10話 傾国の美女の魅了クッキー
兄の自信を打ち砕かれた、猫青年。白猫しっぽが、うなだれたまま。祖父が妹に諭す声は聞こえない。
「クリス、やりすぎじゃ」
「にゃ? 事実を伝えただけです」
「ふむ、悪気は無いのか。仕方ないのう」
さすがに兄が哀れに思えたのか、妹は椅子から降りて、兄の隣へ。
子猫は小さな手で、一枚のクッキーを差し出す。
「兄上、兄上、クッキー食べます?」
「はいはい? クッキーですか? せっかくですが、遠慮しておきます。今はそんな気分じゃありません」
「にゃ……カレン嬢が作ったクッキーです」
「はいはい、食べます! 食べます! クリスのクッキーと違って、大変美味しいらしいですからね♪」
兄の緋色の瞳に、情熱的な光が戻ってきた。傾国の美女の名前は絶大。
余計な一言のせいで、妹の機嫌が悪くなっていることに気づかない。
かっさらうように、クッキーを手にする。祖父が慌てた。
「これ、待つのじゃ!」
「にゃ? おじいさまが薬草茶を準備したのでしょう?」
「クッキーにかけられた、魔法の解除が終わっておらん!」
「にゃ!?」
遅かった。兄思いの妹の行動が、仇になる。
兄は嬉しそうにクッキーをほおばり、あっという間に食べつくした。
猫耳を伏せながら、恐る恐る尋ねる妹。
「……兄上、感想は?」
「そうですね、そうですね、とても甘いですね。さっくりとしていて、口当たりも良いです」
目を閉じて、余韻を楽しむ猫青年。妹の質問に、しっかりと答える。
「気分はいかがですか?」
「はいはい、気分がとても高揚してきて、陽気で楽しい気分になります」
「にゃ……楽しんですか?」
「はいはい、このまま、何も考えずに過ごしたいですね。何もかも忘れて、眠りたい心境です」
「兄上、寝るなら、部屋へ移動してください。じいやたちに迷惑をかけないでください」
「はいはい、そうですね。では、先に部屋へ……」
妹の指摘に、軽く笑いつつ兄は目を開ける。妹を見たとたんに、目つきが変化した。
椅子から降りると床に片膝をつき、妹の右手を両手で握る。
まるで、騎士が姫に誓いを立てるような絵姿に。
「いやいや、クリス、君はこんなに美しい妹でしたか?
かわいらしい妹と思っていましたが、今は愛おしくてたまりません」
「兄上?」
「いえいえ、兄上などと呼ばず、アンディと呼んでください。
しかし、君は本当に美しくて愛おしい。今すぐにでも、私の妻になって欲しいくらいです」
「にゃ!? 兄上、目を覚ましてください。私たちは実の兄妹です、そんなことできるわけありません!」
「いえいえ、愛し合う私たちの前には、兄妹の壁など存在しませんよ。
そもそも、君は養女という建前があるのですから、何も問題はありません」
「にゃー! 父上、父上、助けてください!」
兄の異変に、しっぽを膨らませ、後ずさりしようとした猫娘。兄に手を引っ張られ、バランスを崩した。抱擁され、逃げ出せなくなる。
子猫は猫耳を伏せ、にゃーにゃー叫びながら、頼りになる父に助けを求めた。
無愛想な父は、力持つ言葉を唱えながら、椅子から立ち上がった。猫青年の足元に、白い光の輪が描かれる。
走る幾何学模様、成立する魔法陣。砕け散った魔法陣は、白い粒子になる。
粒子は集まり、一本の鎖に変化した。猫青年も得意な、暴れる患者を捕縛する、中級治癒魔法。
父の意思通りに動く、魔法の鎖。兄の体に巻き付き、動きを阻害する。妹から、強制的に引き離した。
「ちょっと、ちょっと、父上、何をするのですか! 邪魔をしないでください!」
鎖に自由を奪われた猫青年。父に悪態をつく。
無愛想な父は、息子を無視して、愛娘を抱き上げる。妻に託すと、息子の前に戻ってきた。
父から、重厚な声が発せられた。金の瞳で、成長期の息子を見下ろす。
「邪魔だと?」
偉丈夫の裁判官は、ベイリー男爵家当主の父から金髪を。先代国王の妹である母から、王家の金の瞳と王位継承権を受け継いだ。
ふわふわと広がる金髪は、さながら獅子のたてがみ。睨む金の瞳は、百獣の王のような輝きだ。
生まれついての王者は、眼力だけで息子を威圧する。
「アンディ、覚悟はできているな?」
「いやいや、父上、言葉のあやというか。その……まず話し合いを……」
「話し合い以前の問題だ。腐った根性を、叩き直す!」
獅子は、我が子を千尋の谷に落とすという。
父にとって、娘はかわいがる存在。息子は、鍛える存在。
