9話 口達者な白猫兄妹
猫青年が開いた小袋の中には、傾国の美女が作ったといわれる、二十枚のクッキー。
猫をかぶったまま、妹は兄を見上げる。
「兄上、クッキー譲渡の契約書をお願いします」
「おやおや、契約書ですか?」
「にゃ、これは兄上が頂いたものですから。明日、学校に行ったら、味の感想を聞かれるのではないのですか?
家族と分けて食べたという、証明書があった方がいいかと思ったので」
「なるほど、なるほど。ならば、簡易契約でいいですね」
「にゃ。私が書きます」
猫娘は、力持つ言葉を唱える。手のひら大の白い光の輪が、空中に描かれた。
走る幾何学模様、成立する魔法陣。魔法陣は砕け散り、白い粒子になる。
白い粒子は、薄っぺらい一枚の紙になった。銀色の文字が、契約文章が、紙に書かれ始める。
巷では、世界の理を秘めた宝珠から作り出した、紙とペンを使って書かれる、簡易契約書。
契約文章が五色の混じった虹色ではなく、単色で文章が書かれるのが、一番の特徴だ。
「はてはて、この部分はなんですか? 所有する権利は分かりますが、調べる権利とは?」
「にゃ、美味しいクッキーなんでしょう? 作り方や材料を調べて、新しい薬の開発に生かしたいです」
「ではでは、契約の完了を持って、分配する権利など数々の権利がクリスに移るは?」
「兄上がいない間に、母上とおばあさまが食べたいと言っていました。私としては、おじいさまや父上にも、差し上げたいです」
妹に言われ、母と祖母を見やる兄。王家の微笑みを浮かべる、王女たちがいた。
「なるほど、なるほど。さすがにクリスの塩ケーキや、消し炭クッキーのようなことは、無いと思いますが」
「にゃ? ついに塩と砂糖を、間違わなくなりましたよ。黒砂糖を使えばいいと料理長に教えてもらいました!」
「はいはい、進歩しましたね。隠し味の分量も覚えましたか?」
「にゃ。一つまみが人差し指と親指で、一掴みが片手で握りこめる量です」
簡易契約書に署名した兄は、着席しながら、妹に視線を移す。胸を張り、自慢げに話す姿。
猫娘、料理が苦手だった。というか、王女である母も祖母も、料理はできない。
王族のみならず、代々領地を治める世襲貴族にとって、料理を作るのは、料理人の仕事。
例外は、東地方を治める、ワード侯爵家くらい。青の英雄の子孫の一族だけである。
魔法医師の子猫の場合、子供向けの内服薬で、お菓子や飲み物を研究する必要性が出てきた。
本人を含めて、子供は苦い薬を飲みたがらない。甘い薬の研究材料として、お菓子を選ぶ。
猫娘は、ベイリー男爵家の料理長に頼み込んで、お菓子の作り方を習った。
けれども、失敗続き。生まれて初めて見る、食材の数々。白い塩と白い砂糖の区別がつかなかった。
お菓子の作り方によっては、砂糖の甘さを引き立てるために、隠し味として塩を使うことがある。
猫娘、隠し味の塩の量も間違えた。一つまみと一掴みでは、大きな隔たり。
「赤色魔法で一気に燃やさず、温度を調節して焼くことも覚えました♪」
「はいはい、消し炭や生焼け回数は減っていますね。次は冷ますときに、水をかけるのをやめましょうか。
また食べられなくなって、魔法で飲み薬に変換しないと摂取できない、謎の物体になりますよ?」
「にゃ? 今度は青色魔法で冷たい風を起こして、一気に冷ませばきっと大丈夫です!」
「いえいえ、それも止めてください。調理場に小麦粉が舞い散って、使用人たちの掃除が大変になります」
猫耳の先を天に向け、練習の成果を発表する猫娘。兄は返事をしながら、妹の失敗の数々を思い浮かべる。
生まれて初めて入った、調理場。料理長の指示のもと、お菓子練習を始める。
瞳を輝かせる子猫には、調理は見たことのない魔法に見えたらしい。
