02
学校に着くと自分がおかしいということにすぐ気づいた。
話しかけてくる人が沢山いてくれたが、その誰もが長崎君と同じような反応を見せてきたからだ。
おかげでもやもや状態のまま1日を過ごすことになってしまい、気持ち悪さだけがそこに残る。
「さつ……綾野さん、一緒に帰らない?」
「一人で帰れますから」
短い時間でも分かった、この長崎君の笑みが嫌いだということを。
純粋に笑えてない、他人に合わせて笑うなんてどうかしているだろう。
「皐月、記憶が失くなったって本当?」
いきなり来たと思ったら変な質問、誰かは分からないものの違いますと答えておいた。
「ちょっと祐、どういうことよこれっ」
「ど、どういうことって言われても……俺もよく分からないんだよ」
「よくないけどまあいいわ……私は鷲谷朝日よ、よろしくね皐月」
「はあ……あの帰ってもいいですか?」
学校にいても気持ち悪いだけだしさっさと帰りたいと思っていた。
しかし、腕を掴まれて進むことが叶わなくなってしまう。
「い、虐めですか? 何か不満に感じたのなら……謝りますけど……」
「……これが皐月なの? 実は誰かが皐月を演じているとかではないのよね?」
「うん、紛れもなく綾野皐月だよこの子は。朔さんのこともきちんと分かっていたから」
「皐月のお母さんよね。うーん……でも気持ち悪いわこんなの」
気持ち悪いのは今の僕の方だ、いきなり腕を掴まれてこんなことを言われたら誰だって帰りたくもなる。
……僕が長崎君に嫌いって言った時もこういう気持ち――いや、そもそもそんな記憶はないし考えても無駄だろう。
「おい綾野!」
「ひぅ……」
「は……は? そ、そんなに怖かったか?」
「……す、すみません……慣れない人に大きな声を出されると怖いんです……」
またよく分からない男の子……横にいる女の子より怖くて体が震える。
「慣れない人って……一応1年と半年は一緒にいるんだが……」
「あれ? あー渉に連絡するの忘れてたごめん! それでさ、綾野さんの記憶が失くなっちゃったみたいでさ、俺らも今困っているんだよ」
「記憶喪失? 実際に起こるんだな……」
「しかも部分的になんだ……俺らのことだけ分からないんだって」
「は? ということは俺らのことだけ忘れたかったってことかよ? それはないだろ綾野っ!」
「渉やめなさい! 皐月が怖がっているでしょう!?」
「朝日は気にならねえのかよ!」
「気になるけど今怒鳴ったところで仕方がないじゃない!」
「ふたりとも落ち着いて!! 綾野さんが怯えちゃってるよ」
みんなが謝ってくれる、でも、僕はここから消えたくて仕方がなかった。
「ありえないだろ……帰るわ」
「はぁ、祐あとは頼んだわ。ちょっと待ちなさい渉っ」
ふたりが帰ってくれても僕の1番苦手な目の前の男の子が帰ろうとはしてくれない。
「……もうやめてください、1人で大丈夫ですよ」
「いや……朔さんに頼まれてるから」
「い、言わさせてもらいますけど、あのふたりより長崎君のことが1番苦手ですからね」
「な、何で……」
「だって……人の顔色を伺って行動していますし今だってお母さんが頼んできてなければ本当は僕のことなんてどうでもいいってことですよね? 自己満足感を高めたいだけに利用されるのは嫌です、やめてください。失礼します」
母もどうしてこんな子を信用しているのだろうか。
頼まれれば動くということは、頼まれなければ動かないような子なのに。
帰宅し僕は早速そのことをぶつけた。
けれど母の態度はこちらの方がおかしいと言いたげで、撤退する羽目になる。
「また来たら嫌いって言う」
苦手とまで言ったんだし来るわけないだろうけど。
「あ、綾野さんおはよう」
翌日、長崎君は僕の拒絶オーラを一切考慮せずに現れた。
言う、言うしかない、プライベートにまで踏み込まれるのは気持ち悪いし怖いから。
「長崎君、僕はあなたが嫌いですっ」
目をギュッと瞑って体を固まらせつつも真っ直ぐに。
昨日のえと……平……池君みたいに怒ってくるだろうか? もしそうだったなら母に頼んで出禁にしてもらうしか僕にはできない。
「記憶が失くなってるはずなのに……そこだけは変わらないのか。はは……そうだよね、全然知らない相手が部屋に現れたら怖いもんね。何で気づかなかったかな……うぅっ……あ、出ていくよ」
え? どうして泣くの? とかよりも何故か胸がちくと痛んだのが気になった。
この悲しそうな表情は紛れもなく長崎君の本心だと思ったから? しかし、細かく聞こうとする前に長崎君は出て行ってしまう。