猫から生まれた獅子は、拳を握り、右手を振り上げた。
*****
白色の粒子が、食堂の一角に広がる。猫娘が敷いた、強力な閉鎖結界。
古参の使用人にも聞かせたくない、王族会議が開かれていた。
「兄上、どうしてカレン嬢は、このクッキーを持たせてくれたのですか?」
「家族と食べると良いと言って、渡してくれたんですよ。
うちは母上やおばあさまをはじめ、王族の集まりですからね。王宮のエドの家族に献上する前に、王族の意見を聞きたいって言っていました」
「にゃ……このクッキーで、王族を言いなりにするつもりだったんですかね」
「ふむ。宮廷魔法医師も、甘く見られたもんじゃな」
猫兄妹と祖父の会話の最中、無愛想な父は、黙々とクッキーを食べる。
祖母と母も、男爵家伝統の薬草茶を飲みながら、優雅にクッキーを味わっていた。
子猫も、母の隣に座り、ぬるくなった薬草茶に手を伸ばす。猫舌には、ちょうどいい。
クッキーは祖父母と両親が、それぞれ三枚づつ。育ち盛りの子猫は、五枚食べた。
さきほど、人格が変貌した兄には、無しである。
「あらあら、味は本当においしいわね♪ サクサクしていて、初めての歯ごたえですね」
「そうですね。クリス、何が使われていましたか?」
「にゃ、隠し味は蜂蜜のようです。食感の原因は、アーモンドを砕いた、アーモンドパウダーが薄力粉に混ぜられているからかと」
「アーモンドパウダーですか? 聞いたことがない食材ですね」
「にゃ……我が国では、薬の一つです。食材として、一般に出回ることは少ないかと。
その他の原料自体は、普通のクッキーと同じで、王国内で手に入るものばかりでした。
ただ、かけられている魔法の量が尋常では、ありません。中毒性の正体は、赤色魔法でしょうね」
「あらあら、大変な代物ですね」
「母上、心配はご無用です。おじいさまが分析結果を元に、魔法をすべて解除してくれました。
それに、念のため、巫女姫の薬草茶と一緒に摂取すれば、普通のクッキーと変わりません」
猫青年を狂わしたクッキーも、フォーサイス王国の最高級の薬草茶と、上級魔法医師たちの前では無害と化す。
五百年前、祈りの巫女姫が戦ったのは、精神感応魔法を得意とする、人型の魔物たち。
治癒魔法に長けた巫女姫は、戦の最中に対抗策を作りだした。子孫のベイリー家が、対抗策を受け継いでいる。
「あらあら、クリス、クッキーが残っていますよ」
「にゃ、これはユーインと一緒に食べます。巫女姫の薬草茶もあれば、問題ありません。
材料は判明していますし、ユーインなら味見をもとに、もっと美味しく改良してくれるはずです」
「あらあら、ユーインが作ってくれるのですね。完成品は、献上するように伝えてください♪」
「クリス。うちの料理長に、作り方を伝授するのも忘れないようにと。いいですね?」
「にゃ、了解しました」
猫娘、残り二枚のクッキーは、近衛兵の剣士にあげる予定だ。ワード侯爵家三男坊の幼馴染は、料理男子。
子猫経由で、さらりと命令を出す母と祖母。王女たちにとって、近衛兵は身近な家臣だ。命令するのは、当たり前。
もちろん、近衛兵の剣士に拒否権はない。
クッキーを食べ終えた祖父は、力持つ言葉を唱えた。首元の銀色のペンダントが、ほのかな輝きを帯びる。
収納魔法が刻まれた魔道具が発動した。ペンダントから虹色の粒子が湧き出し、下敷き付きの紙とペンを形成する。
祖父は、魔法医師の仕事道具の一つを呼び出した。ペンを右手に持ち、紙に色々と書き付けていく。
先ほど調べた、傾国の美女のクッキーの分析結果だ。
「うーむ。これは、相当の魔法使いじゃのう。幾重にも、魔法がかけられておったわ。
まことに残念じゃのう。これほどの才能を、間違った方向に使うとは。
正しき方向に使えば、優秀な魔法医師になれるじゃろうに」
顎を撫でながら呟く、筆頭宮廷魔法医師。ベイリー男爵家の当主は、傾国の美女の才能を惜しむ。
祖父のつぶやきを聞いた、猫青年。祖父の手元に視線を落としかけた。
「おじいさま、おじいさま、カレン嬢のクッキーに問題があるのですか?」
「これ、勝手に見るでない。そうでなくても、アンディは、見ない方が良いからのう」
分析結果を孫から隠す、祖父。視線を合わせ、重苦しい口調で話しかける。
父の拳と、薬草茶で正気に戻った猫青年。椅子に座っているが、念のため父の魔法の鎖に捕縛され、自由は制限されていた。
「アンディは、クッキーを作ったお嬢さんを、好いておるんじゃろ?
