9話ー②
声の震えで呼吸の仕方がおかしいのがわかって、慌てて後ろを振り向いた。
溢れ出した魔力を結界で閉じ込めて、声を掛ける。
「おい。」
返答はない。ただ苦しげな呼吸音が聞こえるだけ。
一瞬だけ魔法の気配がして、しかしそれはすぐに無くなる。魔法を解いたのか?柱を回り込んで顔の見える方へ移動する間に制御を失った魔力もゆっくり収束して、抑制がかけ直された。
「お前、」
「ごめん。」
どうした、と問う前に、ネロの声がそれを遮った。
「ありがとう。もう、平気。」
「いや、何がだ。平気って…」
「大丈夫。なんでも、ない。」
抑揚のない声は妙に頑なだ。顔は伏せられたまま、表情は見えない。明らかに大丈夫じゃないだろう。拒絶されているのは分かるけれど、こんな状態で放っておけるはずもない。
張りっぱなしだった結界を解除して、問い詰めようとしたとき、第三者の声がした。
「あ、いた?ノワール?」
「?フレア?何だ?」
やって来たのはカーニスだ。
「あれ?ネロもいるのか?どうしたんだ?…じゃなかった。ライオネル殿下がお前らのこと探してたみたいだったから…」
わざわざこんなところまで探しに来たらしい。
ノワールが何か言う前に、ネロが声を上げた。
「行ってきなよ。」
「いや、でも…」
ネロが立ち上がる。視線は合わない。でも、横顔はちょっと顔色が悪いだけで、いつも通りに見えた。
「ボクがちょっと人酔いしちゃって、ノワールは心配してくれただけ。」
ネロが数歩後ずさる。
声はもう震えていない。
「え、大丈夫なのか?」
カーニスが聞く。
「うん。…今日は疲れてるし、帰らせてもらおうかと思うけど、大した事ないよ。平気。」
苦笑したその表情も、それほど違和感はない。だからカーニスも、納得して頷く。
「そっか。」
いや、違う。
立ち上がったネロは右手で左腕を掴んでいた。
右手の指先は、ひどく力が入って真っ白になっている。
「平気じゃないだろ、お前。」
確信を持って指摘すれば、ネロがやっとノワールを見た。灰黒の目はゆらゆらと揺れていて、少し虚ろだ。
「なんでもない、大丈夫…」
言い聞かせるように呟いて、ネロはさらに後ろに下がろうとした。その足元がガゼボの装飾に引っかかって、ふらつく。
「危ない!」
カーニスが一歩踏み出した。
途端、ネロは怯えるように呼吸を乱してもっと後ずさる。
何が起きているのかを察して、ノワールは側へ寄ろうとするカーニスを止めた。
ネロはカーニスとノワールから離れるように、ふらふら下がって、力が抜けたようにその場に座り込んだ。肩が忙しなく上下する。ほらやっぱり、ちゃんと息が出来てない。
カーニスが近づこうとした瞬間、ネロは明らかに怯えた。さっき魔力の抑制が上手くいっていないのも見ている。つまり、自分の魔力でカーニスに怪我をさせるが怖いのだ。
我を忘れるほどでは無いようだが、錯乱状態にあると言って良かった。これはもう、ひとりにしておける状況ではない。
今のネロに何を言っても仕方ないだろう。ノワールはカーニスに向かって口を開く。
「ひとりで帰れるとは思えない。俺が送っていく。」
「えっ、あー…そうだな?いや、それより誰か呼んできた方が…」
考える素振りのカーニスを遮るように、ネロが叫んだ。
「放っといて!」
強情さに呆れて、ノワールはため息を吐く。
「無茶を言うな。」
これをひとりにしてなにかが改善するとは思えなかった。
錯乱が酷くなって意識を無くすまで待てと言うのか。
ネロ本人に帰るつもりがあるなら、ノワールが送っていくのが無難かと思ったが、ここまで取り乱すなら、カーニスが言うように治癒術士を呼んだ方がいいかもしれない。
「ほっといて…来ないで…戻って…」
俯いたネロの声はどんどん小さくなって、ついにまた震えた。そのか細い声が、お前は今判断力を失ってるんだから、大人しく俺の言う事を聞け、と言いかけたノワールを止めた。
そうやって強い言葉を使っても平気だと思えない脆さがあった。
「もうこれ以上、君の荷物になるのも、面倒になるのも、ごめんだ。」
小さな声が言った。
泣きそうに震えていた。
消えてしまいそうだった。
ぞっとした。
なんて、見当違いなことを言うのか。
そんな理由で、気を失って倒れるまで、お前は俺の手を拒むつもりなのか。
荷物?面倒?
