9月29日②
この映画は、制作が決定した時から楽しみに待っていた。いわゆる実写化映画という物で、元々は“青梅 小木”という小説家を原作として、漫画家の“石山 清是”が作画を担当した漫画だった。連載開始は8年以上前。形態は月間連載で、いつかの“このマンガがすごい! ”でも8位に入っていた事もある。
――そう。ご多分に漏れず、私は当初“実写化かぁ”と身構えていた。原作の単行本は現在8巻まで出ていて、未完結だった。未完の、しかも8巻も出ている漫画を2時間に収める--その上、結末は原作者が関与しているとはいえ映画オリジナル……黄色信号である。
ただ、そういった猜疑心は早々に氷解する事となった。理由はひどく単純なものだった。制作決定後に公開されたPVが原作の雰囲気を見事に描き出していた事や、メガホンを握る監督が、私が子供の頃に大好きだった映画の監督だったという事を知った私は、早速楽しみで仕方なくなってしまったのだ。
タイトルは『色の無い虹』。映画化するにあたって細部は変更になっているが、あらすじは概ねこうだ。
主人公は、殺人事件の冤罪で25年もの歳月を刑務所で過ごした元囚人。彼の出所から物語が始まる。満期釈放を迎えた彼は支援団体にお世話になりながら、自然豊かな北海道のニセコ町に移り住む。それから3ヶ月が経ち、個人契約の郵便配達員をしながら生活する彼は偶然、児童養護施設から脱走してきた男の子と出会う。で、色々あって一緒に住むことになった彼らと、地元住人との交流を描くハートフルストーリー。
以上の大筋とは別に男の子の出奔の真相、主人公の冤罪と真犯人の思惑といった、ちょっとしたクライム・サスペンス要素も織り交ぜつつ、牧歌的な街のエピソードとの“静と動”を見事に描いた多層的な味わいのある物語だ。無論、映画ではいくつかの要素は尺の都合上カットされている。
サキちゃんもケイも、既に私の手によって“布教済み”の身だ。ケイは私以上に、実写映画化に際して警戒していた。上映開始から30分、今の所、間違いは無さそうだった。台詞回しやカットは、原作の雰囲気を損なわない程度のアレンジがされている。カメラワークも、“ありがちな”演者にピントを合わせすぎたショットを多用せず、登場人物が広大な北海道の自然や町並みと上手く調和するよう、充分な配慮がされている。映像として描き出されている雰囲気そのものが、確固たる解釈の元に演出されていて、カットのひとつひとつが違和感なく、丁寧に繋ぎ合わされていた。俳優も良好。自分がちゃんと役の中に没入し、脚本とキャラクター性を第一にしたその演技には、感嘆さえ覚えた。
おかげで、安心して話に集中することが出来た。どうしても原作がある映画を見ると、警戒や、ある種の茶化しの目線無しに鑑賞するのが難しくなる。ファンならなおさら。
私は起承転結の“転”にあたる、男の子がどうして施設から脱走を図ったのか、その理由が判明して主人公と喧嘩別れするシーンまで夢中になって見ていた。いよいよ大詰め。ここまで映画内に散りばめてきた何気ない伏線や謎がひとつずつむくりと起き上がり、やがてそれらが観客を驚かすべく、次々に正体を明かしていく。この部分は映画オリジナルの設定が多く、原作信者の私もしてやられた、という展開が繰り広げられていた。何なら原作ファンに仕掛けられたミスリードさえいくつかあった。次は何が起こるんだろう? 私は目の前で展開するお話に目を奪われ、虜になっていった。
――確かに、そこまでは覚えている。映画のラスト30分前、男の子が家出し、途方に暮れた主人公が、上の空になりながら郵便配達の仕事をこなす静かなシーン。最後の盛り上がりを強く印象づけるために挿入された、淡白な日常の一幕。一軒家に荷物を配達する主人公。インターホンを押して、それを取りに来る家主の娘。彼女は判子を押して一言「ありがとうございます。お疲れ様です」と主人公に笑いかけた。私はその女の子の姿に釘付けになった。すぐにヒロインの女性が背後から走ってきて、男の子の所在が分かったと主人公に告げ、二人して車に乗り込んでその場を離れてしまったので、その娘は5秒ほどしかフレームインしなかった。
“無害なエキストラ”。茜色のカーディガンを羽織ったその女の子は、ナナミだった。あのインタビュー映像と同じく、確信を持って言えた――何せ12年以上、ほとんど毎日見続けていた顔なのだから。
そのシーンから先は、記憶に残らなかった。
映画を見終えた私は、起き抜けの呆けたような顔つきで、映画館前に立っていた。背後でケイとサキちゃんが、楽しそうに何かしゃべっている。
目の前の往来では、たくさんの人が歩いている様子が見える。雑踏の音が私の神経を逆なでした。
対面にあるパチンコ屋の自動ドアが開いた。けたたましい音が店外へ漏れ出す。
右手にある交差点の信号が青に変わった。鳥の鳴き声を模した効果音と共に、歩行者が一斉に動き出した。
私の近くで路上駐車してあった原付きに、中華料理の“岡持ち”を持った青白い男が跨る。微かにオイスター・ソースの匂いがした。彼がエンジンを吹かすと、焦げ臭い匂いに変わった。
私は冷や汗をかいていた。
街路樹の根本からハトが1羽飛び出して、私の頭上を掠めていった。
心臓の脈動が少しずつ早くなっていく。しっかりしなさい、と私は言い聞かせた。
目の前の往来では、たくさんの人が歩いている様子が見える。背後からサキちゃんが私の肩に手を乗せて何かしゃべっている。耳鳴りがして良く聞こえなかった。仕方ないので、振り返ってとりあえず笑顔で頷くことにした。
何か硬いものが折れる、乾いた音が小さく聞こえた。自分の左手を見ると、シャープペンシルを握っていた。何故握っているのか分からなかった。音の発信源はこれだった。シャーペンの芯が折れる音。
また目の前の往来に視線を戻した。たくさんの人が立ち止まって、私をじっと見つめていた。無音だった。パチン、と芯の折れる音がした。すぐに皆、また歩き出した。
膝ががくんと悲鳴をあげて崩れ落ちそうになった。ケイとサキちゃんが支えてくれた。ケイが何か喋っている。
パチンコ屋の自動ドアがまた開いた。けたたましい音は扉が閉まった後も続いた。
目の前の往来では、たくさんの人が歩いている様子が見える。
目の前の往来には、ただの一人も歩いてなかった。
パチン--私は心を決めた。冷や汗は止まっていた。
「ほんっとにごめん! ちょっと緊急の用事、思い出しちゃった! すぐに帰らないと!」
私は大げさに手を合わせてお辞儀した。それから急いでその場を離れて、電車に乗った。別れ際、すれ違いざまにケイが小さく何か言ったが、聞き取れなかった。