恋の病は、判断を狂わせるからのう。わしは、法の番人として、お前さんに見せるのは反対じゃ」
「いやいや、待ってください! それほどの大問題の結果なのですか?」
「うむ。お前さんが、我が国を滅ぼす敵になるやもしれん。敵になるなら、わしは法の番人として、全力で排除するぞ。
我が一族と戦う覚悟がないなら、今すぐ目を閉じよ。わしや、家族を、人殺しにするでない」
祖父の言葉に、しっぽを立てて硬直する孫。生唾を飲み込んだ。
猫青年が、国を滅ぼす敵になるかもしれない。それほどの真実が、今、祖父の手元にある。
しばらく沈黙し、乾いた声を絞り出す猫青年。
「……もしも、もしも、見たいといったら?」
「ふむ。捕縛魔法をかけたまま、見せてやろう。納得いくまで、自由に見るがよい」
「あの、あの、読んだ後は?」
「捕縛魔法を解くかどうかは、お前さんの行動次第じゃ」
祖父の言葉に悩む、猫青年。そのまま三十分過ぎる。
意を決して、祖父にクッキーの分析結果が書かれた紙を見せてもらった。
「嘘です、嘘です。カレン嬢がこんな事をするはず、ありません!」
「目を反らすでない、真実じゃ。分析結果は覆らん」
祖父に叱咤され、猫青年は立ち尽くす。祖父から渡された紙には、様々な禁術とされる魔法が書かれていた。
思いと慮りの感情を司る、黄色の世界の理。その力を利用した、黄色の魔法各種。
魔法の感知をさせないためなのか、認識力を著しく低下させるもの。
公爵令嬢もかけられた、思考力を停止させるもの。
術者の言うことだけを聞くように、思考と行動を制限するもの。
楽しみと喜びの感情を司る、赤色の世界の理。その力を利用した、赤色魔法も読み取れる。
純粋に高揚感を高め、陽気で楽しい気分にさせるもの。おそらく、中毒性の正体。
一般的に魅力魔法で知られる、興味を持つ存在に、狂うほどの愛情を持つように、誘導するもの。
傾国の美女らしい、凶悪な魔法のオンパレードである。
様々な魔法がかけられた食物を摂取した末路が、先ほどの猫青年。
認識力と思考力がなくなれば、猫青年のように眠くなるはずだ。鈍くなった思考回路。
術者の言うことを聞くように制限がかけられた。
傾国の美女に一つだけ誤算があったとすれば、現時点で兄が傾国の美女よりも、妹に心を砕いていたこと。
興味を持つ存在に、狂うほどの愛情が加われば、妹を見る目つきが変化するのも、納得できる。
「ですが、ですが、この赤色と黄色の精神感応魔法は、禁術なのでは? 知識がないと無理ですよ。
ほら、カレン嬢が使えるはずありません、何かの間違いです」
「にゃ……兄上、私はそこに載っている魔法を、すべて使えますよ。赤色と黄色の他にも、五色の精神感応系は全部です」
「いやいや、五色など、どうやってですか? それに、おじいさまくらいの魔力がなければ、魔法陣を描けませんよね?」
「私の場合は、疑似原初の結界とも言うべき虹色結界内で、五色の世界の理をすべて操れます。
特異点の魔力をもってすれば、なにも問題ありません。お疑いでしたら、今すぐ再現して見せますが」
しっぽを激しく動かす、猫青年。子猫は、冷たい金属のような声で答えた。
兄のすがるような願いは、妹の一言で粉砕される。
一般人には、禁術とされる、精神感応魔法。筆頭宮廷魔法医師くらいの高い魔力を持たなければ、使えない。
だが、猫娘は使えるという。生まれつき魔力の高い、白の特異点だから。
傾国の美女も、赤の特異点らしい。条件は同じである。
「ふむ、そうじゃったか! 原初の魔法陣じゃ! あれは、すべての魔法陣の原点でもある」
「にゃ! 原初の魔法陣を操れるなら、どんな魔法も使えるでしょうね」
猫娘の言葉に、祖父がひらめいた。珍しく声を張り上げる。
聖獣が使用するといわれる、原初の魔法陣。円の中に五芒星が走る、魔法陣。
原初の魔法陣を元に、世界中の魔法陣は発展し、多種多様な魔法を生み出す。
逆に言えば、すべての魔法陣を辿れば、原初の魔法陣に行きついた。
五百年前、祈りの巫女姫が使った、治癒魔法も。赤い魔女が使った、魅力魔法も。
●作家の独り言
カレンちゃんの失敗は、子猫ちゃんの家族を甘く見たことかしら。
たぶん、自分よりも優れた魔法使いは居ないって、思ってたんでしょうね。
赤色と黄色魔法しか使えない、カレンちゃん。
でもね、五色の全種類が使える、子猫ちゃんやおじいさんの方が、腕利きの魔法使いなのよ。
エルフのあたし?
黄色魔法だけなら、子猫ちゃんやカレンちゃんと同等かしら。
五色の魔法全部なら、子猫ちゃんの方が秀でてると思うわ。




