文化祭の映像を鑑賞する理由
僕たちは講堂で、学校の第1回文化祭から第5回文化祭の録画されている映像を鑑賞していた。
正確に言うと、色々な出し物が置かれたり演じられたりしている各教室の窓から見える空を見ている。
第1回と4回5回の青空、第2回の土砂降りの雨、第3回の曇り空、第4回文化祭の青空には文化祭と近くの空港の開港記念日が重なり、旅客機や軽飛行機が飛行機雲を靡かせて飛んでいるのも映っていた。
第5回の文化祭の映像には学校の屋上に置かれていた天文部のブレハブの部室の窓から撮られた、満天の星空も映っている。
僕たちはそれを食い入るように見つめていた。
もう数十回以上繰り返し鑑賞しているのにだ。
僕たちは本物の青空も雲も雨も星も見た事が無い。
だって僕たちがいる講堂は核シェルターの中にあるのだから。
首都圏に新設された中高一貫のマンモス校、中学1年から高校3年のクラス全部が初めて揃った第6回文化祭の前夜、最後の準備の為に遅くまで学校に残っていた生徒や教職員約300人の耳にJアラートの警報音が響く。
何時もの警報だと思ったが念の為と残っていた教頭先生の指示で、残っていた生徒と教職員全員が学校の地下に造られていた核シェルター避難する。
全員が核シェルターに避難した直後、核ミサイルが首都やその周辺のアメリカ軍や自衛隊の基地や駐屯地に着弾。
それから避難した生徒や教職員は救援隊が来るのを待ち続ける。
でも救援隊は来なかった。
だから避難した生徒や教職員は、地下水脈を利用して発電された電気を使って米や野菜を栽培するなどして自給自足の生活を行う。
それが約100年前の事、今では最初に避難した生徒や教職員は1人も残って無い。
崩れかかった学校だった建物やその周辺に設置されていた、何とか稼働している監視カメラや観測装置から送られて来る映像や観測データを見ると、未だに地上は高放射能が滞留し空は真っ黒な雲で覆われている。
そういう訳で僕たちは地上に出る事は出来ない。
その代わりとして文化祭の映像を繰り返し繰り返し、何度も何度も鑑賞している。
僕たち核シェルターの中で暮らす者たちは皆、何時か、何時の日か、地上に出て、青空や白い雲や満天の星空を自身の目で眺められる事を夢見ているんだ。