違う、泣いてたのが気になっただけだと言い訳をして制服に着替えた、あまりゆっくりしている時間はないのだ私にも。
一階に行くと怒った顔の母がいて「椅子に座りなさい」と言ってきた、大人しく従うと机の端を叩いて母は怒鳴ってくる。
「散々お世話になっておきながら嫌いなんて言って泣かせるんじゃないわよ! そんな常識のない娘に育てたつもりはなかったのにどうしてこんな……」
「ま、待ってっ、ぼ、僕が悪いの?」
「はあ? 当たり前でしょうが! 謝って祐君を連れてくるまで家には入れないからね!」
ネグレクトではないのそれは……それに間違えたことをしたつもりもないのに。
「ならいい……」
仮に長崎君達だけに関する記憶が消えているのだとしたら、僕がそう願ったということ。
だったら、
「お母さんの記憶も消えたらいいのにっ」
そう叫べば変わるかもなんて思った自分が馬鹿だったのかもしれない。
結局頬を叩かれるだけに終わったのだから。
その後、涙をボロボロ流しながらの登校になったのだから。
放課後、僕は怖い気持ちを抑えて鷲谷さんの所に向かった。
数人の女の子と会話していた彼女は幸いすぐに気づいてくれてこちらに来てくれる。
「どうしたの?」
「あの……家に泊めていただけませんかっ? は、母と喧嘩をしてしまって……」
「……ごめんなさい、それはできないわ」
「あ、ですよね……すみませんでした、失礼します」
1日くらい野宿しても人間は死なない……多分。
夏で良かった、これで冬とかだったら多分冗談じゃなく死んでたから。
もう1度礼をして教室を後にする。
「綾野」
「あ……平池君……」
「泊まる場所を探してるのか? 俺の家で良ければ――」
「い、いえ……お、男の子の家とか怖いので……大丈夫ですから、ありがとうございましたっ」
「……昨日は悪かったよ」
「へ? あ……いえ」
「でも心配なんだ、そんなに悲しそうな顔をしていられたら気になるだろうが」
どんな顔をしているのだろうか?
何で自分の顔なのに道具無しでは確認することができないのだろうと微妙な気持ちになる。
「ちょっと渉、余計なことをしなくていいのよ」
「別にこれは浮気とかじゃねえぞ?」
「知っているわよ。でもいいの、皐月には何もしなくて」
「な、何でだよ! 友達じゃねえのかよっ?」
「だって皐月は……ほとんど何もしてくれなかったもの。頼んでも『興味ない』って素気なく反応され続けていたのよ?」
「べ、別にいいですから……さようならっ」
昨日は止めてたのに……結局その内ではそういう風に思っていたんじゃないか。
だから気持ち悪いと感じていたのかもしれない、表裏の差を無意識に勘づいていたのだ。
というか僕はこんなに涙脆かっただろうかと考えつつ走っていた。
だがろくに前を見ずに走っていたせいで人にぶつかってしまい、尻もちをつく。
「す、すみませっ――」
「あ、綾野さん……」
どんな偶然なんだろう。
そして誰よりも今の自分を見てほしくないと思える相手だった。
「な、泣いてるの?」
「ちがっ……」
慌ててゴシゴシと腕で擦ってみたものの、今朝のこともチラついて一向に止まらない。
長崎君は僕の腕を掴んで立ち上がらせ「少し静かな場所で話そうか」と言って歩きだしてしまう。
掴む力は結構強くて、僕じゃとても逃げ出せそうになくて。
結局なすがままとなったまま、空き教室まで連れてこられてしまった。
「えと……ごめんねこんなこと。だけど気になるからさ、教えてくれないかな?」
何も面白いことじゃないけど全て言ってスッキリした方がマシかもしれない。
「……お母さんに長崎君に謝って連れてくるまで家に入らせないって言われたんです。無理なので鷲谷さんに泊めてくれてと頼みました……けど、僕が何もしなかったから私もしたくないと……別に食いつくことはしなかったのに……平池君のせいで本音を聞かされることになりました。それが悲しくて走ってたら長崎君にぶつかって……今ということになります。今日は野宿して……いや今日からかもしれませんけどね」
自嘲気味に笑う。
目の前の男の子を自分勝手な言い分で泣かしたくせに悲しくてなんて馬鹿すぎるから。
「行こうよ、綾野さんの家に」
「え……嫌ですよ、だってお母さんの記憶も消えたらいいのになって願いましたから」
「何でそんなことをしたの!」
「ひぅっ!? だから別にいいですって……お風呂に入れないのは……致命的ですけど」
「……家に帰るのと、俺の家で過ごすの、どっちがいいの?」
「どっちも嫌で……は、離してくださいよ!」
無闇やたらに体に触れるのもあれだし自分の家に連れて行こうとするのも犯罪だ!
