3話ー呪い①
窓がちょっとだけ開けられた病室。
真っ白なシーツと布団、消毒液の匂いに医療用の魔法具。
ネロは治癒術師団の本部のベッドで、上体を起こしてぼんやり外を眺めていた。
負傷から4日。まともに起き上がれたのは今日が初めてだ。噛み傷はまだ痛むし、傷と呪い由来の悪寒と発熱も引かないが、眠ることさえ許されない痛みや、指先ひとつ動かしたくない怠さがなくなった分、良くなってきたと言える。
つい先程まで、見舞いに来てくれた兄と話をしていた。あれこれと、衝撃的な現状を聞かされたばかりだ。窓の外には、木枯らしの吹く庭園を帰っていく兄の背中が見えている。
起きていてもしんどいばかりなので、ネロはため息をついて布団にもぐった。
もう少しで昼食の時間だから、それに合わせて熱冷ましの薬湯がもらえるはずで、そうすればいくらか楽になるだろう。
我ながら、よく生きていたものだ。
今、ネロの身体には仰々しい緻密な模様がペイントされている。それは左腕の肘から上、噛み傷を覆うように、左胸から背中、脇腹、首元までを覆っている。
負傷したときに構築した呪い封じ魔法を、そのまま魔導式に描き直してペイントしたのだ。
魔導式は最初に込めた魔力を循環させてかけた魔法を繰り返すもので、魔力を補充してやれば術者が管理する必要がない。
呪いが強かったので、ネロの魔力を常時消費する形になったが、生命力の綱引きは自動化され、ネロが眠ろうが失神しようが、即座に死ぬことはなくなった。
ありとあらゆる回復魔法ー失血を補うものや、意識をはっきりさせるものなど、諸々ーをかけられて朦朧としながらペイント用の魔導式を描いた記憶は、今も切れ切れに、ネロの中に残っている。
それからもうひとつ。
救命のためにネロにかけられている魔法がある。
ベッドの下、絨毯の上に広げられた白いシーツに、これまた所狭しと魔導式が書かれている。これはノワールがかけた、呪いを抑え込む魔法だ。
ネロが作った魔導式は、結局力不足だったのだ。
綱引きは呪い側の優勢。ノワールの手助けが無ければ、即座に死ぬことはなくても、じわじわと命を削られていってしまう。
唯一救いなのは、ネロが扱う魔法が光魔法で、少しずつ呪いを浄化していく効果があることか。
面倒なことになった。
というか、
面倒をかけることになった。
ものすごく。
そして恐ろしいことに、ネロがノワールに引っ被せた“面倒”は、これだけじゃ全く終わらなかった。
ネロが治療を受ける間、呪いを抑え込む魔法を使うためにノワールがそばにいたから。
その魔導式の改良や魔力の補充のために、ノワールが毎日ここへ通っているから。
一応、ネロはノワールを庇って怪我をしているから。
婚約、することになりそうなのだ。
ノワールと、ネロが。
そこらの男性より全然戦闘力は高いし、潤沢な魔力のお陰で強化魔法は使い放題だし、細身だけど背は高いし、職場での扱いも魔法士の青年、に近いものだけれど。
ネロは女性である。生物学上、一応。
ネロが女性であるとなると、前述したあれそれが、男同士ならなんの問題もないあれそれが、途端、問題視されてくる。
未婚の男女となると、急に。
この状況で職場の同僚ですで押し通すと、お互いの貴族としての評判が地に落ちかねない。
ネロは今更気にもしないが、ノワールは“次期侯爵様”だ。看過できる話ではない。
さて、そんなところへ。
『婚約の話がそもそもあった、って話にしとけば?そうしたら、僕からも口添えしてあげるよ』
と、お声がかかった。
言ってきたのはこの国の第三王子だった。
外堀を埋められたなんて次元ではない。
仰せのとおりにと平伏するしかなくなったのである。
かの第三王子は、お名前をライオネル殿下という。焦げ茶のくせ毛に、笑うと目の細くなる人で、狐王子、なんて呼ぶ人もいるんだ、とは当の本人の談である。
気さくな雰囲気に反してとんだ食わせ物、というのが実際に会ったところの印象だ。
ノワールが好きなのはウィーネなのになぁ、というのが、ネロの正直な感想だ。
ウィーネとカーニスが相思相愛で、婚約までしているにも関わらず、ウィーネを泣かせたら奪いに行くぞとカーニスを脅すノワールだ。ウィーネ以外の誰かとどうこうなるつもりなんて全く無かったに違いない。
そもそもネロは、ノワールにとってウィーネがどれだけ大切な人か分かっているのに。
おおごとにになった。
本当に、とても、面倒をかけることになった。
再びため息をついたネロのもとに、そのライオネル殿下から面会の要望が来ているという報せが届いたのは、そのすぐ後のことだった。