闇夜の門を
これは、俺がまだ子猫だった頃の話だ。
今はヴァルトと名乗っている俺が、タイガと呼ばれていた頃の。
確かあの頃は、自分のことを僕と呼んでいた気がする。
あの時の俺は、まだ何も知らない、子猫だった。
◆ ◆ ◆
麻衣姉さんが、段ボール箱に毛布を詰め始めた。
――何が始まるんだろう。
麻衣姉さんは僕の飼い主で、僕に食べ物をくれるし、時々僕のためにおもちゃを作ってくれる。家の中で毎日を過ごす僕にとって、たった一人遊び相手になってくれる人だ。姉さんと言っても、もう成人して車も運転するけど。
今日も、僕のために何か遊び道具を作ってくれているのだろう。
しかし、どうにも様子がおかしい。麻衣姉さんの表情が、いつもの楽しそうなそれじゃない。
僕が不思議に思ってみていると、麻衣姉さんが僕に呼びかけた。
「タイガ、おいで」
僕は喜んで駆けていき、麻衣姉さんのひざの上に飛び乗る。すると、麻衣姉さんは両手で僕を抱え、毛布を詰めた段ボール箱の中に入れてくれた。
ふかふかで気持ちいい。
これは、新しい寝床にちょうどいいかな。
そうか、麻衣姉さんは古くなった今の寝床の代わりにこれを作ってくれたのか。
僕は箱の中で喜んでいた。
さすが麻衣姉さん。僕のことをわかってる。
しかし、麻衣姉さんは僕をそのままにしなかった。その段ボール箱を持って立ち上がる。
そのまま部屋を出て、玄関から家を出て、僕の入った箱を地面に置き、家の鍵を閉めた。
麻衣姉さんが僕を連れて家の外へ出ることなんて、動物病院に行く時くらいだ。でも、その時の僕は狭いゲージに入れられる。それが病院のルールだからだ。僕はゲージが嫌いだけど、麻衣姉さんを困らせたくないから、いつも素直にゲージに入っていた。
そんな、嫌いなゲージに入れられることもなく、僕は麻衣姉さんの車の助手席に、段ボール箱ごと乗せられる。車に乗るときは、ここが僕の定位置だ。
でも、いったいどこに行くんだろう。
僕の不安をよそに、麻衣姉さんは運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
僕のいる場所からでは、外の景色はほとんど見えない。だから、車がどこに向かっているのか、僕にはわからない。動物病院以外の場所に行ったことがないから、景色が見えても行先がわからないのは同じだけど。
しばらくの間走っていた車が不意に止まる。麻衣姉さんが車のキーを外し、車から降りた。どうやら、ここが目的地らしい。
僕は段ボール箱に入ったまま車の外へと出された。外を見ると、近くに川がある。車が止まっていたのは、土手の上だった。土手を降りたところに、割と広めの河原がある。
麻衣姉さんは、土手から河原に下りる階段を見つけ、僕の入った箱を抱えて降りていった。
麻衣姉さんは河原を少し歩き、上に大きな橋があるところまで来た。そこで、僕の入った箱を置いた。しゃがんで、箱の中の僕の頭を一撫でしてくれた。
「――んね、ここにいて」
麻衣姉さんが小さな声で僕に言った。
最初の部分がよく聞こえなかったけど、ここにいればいいんだね。わかったよ。
麻衣姉さんは僕に背を向け、車へと戻っていった。
車が動き出す。
残された僕は、段ボール箱の中から、その様子を見ていた。
夜が来て、朝が来て、また夜が来た。
ときどき通りかかった人が、僕を覗き込んでは、立ち去っていく。
僕はそこで待ち続けた。
すぐに麻衣姉さんが迎えに来るものだと信じて。
その間食べるものがなかった僕は、箱の中で、いつの間にか倒れていた。
「おい、お前さん、大丈夫か」
遠くで声が聞こえる。
もう少し寝ていたい。というか、空腹で動く力がない。
「まさか、何も食べておらんのか。……少し待っておれ」
何か言い残し、声の主は僕の寝床を揺らしてどこかへ行ってしまった。
そうだ、麻衣姉さんはまだ来てくれないのかな。
麻衣姉さんは何をしているんだろう。すぐに迎えに来てくれるはずなのに。
「ほれ、起きよ」
声の主が戻ってきた。
だから、動けないって言ってるのに。
「お前さんのためにバッタを探して捕まえてきてやったのに、動けないのではどうにもならんな……」
ん、食べ物?