そんなことよりお前に置いていかれる方が、俺はずっと怖いのに。
触れたいと思った。
あの降るような星空の下で、失うのが怖くてその手を掴んだときと同じように。
一歩踏み出す。
「来ないで。」
か細い拒絶。
「逃げるな。俺は平気だろ。」
お前が魔力を暴走させたって、怪我なんかしないんだから。
手を伸ばしかけて、一瞬、躊躇った。
触れたいと思った、でもそれは。
どうしたんだよって、落ち着けって、手を取って引き寄せて抱きしめて。
そうしたかった。
でもいいのか?
ノワールがそうであるのと同じように、ネロだってノワールが触れても怪我はしない。怯えることもない。そうじゃなくて。
ここで手を伸ばせばもう、友達だなんて言い訳は通用しない。
一瞬、ウィーネの姿が頭を過って。
“好きな人”
その言葉で思い出すのは。
ウィーネに対して想うのとは、やっぱりちょっと違うけど。
でもこれは、こいつは、特別だから。
ノワールは肩越しに、カーニスを振り返った。
「うちの馬車、エントランスへ付けるように伝えてくれ。」
「お、おう?」
困惑気味のカーニスの返答を背中で聞いた。
もう振り向くことはしなかった。
手を伸ばす。
ネロの前に膝をついて、うずくまった体を抱きしめる。
ノワールよりずっと華奢な体の震えが伝わってくる。
カーニスが慌てて立ち去る気配がした。
「落ち着け。」
苦しそうな背中をそっとさする。
「荷物とか、面倒とか、そんなの気にしなくていいから、…俺から、逃げていこうとするな。」
失うのを本気で恐れた温もりを両腕の中に囲い込んで、場違いにもほっとした。
もっと前から、こうしておけば良かったと思った。
抱きしめた体は少し熱い。
熱がある?
真っ先に思い浮かぶのは呪いの活性化だ。
魔導式が出来上がるまで、高熱にうかされていたのを覚えている。
腕輪を見る。魔力は…まだ足りてる。
一応注ぎ足しながら、魔導式の効力を確認する要領で呪いを見れば、少し活性化している気配はあった。でも、発熱の原因と思われるほどでは無い。
「お前、熱あるぞ。どっか具合悪いか?」
そっと問いかけると、小さな声で返答があった。
「あたまいたい。」
ああ、なるほど。
じゃあそっちが原因だ。本人が体調を崩しているから、呪いも少し活性化しているだけ。
腕の中で、ネロが体の力を抜いた。
ぐったりと寄りかかってくる重みを受け止める。
浅く苦しそうだった呼吸は徐々に落ち着いて、いつの間にか嗚咽を堪える声に変わった。
ほっとして泣き出してしまう子供みたいだ。
苦笑する。
「…泣くなよ。」
「な、いたら」
途切れとぎれにしゃくりあげる。
「なんだよ。」
「きらい、に、なる?」
今さら?そんなことで?
