2話ー②
日没を待って作戦は開始された。
ノワールが索敵の魔法を展開し、討伐隊は街道を逸れて森へ入った。魔物の活動時間である夜、人間や魔法の気配が魔物の縄張りに入れば、相手の方から襲いかかってくるはずだ。
縄張りが街道の近辺なのは被害報告から明らかになっている。街道近くに住み着かれて、街道を通行する人に被害が出たので討伐に来たとも言う。
落ち葉を踏みつつ捜索を始めて約30分。
警報が起動し、独特のビィンという音が辺りに響いた。
「来るぞー!」
騎士隊の誰かが叫ぶ。
ずしんずしんと巨大な者が地面を歩く音。
ばりばりと木がなぎ倒される。
森を破壊して、巨大なドラゴンが討伐隊の前へ立ちはだかった。なるほど、あれはかなり鱗の硬い種類だったはず。大きさから言ってよほど歳を重ねた個体だろう。
標的を定めてネロは詠唱を開始した。
幸い、ドラゴンが木を倒したおかげで見通しは良い。
前に出た騎士たちが隊列を組み、ドラゴンを囲んで挑発する。注意を引いて行動を制限し、攻撃を避けて耐久する構えだ。
騎士隊に阻まれたドラゴンが歩みを緩めたところへ、ネロの詠唱が完成した。大きな光の十字がドラゴンを拘束する。
初撃を食らって負傷者が出る前に間に合ったらしい。光の十字はドラゴンの背中を貫いて地面へ突き刺さっている。
「下がれ。」
ノワールの合図、騎士隊が後退する。
入れ替わるように魔物に対峙したノワールの手が空へ掲げられた。
ひとり前線へ出たノワールの背中を見ながら、ネロはもう一つ詠唱を開始する。
詠唱に応じて、ノワールとドラゴン以外の討伐隊を、ほのかに輝きを放つ壁が包みこむ。
ノワールの魔力の抑制が解除された。
掲げられた手の中へ集っていく圧倒的な力。凝縮される、真っ黒な闇。
ドラゴンが怯えたように身を捩る。
ノワールは手元へ集った冥い影を、ドラゴンの心臓目掛けて放った。大きな槍のような闇の魔法が剣を通さない硬い鱗を難なく貫く。
結界の中で、討伐隊が息を呑む。魔法の余波と魔力の残滓を通さない結界の内側から見える景色だけでわかる、圧倒的な威力。
ドラゴンの体が痙攣するように震えた。
突き刺さった闇の魔法が、インクがはたりと垂れるように形を変える。ドラゴンの皮膚を伝い、硬い鱗をばらばらと剥がしながら地に落ちて、溶けるように消えていく。
ドラゴンにほとんど動きがないのを確認して、ネロは拘束を解除した。がむしゃらに暴れる様子もないので、体勢が崩れていたほうが、追撃するのに都合がいい。
闇の魔法が溶けたのを見届けて、討伐隊を囲っていた結界も解除する。
「ッ行くぞ!」
足を止めていた騎士たちが頽れたドラゴンへ向かっていく。
あれだけ鱗を剥いでおけば、あとは彼らがなんとかしてくれる。もっともあの様子では、ノワールの一撃で即死かもしれないが。
騎士たちに前線を譲ったノワールが振り返る。
声を掛けようと彼を見て、ネロはその背後の夜空が蠢いたのを見た。
何かいる。ノワールの向こう。倒されたドラゴンより少し左の空。飛んでいる。上空だ。討伐隊の視線を集めているのは地に伏せたドラゴンで、空を見ている者なんかいない。
夜の黒を切り抜いたような何かが飛来する。
翼がついている。コウモリのような羽、夜闇に溶けた赤黒い体。
ノワールの警報の魔法は、まだ解かれていない。
でも警報は鳴らない。
なぜ?