僕は力を振り絞って起き上がった。
「おぉ、気が付いたようだな。腹が減っているなら、ひとまずそれでも食べるといい。それから話を聞こう」
声の主は、そこそこに年を重ねたお爺さん猫だった。
彼が持ってきたバッタを見て、僕は我慢できずに飛びつく。
野生のバッタを食べるのは、これが初めてだ。限界まで来ていた空腹とも相まって、過去に経験したことがないほどおいしく感じられた。
「なんだ、心配したより元気なようだな」
お爺さんが呟く。僕はバッタを食べるのに夢中だった。
僕がバッタを食べ終えると、お爺さんは改めて言った。
「私は名をザイデという。お前さん、名前は?」
「……タイガ」
お爺さん相手にどうやって話せばいいのかわからず、とりあえず聞かれたことにだけ答える。
「うむ、タイガか。……人間が好んで付けそうな名前だな」
人間が付けそうな名前、とはどういうことだろう。これは麻衣姉さんにもらった、大切な名前だ。
「タイガ」
ザイデ爺さんは、僕をまっすぐに見据えて、僕の名前を呼んだ。
「私はお前がここに連れてこられてからの何日か、手を出さずにお前を見てきた。それは、お前が自分で生き延びようとするなら私は必要ないと思ったからだ」
ザイデ爺さんの言うことの、半分以上がわからない。けれど、僕はずっと見られていたらしいということはわかった。
「しかし、お前はこの箱の中にずっと籠もったままだった。そろそろ危ないだろうと思って来てみたらこの有様だ。お前、自力で生き延びようとは思わなかったのか」
僕は首を傾げた。
だって、麻衣姉さんがすぐに迎えに来てくれるから。
すると、ザイデ爺さんが一つ、ため息をついた。
「お前には、お前の気づいていない事実を言わねばならん。しかし、それはお前が認めたくない事実でもあろう。覚悟して聞け」
ザイデ爺さんの言うことが、何から何までわからない。僕は麻衣姉さんを待っているだけなのに。
僕がまた首を傾げると、ザイデ爺さんはまたため息をついた。
「……わからんのも仕方ないか。私の時とさして変わらんからな」
ザイデ爺さんは一人呟き、僕を見て言った。
「お前さんは、飼い主に捨てられた。もう迎えには来ない」
ザイデ爺さんは、さっきからわけのわからないことばかり言っている。麻衣姉さんが僕を捨てるなんてこと、あるはずないのに。
僕は首を横に振った。
ザイデ爺さんは僕を諭すように言う。
「認めたくないのはわかるが、今、お前さんを迎えに来ていないのが何よりの証拠だ」
――それは、何か理由があって。
僕の思いに関係なく、ザイデ爺さんが話を続ける。
「今日の夜、すぐ近くで猫の集いというものがある。そこに来れば、狩りのやり方なり、場所なり、野良猫として生き方を教えてもらえる。もちろん、私が直接教えてやってもいいが」
――そんなの行かなくたって、僕には麻衣姉さんが。
「今は驚いていることだろう。落ち着いたら来なさい」
そう言い残し、ザイデ爺さんは立ち去った。
僕は、何もできなかった。
日が沈み、闇が広がっていくころ、橋の下の、僕から少し離れたところに、猫が続々と集まってきた。あれが猫の集いというものだろうか。
麻衣姉さんはまだ迎えに来てくれない。
猫の集いというものに、僕は少しだけ興味があった。
野良猫になるつもりはないけど、少しだけ見に行ってみようか。
僕は段ボール箱を這い出し、ここへ来て初めて、河原の石を踏んだ。
どうしようか。突然あの猫の集いに飛び込んでいって、受け入れてもらえるかどうかわからない。でも、ザイデ爺さんは来いって言ってたし。