猫耳魔法使いは、知っている魔法で、全て解決しようとした。その結果、家族や使用人を巻き込み、数々の悲劇が生まれる。
「……クリス。まず、おじいさまにクッキーを。きちんと成分を調べてもらうように」
「にゃ、了解しました」
子供たちの会話を聞いていた、無愛想な父。軽くため息をつきながら、娘に諭す。
猫娘から執事長経由で、祖父の前に、一枚のクッキーが置かれる。皿に乗せられた、傾国の美女のクッキー。
「ふむ。少し待つのじゃ」
祖父は、クッキーの上に左手をかざす。力持つ言葉を唱えた。空中に虹色の光の輪が描かれる。
走る幾何学模様、成立する魔法陣。砕け散った魔法陣は、虹色の粒子を形成する。
クッキーに降りかかる、虹色の光。具現化した虹色の光は、しばらく滞空し、そのまま世界の理に溶けて視界から消えていった。
ベイリー男爵家の当主は、筆頭宮廷魔法医師。王宮に住む王族たちの毒見役も、宮廷魔法医師の仕事の内だ。
虹色魔法の結界を展開し、食材の原料や、世界の理の構成成分、どんな魔法がかけられているか調べるくらい、たやすいこと。
クッキーを調べ終わった祖父は執事長を呼び、とある薬草茶を出すように命じた。
「うむ。このクッキーには、巫女姫の残された薬草茶が合いそうじゃ」
「そうですか、そうですか、あの銘茶が合いますか。さすがカレン嬢です」
猫青年は、祖父の決定に笑みを浮かべる。緋色の瞳に情熱的な色を宿しながら。
祖父が命じたのは、ベイリー男爵家伝統の薬草茶。
五百年前、祈りの巫女姫が調合した中で、最高傑作とされる、歴史ある一品だ。
フォーサイス王国内では、嗜好品としても、薬草茶としても、最上級と呼ばれる。
……そう。王侯貴族にとって、嗜好品として最上級。
魔法医師にとっては、薬草茶として最上級の物。
猫青年が冷静ならば、祖父の意図に気付いたであろう。今は、無理な話。
「アンディ、お茶が入るまで、もう少し学校のことを話してくれんかのう。……これを作った、お嬢さんのこととか」
「はいはい、いくらでも、話しますよ!」
元気よく動く、猫耳。舞い踊る猫しっぽ。猫青年は、自慢げに話し始めた。
*****
フォーサイス王国では、高等学校は国の未来を担う、若者のための勉強の場。文官養成所の別名がある。
基本的に十六才を迎える年度から、身分を問わず入学を許された。人数制限はあり、入学試験を合格した者だけだが。
三年間の基礎課程を学び、巣立つ者もいれば、さらに上の専門課程を学ぶ者も。
一時的に卒業し、職について授業料を貯め、専門課程のために再入学する者すらいる。
近隣諸国では、稀にみる、自由な校風の学校であった。
裁判官を目指す猫青年は、基礎課程二年生。司法試験の受験資格をもらえる、法学専攻科に進級予定だ。
同級生に、従兄弟のエドワードがいる。明るく聡明と名高い、王家の第一王子が。
一つ下の学年にも、親戚たちが居る。静かなる第二王子フィリップ。
それから、エステ公爵家の双子、賢姫エリザベスと社交家マシュー。
現在の高等学校は、王位継承権を持つ子供たちが、一堂に会する場であった。
そのため、ここ数年、高等学校の入学、再入学希望者は格別多かった。他の専門学校から、編入試験を希望する者も。
おかげで、王国内外から、選りすぐりの頭脳の持ち主が集う学校と化す。
そんな選りすぐりの生徒の中に、珍しい生徒が混じったのは三か月前。
魔法使い養成所の別名を持つ、魔法学校からの編入者。
麗しきエルフに勝るとも劣らない美貌を持つ、深紅の髪と瞳の少女である。
「アタシは、カレンデュラ・オフィシナリスよ。よろしくね」
週に一度、講堂で行われる全校集会。基礎課程の全生徒の前で、学校長に紹介された生徒は、あでやかに笑った。
