9月25日③
目的地についた頃には、ほとんど日が暮れていた。この日最後の薄明かりの中、遠くの家々は黒く浮かび上がり、駅前のひなびたロータリーは一層寂しく色を失いつつ見えた。
私は駅前のコンビニでペットボトルのレモンティーを買って、それをちびちびやりながらロータリーの隅にあるベンチに腰掛けた。スマホで時間を見ると、ちょうど17時だった。LINEでお母さんに少し遅くなると告げ、スマホを鞄にしまって周囲を見渡してみる。学生や主婦、腰の曲がったおばあちゃんに、灰色の背広を着た男性――あちらこちらに人が往来する様子が見えた。
あのインタビューが撮られたであろう場所はここから見える、およそ10m先にあるバス停の一画だった。画角としては、丁度私が座っている方向から、道路側に向かってカメラを回していたはずだった。私はその一点をじっと見つめながら、時々ふと我に返って自分の行いに呆れながらも、またすぐバス停へと視線を移してしまう……という流れを10回くらい繰り返していた。
その間にバスが4本停車した。その度に、もしかして、という淡い期待を抱きながら――同時に、頭の中でそれを否定しながら――降車する人たちを一人ひとり入念に観察した。学生や主婦、腰の曲がったおばあちゃんに、灰色の背広を着た男性――どの人物も“彼女”とは似ても似つかない。最後の降車客がロータリーの地面に足をつけ、やがてバスのドアが締まり、“おっくう”そうなエンジン音で街路に戻っていくバスの後ろ姿を見る度、どういう訳か安堵にも似た小さなため息が私から聞こえてきた。
時折ふと、今のこの状況全てが何か大きな力でセッティングされたものであって、私はその中の舞台装置のひとつに過ぎないのではないか、という気分にさせられた――気の利いた演出に一役買う無害なエキストラ、あるいは観衆をあっと驚かす仕掛けを動かす為に作られた、作り手のしたり顔が浮かぶスイッチ。私はきっとただのきっかけであって、本筋ではないのだろう。そんな気分だ。
――教室の風景、駅前を歩く人たち、バスの後ろ姿。
――繰り返し、繰り返し、繰り返し。
私は誕生日に買ってもらったAirPodsを耳に付けた。スマホを見ると、もう19時だった。気がつけば辺りは駅前と、それから申し訳程度に点々と存在する街灯に照らされている箇所以外、ほとんど暗闇だった。私はランダム再生を選択して音楽を流し、しばらく目の前の無機質な街灯の灯りに照らされた地面をしばらく見続け、また視線をバス停へと移した。それから、にじみ出るような弱い明かりで浮かび上がるバスの時刻表を、私はずっと眺めていた――空になったペットボトルを指先でとつとつと小さく鳴らしながら。
既に存在しないはずのものを、人は果たしてどれくらい長く探し続けられるのだろうか。
答え――4時間以下。
なぜなら、私は少なくとも21時まではこんな調子でずっと座っていたから。
耳元から18曲目の音楽である、パット・メセニーの『オーヴァー・オン・4th・ストリート』が流れ出した所で立ち上がり、駅の改札へと向かい、家路についた――降車駅でチャージ額が足りなくて、自動改札に警告を受けてしまいながら。
家に帰ると、母と父に質問攻め(というより詰問攻め)にあった。5W1H--いつ、どこで、誰が(誰と)、何を、なぜ、どのように――その全てを嘘で返した事で、すこぶる気分が悪くなりながらも、気が付いた時にはもう自分のベッドで横になっていた。
いつ消したかも分からない明かり、いつ入ったかも覚えていないお風呂――髪が微かに湿っていた。いつ掛けたかも分からない毛布。
寝る前にもう一度あのニュース動画を再生してみた。何回目か分からなくなった3分30秒間が再び始まった。
「怖いですねぇ」……女性。
「退社する時に風で会社のガラスが割れちゃって、危ないところでしたよぉ」……恰幅のいい男性。
「修理にどのくらいかかるか不安です」……夫婦。
「明日以降も充分に気をつけて外出ください。それでは、また」
最後にしゃれこうべがこう結んで動画は再生を終えた。もう一度頭から再生する。夫婦が不安がり、その後すぐにしゃれこうべが終わりを告げた。3度再生したが、全く同じだった。
結局彼女のインタビューシーンは、一度も流れなかった。
私はスマホのアラームをセットして、目を閉じた。
――教室の風景、駅前を歩く人たち、バスの後ろ姿、台風の被害に遭う人々。
――繰り返し、繰り返し、繰り返し。