でも、たぶん、ザイデ爺さんは向こうにいる。それなら大丈夫だ。
僕はほんの少し迷った後、河原を猫の集いへと駆けていった。
「……ザイデ爺さん」
「来たか、タイガ」
運のいいことに、ザイデ爺さんはすぐに見つかった。もしかしたら、僕を待っていてくれたのかもしれない。でも、ザイデ爺さんはどうして僕に構ってくれるんだろう。
猫の集いは、どれだけの猫がいるのか数えきれないくらいの規模の大きさだった。これなら心配しなくても、僕が混ざったところで誰も気づかなかったかもしれない。
僕が圧倒されていると、ザイデ爺さんが口を開いた。
「見よ。これが猫の集いだ。野良猫として生まれた猫、飼い主から逃れてきた猫。いろんな境遇の猫がいる。もちろん、お前のように飼い主に捨てられた猫も――」
「僕は捨てられてなんかないっ」
ザイデ爺さんの言葉に、僕は強く反発してしまった。そんなつもりはなかったのに。
「麻衣姉さんは絶対に迎えに来るっ。ちょっと見に来ただけだからっ」
気づかないうちに、僕はわめき散らしていた
「そうか」
しかし、ザイデ爺さんは落ち着いた口調で言うだけだった。
「まだ飼い主を信じているのなら、それでも良い。飼い主が迎えに来るまで、生き延びる術を教えてやろう」
わめき散らした僕なんかに、ザイデ爺さんは優しくそう言ってくれた。
それから毎晩、ザイデ爺さんは、この辺りの地形や、狩りの方法や、野良猫の間の礼儀なんかを僕に仕込んでくれた。猫の集いに来ていた他の猫たちも、僕を受け入れてくれた。
それは、あくまで野良猫の仲間として、だ。
しかし、僕は野良猫ではないという、その思いだけは、曲げなかった。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間が過ぎ……。
一か月が過ぎた。
経験を積んだ僕の狩りの技術は、一匹で自分が生きるための食べ物を得られるくらいにはなっていた。
麻衣姉さんが見たら、どう思うだろう。
まだ、麻衣姉さんは迎えに来てくれていなかった。
「今日は、鳥の獲り方を教えようと思っていたのだが」
ある晩、ザイデ爺さんが言った。星も月も見えない、静寂と闇に包まれた夜だった。
「お前に見せておかねばならないものがある。お前が今、最も見たくないものかもしれん。しかし、見なければならないものだ」
ザイデ爺さんの回りくどい言い方にも、少しずつ慣れてきていた。でも、ここまで険しい顔をして語ることはあまりなかった。
「ついて来い」
有無を言わさずといった様子で、ザイデ爺さんは駆けだした。僕も彼の背中を追って走り出す。
僕たちが暮らす河原を離れ、街中へと出ていく。
走る車を避け、塀を越え、進んでいくと、懐かしいにおいを感じる場所へとたどり着いた。
「麻衣姉さん……」
僕がずっと暮らしていた、麻衣姉さんの家の匂いだ。
その家が見えたところで、ザイデ爺さんは立ち止まった。
「もうすぐだ。見ておれ」
ザイデ爺さんは小声で言う。
僕は息をひそめて、麻衣姉さんの家の玄関先を見ていた。
しばらくして、大人の二人組がやってきた。ふらふらになった女の人を、男の人が支えている。女の人が何やら意味不明な言葉を発した。
「嘘……」
――あれは、麻衣姉さんだ。
あんな麻衣姉さんを、僕は見たことがない。いつも溌溂としていて、お酒を飲みすぎることなんてなかったのに。
だったら、男の人は一体。