深紅の少女は、額に黄色の魔法陣を抱いていた。円の中に五芒星が走る、魔法陣。
五百年前、フォーサイス王国を救った救世主たちと同じ、原初の魔法陣を。
******
兄は、傾国の美女が、初めて高等学校に登校した日のことを語る。情熱的な緋色の瞳で。
妹は冷たい金属のような瞳で、兄を見る。猫をかぶったまま、質問をした。
「オフィシナリス? 南の公爵家の人なのですか?」
「おやおや、知りませんか? カレン嬢は、オフィシナリス公爵家の養女ですよ。
五年前に救世主が現れことは、かなり有名なのですが。身寄りがないので、双子の姉共々、南の公爵家が引き取ったのです」
「にゃ、その噂は初耳です。五年前は、初級魔法医師の資格習得直後で、忙しかったので。
あのときは、南地方が飢饉続きで、おじいさまと一緒に、地方へ送る薬ばかり作っていました」
「ではでは、二年前の魔法学校の入学は? 救世主が、満点だったのも有名ですよ」
「にゃ、そちらも知りません。二年前は、中級魔法医師になったばかりです。
王国内で鉱石病がはやって、治す薬の研究に明け暮れていました」
困ったようにひねり出した兄の言葉に、妹は言い返す。冷たい金属のような声音で。
猫娘は、世間のことにうとい。王都の有名な噂話など、何一つ知らない。
魔法医師の仕事や研究が、生活の全てだった。学校生活を満喫できる兄とは、日常が違いすぎる。
「ですが、ですが、クリスも、お茶会に参加する機会があれば、もっと噂話に接することができると思いますけどね」
「にゃ……お茶会参加ですか。お許しいただけるのなら、前向きに検討しますが」
「あらあら、親戚のお茶会以外はダメですよ」
「そうです。クリスは免疫がないですからね」
「にゃ? 私の免疫機能は、正常に働いています」
兄の提案は、母に却下される。祖母の背筋が伸びるような声が続いた。
祖母の台詞に、真面目に答える猫娘。きょとんとしている。
「……アンディ。クリスは、まだ子供だ。言いたいことは、分かるな?」
「うむ。専属の近衛兵もおるしのう」
「はいはい、了解しました。かわいい妹は守りますよ」
無愛想な父から、重厚な声がする。顎を撫でながら、祖父もぽつりと。
肩をすくめながら、兄は返事をする。きょとんしながら、家族を見渡す猫娘。
「にゃ? 皆さま、なんの話ですか?」
「いえいえ、大人の話です。子供のクリスが参加するには、まだ少し早いようですね」
「大人の話……国の将来に関することなのですね。了解しました。終わるまで、待っています」
兄の返答に、しっぽを揺らす妹。子猫は、聞き分けが良かった。
黙って、ミルクマフィンに手を伸ばす。家族の会話を右耳から左耳へと、聞き流す体勢へ。
どうやら兄が「軽率」「兄の自覚が足りない」「妹を思いやれ」などと、両親や祖父母からお説教をくらっているらしい。
途中からお菓子に集中し、詳しい内容は知らないが。
「はいはい、クリス。おじいさまが調合して、じいやが薬草茶をいれてくれましたよ」
「にゃ……相談は終わったのですか?」
「ええ、ええ、終わりましたよ。もう会話に参加しても良いですからね」
マフィンを三つ食べ終わった、育ち盛りの猫娘。マフィンの代わりに、薬草茶の入ったティーカップが置かれる。
視線を上げれば、猫耳を伏せ、憔悴しきった兄が居た。家族に絞られた様子。
「にゃ……兄上、お疲れですか? 顔色が悪いです。心配なので、診察してあげます」
「いえいえ、診察はいりません。原因もわかっていますし、おじいさまや父上がいます。
クリスは心配しなくていいんですよ」
「にゃ。了解しました」
魔法医師の妹の提案に、あわてて首を振る兄。これ以上、両親や祖父母に説教されたくない。