早い。
あっという間に近付いてくる。
狙いは、
ノワールだ。
走った。
間に合わないと思って、体に強化魔法をかけた。
みるみる近づく赤黒い影の全容が、やっとネロの目に映る。
ワイバーン。
2mくらいか。
大きくはない。
近い。
拘束魔法の詠唱。
間に合わない。
ノワールの右腕を掴んで、
魔法で強化された腕力に任せて手前へ引いた。
入れ替わるように、ネロの背中がワイバーンの眼前に差し出されて、
左肩に衝撃。
遅れて強い痛みが。
詠唱が完成する。
ワイバーンはネロの肩へ噛み付いたまま、光の十字に貫かれて動きを止める。
背中を、胸を、熱いものが滴り落ちていく。
殺さなければ。
殺されるまえに。
肩を、噛み砕かれる前に。
行き届かない思考のまま、ネロは次の魔法を詠唱する。
「ネロ」
呆然としたノワールの呟き。
ネロはノワールを突き飛ばした。
詠唱が完成する。
拘束の魔法諸共巻き込んだ破壊の魔法。
光の十字が砕け散る。
破砕音。
大量のガラスが砕け散るような、魔法の破壊される音。
破砕を受けたワイバーンが、光の十字の欠片とともに、ネロの後方へ吹き飛んだ。
血だらけの肩を押さえながら、それでもなんとか膝をつくことは免れて、ネロは吹き飛ばしたワイバーンを顧みた。
ワイバーンは破砕の魔法によって裂傷をいくつも負い、地面で藻掻いている。倒すことはできなかったが、あれはもう飛べないだろう。
とどめを刺さなければ。
上がった息を整えつつ、改めて肩の痛みを実感する。牙の刺さった痕ひとつひとつから盛大に出血してひどく痛むが、多分骨まではやられていない。
視界の端で、ドラゴンの近くにいた騎士たちが恐怖に怯えた様子でこちらを見ているのに気づく。
ネロが使った破砕の魔法の余波だ。しまった。後ろの彼らに配慮する余裕がなかった。
でも大丈夫。
ネロの直ぐ側には、ネロよりよほど強い魔法使いがいる。
「ごめん…ちょっと、下がる。」
声をかけると、ノワールは死にかけのワイバーンをしっかり見据えて頷いた。
「そうしろ。後方へ退いて応急処置をして待機。」
「了解。」
ネロは転移の魔法を行使した。
ドラゴンとワイバーンから距離を取り、警報の魔法の範囲を外れない、ほんの短い距離だ。負傷した身で歩くより、ずっと効率がいい。
前線から離れた場所で、木の幹に寄りかかって座り込む。止血をしておかないと。それさえやっておけば、あとは治癒術士が何とかしてくれるはずだ。ネロは治癒魔法の系統はそれほど得意ではないが、仕方ない。
血の巡りを少しだけ抑制して、体組織の回復を促す魔法を…
ネロの身体に異変が起きたのはその時だった。
肩の傷が急に、酷く痛んで、
体の熱が、傷からごっそり引き抜かれた。
寒い
痛い
息が上がる
痛い
出血が増えた?
そうじゃない
魔力が、吸い出されてる
寒い
傷から何かが身体を侵食してくる
痺れにも似た嫌な気配
なんだこれ
なんだこれ
なんだこれ
毒か?
魔力を吸い出す毒なんてない
痛い
寒い
まるで、
命を喰らわれているような
魔法だ
これは
呪いだ
息が苦しい
死にたくない
食われたくない
震える唇が詠唱を紡ぐ。これ以上命を喰らわせないように、呪いを封じ込めようとする。
今まさに奪われようとしている魔力で、完成した詠唱。行使された魔法は、まるで綱引きのようだった。
痛いし寒いし、多分止血も不十分だ。
でも気を失うわけにはいかない。
術者と魔法が切り離せないから、その道具がないから、ネロが気を失えば、そのまま命の綱引きに負ける。死ぬしかない。
治癒術士が来るまで。せめて、誰か来るまで。
ノワール
ノワールは、大丈夫だろうか。
同じ呪いを、受けていないだろうか。
騎士隊の援護がない中で、傷を負っていないだろうか。
警報をすり抜けたワイバーン。
同じものがまだ他に居たら?
考えることは散り散りになって、でも何か考えていないと気を失いそうだった。
やがて、焦点の合わなくなった視界に、誰かの足が見えた。
意識を保っているのは、もう限界で。
なんか、もうだめかも。
力を振り絞って視線を上げる。
ネロのよく知った、黒い髪の。
夜の色の瞳が見えた。
「の、わーる」
ああ、君が無事でよかった。
ほっと、安心して息をついて、
ネロは気を失った。