男の人は麻衣姉さんを抱きかかえたまま、玄関の鍵を開け、麻衣姉さんを連れて中へ入っていった。
ここは麻衣姉さんの家だ。ここの鍵を持っているということは、つまり、彼は。
「タイガ、これでわかっただろう」
ザイデ爺さんが淡々と語る。
「お前の飼い主は、お前を捨てて、あの男を選んだ。残酷だがそれが現実だ」
「嘘だっ」
認めたくなかった。
僕は麻衣姉さんの家へと駆けだそうとした。しかし、ザイデ爺さんに無理やり止められる。
「無駄だ」
「嘘だよ、あんなの麻衣姉さんじゃないっ」
「認めろ」
ザイデ爺さんは、突然、語気を強くした。
「認めろ。認めたくないだろうが、お前が今見たもの、それがすべて現実だ」
「なんで、なんでっ」
「ここは理不尽で満ち溢れた世界なんだ!」
ザイデ爺さんが、怒鳴った。その気迫に、僕は押し黙るしかない。
ザイデ爺さんがゆっくりと首を横に振り、それから僕を見つめて語りだした。
「私もお前と同じくらいの時に、それまでの飼い主に捨てられた」
ザイデ爺さんが自分の過去について語るのは、これが初めてだった。
「お前と違って一匹ではなく、兄がいた」
でも、僕はザイデ爺さんのお兄さんに会ったことがない。今はどこにいるんだろう。
その疑問への答えは、すぐに明かされた。
「私は飼い主の元へ戻るため、必死だった。周りが見えていなかったのだ。そして、もとの飼い主に追い払われて危険な目にあった私を救うため、彼が身代わりとなってしまった」
ザイデ爺さんの表情は、悲しみに満ちていた。
「お前に兄弟はおらんだろうが、飼い主を追って何かを失うようなことは、させたくなかったのだ。お前自身が命を落とすようなことも」
「ザイデ爺さん……」
初めて明かされるザイデ爺さんの過去に、僕は困惑していた。
人間なんて、そんなものなのかもしれない。いとも簡単に僕たちを捨ててしまう。
でも、ザイデ爺さんの飼い主はそうだったかもしれないけど、麻衣姉さんは。
「タイガ。お前は重要な決断をしなければならない。過去の飼い主にしがみつくのか、野良猫として新しい自分を生きていくのか」
僕は、僕は。
まだ、麻衣姉さんを信じたかった。でも、僕を助けようとしてくれるザイデ爺さんの思いは、本物だった。
「僕は……」
――迷ってばかりだ。
その時、家のほうから女の人の大きな甲高い笑い声が聞こえてきた。
麻衣姉さんだ。
でも、麻衣姉さんじゃない。
あぁ、そういうことか。
僕の知っている麻衣姉さんは、もういない。
「タイガ、今は――」
ザイデ爺さんが何か言いかけたのを遮る。
「僕は」
決めた。
「僕は、野良猫になります。今までを全部、捨てて」
「そうか」
ザイデ爺さんは否定も肯定もしなかった。
――それでいい。
そう言っている気がした。
夜の闇が、最も深くなる時間だった。
◆ ◆ ◆
僕はヴァルトと名乗ることに決めた。麻衣姉さんにもらった、タイガという名前を捨てたのだ。
僕は、闇夜の猫として生きていく。そう決めたから。
猫の集いの仲間たちは、僕を温かく迎え入れてくれた。僕も今度は野良猫として、その集いに参加できた。
たくさんの初めてを経験して、僕は変わっていった。
気づかないうちに、僕は自分のことを俺と呼ぶようになっていた。
そうして、飼い猫だった過去を消し去り、生まれつきの野良猫として生きていくようになった。
――変わっていく。いつだって、何だって。
俺はこの闇夜の中で、大切な相手と出会い、仲間を得て、失う悲しみも経験することになる。
――しかしそれは、俺が光を知ってからの話だ。