「では、学校の続きを聞かせてください」
「そうです、そうです。高等学校の編入試験のことも有名でした。
カレン嬢は、後期の編入生募集でも、満点を出したんですよ。そちらの噂は知りませんか?」
「にゃ? 後期の編入生募集の試験って、夏の長期休みの間の話ですか? 獣人王国の姫君を、うちの領地に招待していた頃ですよね」
「はいはい、そうですよ。さすがにクリスも……」
「知りません。王家のおじ上のお供で、夏休み中のユーインも一緒に、地方巡業へ赴いていました」
猫青年、同じ轍を踏んでしまった。顔を引きつらせ、猫しっぽを忙しく動かしながら、取り繕う。
「いやいや、すみません、すっかり忘れていました。そういえば、おじいさまの宮廷魔法医師のお手伝いでしたね」
「にゃ……それは表向きです。実際は、王族の子供代表としてです。
エドたちは学校の宿題があるし、兄上は獣人王国の姫君を招待したから、一緒に地方巡業できないって、王家のおじ上がぼやいていました」
「いやいや、クリスはうちの養女扱いですよ。フォーサイス王族の証の金色を一つも持っていませんし、王族の子供代表は無理がありませんか?」
「それは、王都の国民や、貴族としての考えですよね? 地方では、白猫族というだけで、大歓迎されます。
白猫族は、祈りの巫女姫の子孫にしか生まれません。私が古き王家の血を引くというのは、外見だけでも理解してもらえます」
「なるほど、なるほど」
「また、国民には、私がベイリー男爵家の養女……すなわち、王家から降嫁した姫君たちの孫や娘として迎えたと、発表されています。
なので、私を王女扱いしても、問題ないようですね。
王女が巡業に来てくれれば、警護役の兵士たちも喜ぶと、おじ上が言っていましたし」
「はてはて、なぜ兵士たちが喜ぶのですか?」
「にゃ、現在の王家には王子しかいないからです。ユーインによると、騎士は王女や姫を守ることに憧れるそうです。
『青の英雄物語』に代表される、騎士道の影響を受けているようですね」
「なるほど、なるほど。そういう視点もあるのですか」
「にゃ……兄上は、王都の貴族のことに通じていても、世俗の国民のことを知らないんですね。
それから、王都以外の地方にも、視線を向けるべきだと思います。
王族として、もっと国や、国民のことを知ったほうがいいですよ。王位継承順位四位が、泣きます」
銀色の瞳で、兄を見据える猫娘。白猫しっぽを不機嫌そうに揺らす。
白や銀を多く持つ人物は、白色の世界の理の影響を受けやすい。
物事を冷静に、深く鋭く見通す思考回路が特徴だ。
口達者な子猫に、正論を突き付けられる猫青年。しっぽがうなだれ、何も言えずに、うつむく。
両親や祖父に説教され、崩れかけた兄の自信。兄が誰よりも可愛がっている妹によって、トドメをさされてしまった。
立ち直るのは、しばらく無理である。
●作家の独り言
子猫ちゃんって、生まれついてのお姫様なのよね。アンディ君も、王子様だし。
二人から、ほうきの使い方を知らないって言われたときは、本当に驚いたわよ。
子猫ちゃんがおじいさんと二人暮らしをしている、王都外れのお屋敷。掃除をどうしているのか、きいてみたことあるの。
昼間、男爵家の使用人が、掃除や洗濯のためにやってくるんですって。
……それ、二人暮らしって言わないって、思うんだけどね。
子猫ちゃんやアンディ君の手前、黙っておいたわよ。お姫様や王子様の思考回路って、一般人と違うみたいね。
そうそう、ユーイン君やノア君の料理の上手さは、異常よ。
二人とも男の子なのに、主食から茶菓子まで、一通り作れるのよね。
あたしより美味しい食事って、あり得ないわよ!
当時のあたしは、料理歴百四十年だったのに……あれはショックだったわ。