なんか言ってよ
「まぁ、今日は午後から雨が降るのねぇ」
朝のニュース番組を観ながら妻が言う。
「あなた、傘忘れないでね」
「わかっ」
「持って帰るのも忘れないでね。あなた帰り晴れてるといっつも忘れるんだから」
「う、うん⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「わぁ、これ美味しそう! 今日の夕飯はこれにしようかな」
コーナーが変わり、旬の食材を使った一品料理が紹介されている。
僕の返事など必要ない妻は、帰りに卵買わなくちゃ、とスマホにメモしている。
僕はもそもそとトーストを齧って、コーヒーで流し込んだ。あんまりのんびりしていると、電車に乗り遅れてしまう。
「あっ、占い! あ、えー、うお座十一位!」
妻の星座の運勢が悪かったらしい。
僕が食器を台所へ下げ、ジャケットを羽織りながら見やると、彼女は食卓に鏡を置いて、出勤前の化粧をしながらテレビに文句を言っている。
「思わぬところで転んじゃうかもー、って、転ぶときは大抵、思わぬところで転ぶもんよね」
同意を求めていそうな言い方だが、完全な独り言だ。
「少しは黙ったら」
「えー、黙ってるのは好きじゃないのよ」
肩越しに振り向いた妻は、化粧の完成度半分といったところで、妙に肌だけが白くて不気味だった。
「あっ、アイライン失敗した」
「喋りながらやるからじゃない?」
僕の知る限り、二、三日に一度、なにかしら失敗している。
お喋りで陽気な妻。
ちょっとおちゃめなところも可愛いが、落ち着いてほしいものだなぁ、と今朝も思いながら家を出た。
僕のスマホに警察から連絡が来たのは、職場に着いてすぐのことだった。
奥様が――――から始まった報せに、僕は半狂乱となって職場を飛び出した。仕事なんて知るか、それどころではない。
タクシーを拾って飛ばしてもらい、着いたのは病院。
受付で、妻が、妻は、と繰り返し、通された先で、妻は眠っていた。
霊安室で、眠っていた。
警察官らしい人物となにか会話をしたが、まるで覚えていない。
ただひとつ覚えているのは、妻は事故死だということ。歩道橋からの転落で、後頭部を強く打ち、即死だったらしい。
「⋯⋯アイライン、上手く引けたんだね」
死に顔は綺麗だった。
僕が褒めると、妻はいつも照れ笑いする。
なのに、なにも返事はない。
「あ、傘置いてきちゃった」
文句のひとつも返ってこない。
「静かすぎるよ」
自分の呼吸すらはっきり聞こえる。
「黙ってるのは好きじゃないんだろ」
これは独り言じゃないのに。
「なんか言ってよ⋯⋯」
物言わぬ妻の顔を見つめ僕は、うるさいくらいに声を上げて泣いた。
2020/09/30
お出かけの際は、お気を付けて。