かるからだ

ここにいる奴らは 何の反応もない

沈黙がこの部屋の共通語だった

ハンガーをまとめる 骨を掴んで束ねるみたいに

衣装棚の底には忘れ去られた靴下が入った袋があった 黒と灰の片方ずつ 湿って少し黴臭かった 袋は開けず そのまま捨てた

「俺たちの」匂いを残したくなかったから

三つ目の箱は少し重い ノートPC 延長コード 充電器 大学一年から今まで一度も書き終えられなかったノートを入れた

最初のページは整然と書かれていたが 後ろへ行くほど乱れていき 最後は白紙だった

あるページに「少し我慢すれば過ぎる」と書かれていた

俺はその一行を見つめた まるで世界は勝手に修復してくれると信じていた昔の自分を見ているように

ノートを閉じ 箱の底に押し込んだ

「引っ越すの?」

背後から声がした 淡く 誰かを起こさないような声

振り返ると もう一人のルームメイトがドア枠に寄りかかっていた 目は俺と箱を行き来していた

俺は頷いた

彼は「ふーん」とだけ言い まるで天気の話をしたみたいだった その視線が一瞬 彼――フィギュアを拭いている男――に止まり すぐに逸らして去っていった

一歩も入ってこず 手を貸すこともなかった

一つ目の箱を持ち出すとき キャスターがタイルの溝に何度も引っかかった 「ガタン ガタン」 抵抗のような音

階段口で寮長に会った 箱を見てから俺を見て「台車要るか?」と訊いた

その声は事務的だったが 先日の「通報」のときよりは少し柔らかかった

俺は首を振った

彼は道を譲った

戻って二つ目の箱を持つと 彼は依然机に座り フィギュアを拭いていた

ライトに照らされたプラスチックの顔が並んで冷たく笑っていた まるで無言の芝居を眺めているように

俺が一つ片づけるたび 椅子の脚が「ギィ」と鳴る

だが 彼は何も言わず 何も手を貸さず 視線すら上げなかった

俺はただ空の部屋で荷物を運び出すみたいだった 響くのはテープを裂く音と 自分の荒い呼吸だけ

そのときほどはっきり思ったことはなかった

彼は俺を追い出す必要も 引き止める必要もない

彼の冷たさこそが最後の勝利の姿だった

……

机の角に小さな傷があった ある夜 騒音に驚いてペンを落とし 木に突き刺した跡だった

記憶より浅かったが 一目で分かった

指で撫で かつての自分に別れを告げた

三つ目の箱を積み上げ キャリーケースの上に載せ 持ち手を掴む

肩紐が擦れ熱く痛んだ

奇妙な感覚に襲われた これらの箱は荷物を入れたものではなく 抜き取られた釘を詰め込んだものだ

角を合わせ 骨を元に戻すように

ドアの灯りが明滅し 光が床で揺れた

最後に部屋を見回す ベッド 机 椅子 あの笑うプラスチックの顔

空気にはカップ麺の匂い 湿った靴下の匂い 長く動いたPCの焦げ臭い匂いが残っていた

やがてこれらの匂いが俺を洗い流すように この部屋の記憶から俺を消すだろう

スイッチに手を置いたとき 彼が言った

「お前 本当に根に持つよな」

軽い調子で ビー玉を転がすみたいに

俺は振り返らなかった

灯りを消した

闇が布のようにすべてを覆った

廊下の窓が少し開き 洗濯室の湿った熱気が流れ込む

階段口から誰かが上がってくる足音と 箱の車輪の音が交錯する

俺は重さを左右の手に分け 肩を後ろに張り 背を伸ばした

一歩進むごとに 泥から体を引き抜くみたいだった

一階に着き 箱を壁際に置き 長く息を吐く

胸にぽっかり穴が空いたようで 急に圧力を失った後のめまい 血が散り 足元が痺れ 頭の中はかえって冴えていた

ドアを出た瞬間 ここはもう俺のものではなくなる

あの貼りつく足音も 夜の低音も 突然の笑い声も この建物のどこかで響き続ける

だが俺は もうその容器ではない