……逆らえず下駄箱できっちり靴に履き替えさせられて外に連れ出される。
途中大人の人とすれ違ったものの、長崎君に怒られると思ったら何も言えず。
そして長崎君はある家の前で足を止めた。
「もう1度聞くよ? 俺の家か、君の家、どっちがいいの? 勿論、俺は普通に自分の家へと帰ってほしいと思う。謝らなくちゃいけないという条件なら、謝ってくれたって朔さんに説明するからさ! だから野宿とかやめてよ……俺は綾野さんに危ない目にあってほしくないからさっ」
言うこと聞かないとこのまま腕を折られるかもしれないという恐怖があって、自分の家と小さく呟くしかできなかった。
帰宅しリビングに入るとこちらを睨む母の姿がそこにあって、身体を竦ませる。
やっぱり願って記憶が消えたなんて嘘だろう、だってそうなら記憶が残っているのはおかしい。
「朔さん、綾野さんは謝ってくれました! 追い出さないであげてください、お願いします!」
「祐君、嘘はいけないわよ」
「え?」
「皐月、あなた謝ってないわよね? 都合が悪い時だけ祐君の優しさを利用して生きているのよね?」
「ち、違いますよ! 綾野さんは確かに謝ってくれました! 見てないから分からないだけですよ!」
「ならここでも謝れるでしょう? 皐月、祐君に謝って」
「べ、別に……僕悪いこと――」
「出ていきなさい、謝罪すらもできないあんたの顔なんて見たくもないわ」
涙が溢れてきて僕は精一杯母を睨みつける。
「……消えればいいのにっ」
それは記憶が、ではなかったような気がした。
こちらの気持ちを一切分かろうとせずに長崎君の味方ばかりをする母にムカついたから。
うるさく音を立ててリビングの扉を閉めて、玄関の扉にも同じようにした。
少しスッキリした、何か壊してやりたい気持ちがいっぱいだったから。
「皐月!!」
それはどうやら母も同じだったらしく、わざわざ外にまで追いかけてきて僕を殴る。
「ちょっと朔さんっ、何やってるんですか!?」
「……もうっ、顔も見たくないわっ」
人を殴っておきながら泣くなんて頭おかしすぎるんじゃないの!
というか、顔を見たくないとか言っておきながらわざわざ出てきたのはそっちなのに!
「僕だって……見たくないっ、どっか行っちゃえ!」
「……祐君、こんな馬鹿な娘を泊めたりしないでよね」
誰が泊まるものか!
最悪身でも売ればいい、お金さえあれば生きていけるんだから!
怖くても生きていく術は沢山あるのだ、拘らなければ幾らでも……。
「ごめんなさい長崎君、これで失礼しま……って、何で抱きしめるんですか……離してくださいよ」
一瞬、長崎君になら体を許してもいいと思ったのは末期だろうか。
お金さえくれれば誰だっていいなんて嘘に決まってて……長崎君なら優しくしてくれるだろうしお金だってと考えてしまった自分は最低だろう。
「家泊めてあげるからさ、敬語……やめてくれないかな」
「……と、泊まらないって言いましたよね?」
「じゃあこれからずっと綾野さんはご飯も食べないで、お風呂にも入らないで生きていくの? 夏は暑いし冬は寒いんだよ? できるわけがない……違うっ、見過ごせるわけないだろ!」
「み、耳がっ……」
「あっ!? ごめんっ」
解放されて距離を作った。
まだキーンと響いている痛みを何とか抑えつつ、いいんですか? と弱い自分が聞いてしまう。
「誰かに頼まれたとかじゃないよ、俺がしたいからそう言ってるんだ」
あ……それは少し前の自分が疑ったこと、頼まれなければやらないんじゃないかって考えたことを覆すものだった。
「で、でもやっぱり体では払えません!!」
「え……ええ!? な、何の話っ?」
「……身を売ってお金を稼ごうと思ったんですけど、無理そうです……」
「このお馬鹿!」
「ふぇっ!?」
まさか長崎君からこんなこと言われると思っていなかったから……今度は僕が驚く番のようだ。
「そ、そんなこと求めるわけないでしょ! それに俺の両親だって皐月……ちゃんのこと知ってるんだし問題ないよ」
「そ、うなんですか?」
「敬語やめて? それに前みたいに祐って呼んでほしい」
「えと……ゆ、ゆゆ、祐君……」
「あーもう可愛いなあ!」
可愛くなんてない。
自分勝手で醜い女なんだ僕は。