「ばか。なるわけないだろ。」
柔らかいクリーム色の髪を撫でれば、いよいよ押し殺した泣き声に変わった。
急に泣かれて、でもどうして泣いているのか分かる気がした。
怪我をして、呪われて、死にかけて、当たり前に出来ていたことが出来なくなって、近いところに居たノワールとの関係値も外野に勝手に書き換えられて。
ほんのすこし巻き込まれただけのノワールでさえ、かなり戸惑ったのに。
今日までまるで何事でもないみたいに、いつも通りに振る舞ってみせるから、うっかり失念していたけれど。
ネロ自身が、不安でなかったはずが無いのだ。
預けられた体温が心地よかった。こうして腕の中へ囲ってしまえば、うっかり失うことはない。こうやって閉じ込めてしまえば、ネロはノワールを置いてはいかれない。
こんなに根を詰めるまで泣くことすら出来なかったらしいのを痛々しく思う反面、泣かせてやれたのが自分だというのが少しだけ嬉しい。
どれくらいそうしていただろうか。
泣き声が、やっと止まった。
「落ち着いたか。」
「ぅん。…ごめん。」
「いいよ。」
そっと体を離すと、ネロが目を擦った。
灰黒の目は熱のせいかぼんやりとしていて、熱がある割に顔色が白い。
「送らせてくれるか?」
彼女はノワールの服の裾を握ったまま、小さく頷いた。
「エントランスに行くから、一度会場に…」
ひゅっと呼吸が乱れて、表情に怯えがはしる。
もう一度抱き寄せて、頭を撫でた。
「いい。怖いなら外を回ろう。」
錯乱は完全に落ち着いたわけではなさそうだ。
外を回ると少し遠回りになるが、仕方ない。体調が悪いのを歩かせたくはないが、この様子では中へ戻るよりマシだ。
「歩けるか?」
「…うん。」
立ち上がりながら手を出すと、白い手が掴んでいた服を離しておずおずとそこへ乗る。
相変わらず細い指。握ってくる力は弱い。
ふらつくネロの肩を抱いて、城の周りの庭園の中ををゆっくり歩いた。木々の葉の上に薄っすらと雪がかかって、月光を受けて白く光る。遠征先ほどではないが、冬の夜は寒かったので、あの時と反対に、今度はノワールが風除けの魔法を使った。
もう少し歩けるか、とか、寒くないか、とか気遣って声をかけたけれど、頷くか首を振るかで声は聞けなかった。
ぼんやりしているというか、そんな気力がないというか。参っているのが良くわかった。
エントランスへ入る前に、ローブのフードを被らせる。盛装用のローブはフードを被るようには出来ていないから、かなり大きくて顔が見えなくなったけれど、泣き顔を隠すには丁度良かった。
エントランスへ行くと、カーニスが居た。
「あ、そっちから来たのか。」
馬車はもう用意されていて、いつでも出せるようだったが、流石に一言もなく勝手に帰るのは良くない。
ノワールは壁際に造り付けられた簡素な長椅子にネロを座らせた。
「挨拶だけしてくるから、ここで待ってろ。」
目線を合わせてそう言うと、ネロが数度瞬きをする。
「ボク、も…」
「いいよ。具合も悪いし、俺が代わりに言っておくから。…中、入るの辛いだろう。」
視線で賑やかな宴席の方を示せば、その目が怯えて揺れて伏せられた。
「ごめん。」
「ひとりで待ってられるか?」
問いかけると、ネロは少しだけ笑った。
「…うん。」
膝の上で、自分のローブをくしゃくしゃに握った細い指。強がりかな、と思った。心配だが挨拶は行ってこないとまずい。
「…魔力遮断の結界張ってく。すぐ戻る。」
「うん。…まってる。」
クリーム色の頭をぽんぽんと撫でて結界を張り、ノワールは立ち上がってカーニスを振り向いた。
「挨拶してくる。少し見ててくれ。」
「えっ?あ、…あぁ。」
視線を逸らしてくれていたらしいカーニスが気まずそうに言う。ノワールとネロの距離感に戸惑っているんだろうが、こいつに気を使ってやる必要をノワールは感じていなかった。カーニスとウィーネが揃っていれば、当てられているのはこちらの方だ。
「様子をみるというより、お前も含めて誰も近づかないように見ていてくれれば良い。」
「え、なんで。」
「怪我はしたくないだろう。…ネロも望まない。」
「あ、あぁ。」
ノワールは身を翻して、宴の会場へ向かった。