寮長が管理室から顔を出し 顎で出口を示した

俺はドアを押した

外の空は曇っていて 洗っても落ちない布のように濁っていた

風が木の葉を一方向に押し 葉裏に沈黙の白が浮かんだ

最後の段差を越え キャリーケースの車輪が地面に落ちた瞬間 頭の中に言葉が閃いた

――俺は引っ越すんじゃない 俺は自分を奴らの台本から抜き取るんだ

俺に演じさせようとした役も 飲み込ませようとした台詞も 埋めさせようとした空白も 全部あそこに置いてきた

振り返ってドアを見た

隙間は黒く 静かで まるで何もなかったようだった

もう立ち止まらなかった

箱を引き 俺の足音が一歩一歩 確かに地面に刻まれていく

それは逃げる音ではなく やり直す音だった



______


何年も経った今でも、俺は時々あの寮の夢を見る

夢の中の灯りはいつも冷たい白で、音は絶えず騒がしい ゲームの爆発音 動画の甲高い笑い声 ビニール袋の擦れる音

ドアを押し開けると カップ麺のスープに黴の匂いが混ざって鼻を突く

目が覚めても 胸は重く 石を押し付けられているように沈んでいる

時が経てば 見過ごせると思っていた

だがあの通報の紙を思い出すたび あの無垢な顔を思い出すたび 怒りは血の中で煮え返る

本当に毎晩スピーカーで音を流していたのは俺じゃない

本当に暑いと文句を言いながら冷房代を一円も出さなかったのは俺じゃない

本当に「貧乏」を口実にしたのは俺じゃない

だが最後に槍玉に挙げられたのは 皮肉にも俺だった

その時初めて心底理解した言葉がある

――哀れな者には必ず憎むべきところがある

貧しいと言いながら 堂々とフィギュアを積み上げ 「死ねと言うのか」と口走る奴

孤独だと嘆きながら 目の前の好意を泥に沈める奴 孤独はただの小道具 同情を脅し取るための武器

「チャンスがない」と繰り返しながら 補助や制度を「面倒だ」と拒み 哀れを装って他人に払わせる奴

家では弱者を演じ 親を縛りつけ 一生尻拭いをさせる奴

外では無辜の顔を見せ 裏で煽り 周囲を同調させ 最後は他人に責任を押し付ける奴

彼らの哀れさは本物だ

だが その憎さもまた本物だ

本当に恐ろしいのは 貧しさでも 孤独でも 無能でもない

それを「武器」に変える術を覚えてしまうことだ

「可哀想」であることを繰り返し 他人の善意を縛り上げ

「可哀想」であることを繰り返し 他人を壁際に追い込む

俺はかつて 彼に言い訳を作った 環境が悪いのかもしれない 家庭が困難なのかもしれない 性格が内向的だからかもしれない

ゴミを片づけながら 心の中で慰めた 「彼はわざとじゃない」

だが結局認めざるを得なかった 彼はわざとだった

哀れを装う方が 本気で努力するよりはるかに楽だから

哀れであることは罪ではない

だが「哀れ」を駒にして生きるようになった時 その人間は徹底的に憎むべき存在になる

残酷な理屈だ だがそれで多くのことが見えるようになった

この世には演じている人間があまりに多い

涙で同情を買う者 失敗で甘やかしを得る者 弱さで資源を引き寄せる者

彼らの物語は悲しいように見える だが悲しみは通貨だ 拒めない助けを引き出すための道具だ

やがて気づく 彼らは単なる「被害者」ではない 同時に「加害者」でもあるのだと

俺があの寮から出て行った日 それは自分を芝居から引き抜いた瞬間だった

その芝居には 一人の人間が 永遠に耐え 永遠に責めを負い 永遠に悪者を演じる役が必要だった

俺はもう演じない

多くのことを今も思い出す 胸はまだ痛む

だが痛みは痛みでいい

少なくとも それは俺が駄目だからではない

哀れと憎さの真実を見抜いたからだ。



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