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短編妖怪モノ

化ケ狐メモリアル

作者: 月みくろ兎

陽光の下、小綺麗な社がひとつ。決して大きくはないが、よく手入れされた境内。そよ風に踊る木々の音が心地良い、いつもと変わらぬワシの住処。

「――――――――不快じゃ。気に食わぬ、気に入らぬ、とにもかくにも苛立たしい」

縁側に座し、ぶんぶんと脚と手、黒い長髪を振るってもこの不快感は消えぬ。巫女の装束に身を包み、狐の耳と尾を震わせるこの姿を見られてはならぬのじゃが、今の世にワシが見える者などそうは居ない。

要するにいらぬ心配なのじゃが、ワシもおなごじゃ。化け狐と言えども女らしさを無くしてはおらぬ。ここは抑えるべきじゃろうて。

「ふーっ、きぃーっ、ぐぬぬっ、理由が分からぬのがもっとも不満じゃっ…………あぁ、そうじゃった。今日は…………」

怒りが冷め、変わりに虚脱感が心を満たす。紅い鳥居、紅い色を見て得心が行った。今日はワシにとって忘れられぬ日。

決して忘れてはならぬ、忘れる事すら出来ぬ、悲しみの記憶を刻んだ日。痛む胸に右手を当て、紅い鳥居から視線を逸らす。左手は膝の上で握りこぶしとなって震えていたが、うつむいても涙が零れぬのはワシが成長した証じゃろうか?

「…………否。こんなもの、成長などとは言えぬ。愚かしいものじゃ。ワシは何年、何百年経とうと、まだ……引きずっておる……っ」

痛む。胸の奥が締め付けられ、引き裂けそうじゃった。柱に身を預けながらも、あの時の事が我が身を震わせる。否、ワシは化け物、化け狐じゃと言うのに何を怖れる。

「ふ、ふんっ。そうじゃな、ここは過去に思いを馳せるのも悪くなかろう。感傷に浸るのも一興じゃ、忘却の果てにもうろくしては形無しじゃろうて」

形無しとは言うものの、耳と尾っぽをシュンと下げた今のワシを見れば、最早形無し。ただの小娘と言われても仕方がなかろう。そう、ただの小娘。ただの女の子。ワシは化け狐、元はただの小娘じゃった。

否、あの時はこのような堅苦しい言葉使いなどしてはおらんかったか?こんこんこほんっ、うん、やはりこちらが楽で――――い、いえ、たまには良いものです。


こんっ、そう、私はただの小娘だった。遠い昔、何百もの時の前、私は一人の娘だった。生まれは地方の農家。農家とは言ってもその地で最も栄えた、豪農の家に生をうけたのです。

家である大きなお屋敷には何人もの奉公人がおり、財力や権力、そう言ったものは充分に満ち足りておりました。そう、人望と言ったもの以外は。

いえ、私が何かをした訳ではないのです。こう言ってはなんですが、私の父は人格者とは程遠い、血も涙もない冷たいお人でした。激情的で奉公人や他所の農家を殴る蹴るは当たり前、そんな人間だった。

けれども私の母は私を生んですぐに病で亡くなり、父にとっては私は唯一残された一人娘。その扱いは正に宝物。私の居る前では常に静かな顔を見せる程、私は愛されていた。

だからこそ幼い頃は私も知らなかった。父がそのような酷い人だなんて、思いもよらなかった。しかし成長して行く内に、いつまでも知らないままでは居られなかった。

『狐憑きの娘』

そう、私は呼ばれた。まだ年端も行かない頃、ちょっとした冒険心でお屋敷を抜け出した時、近くの農家の子であろう同い年くらいの子供達からそう言われた。

石を投げつけられて、その者達より何倍も綺麗な着物を汚されて、私を探しに来た奉公人に見つけられるまで私は泣いていたのだ。どうして?どうして?どうして?と、遊びたくて近づいたのに何故こんな事になったのかわからなくて、痛くて悲しくて、泣き続けていた。

幸いな事にかすり傷程度で済んだのだが、父は医者まで呼んで高い塗り薬まで買う始末。しかし私が本当の父を知らないままで居られたのは、そこまで。その日の夜、私は知ったのだ。人の怖さを知った日に、たった一人の肉親の恐ろしい本性を。

泣き疲れた私が寝ようとしていた時、子供の悲鳴を聞いた。聞こえた気がした。怖くなった私が父を探したのも、恐る恐る悲鳴が聞こえる暗い一室を覗き見してしまったのも、今となっては良かったと思う。

あまり思い出したくはないが、アザだらけになりながら泣き叫ぶ何人もの子と親、それを笑いながら睨む父とゆう構図は、幼い私には辛い現実だった。次の日、奉公人の話を盗み聞きしてその農家は他所の地に追いやられたと分かった。

そうして私は理解する。父は人でありながら人でなし、狐に憑かれ他所の家に害をなす、狐憑きと呼ばれても仕方のない冷酷な者なのだと。

狐憑き。それは狐を使って他所の家の財を奪い、災いをもたらす家。その家の者とゆうだけで嫁入りも出来ぬような、妬みに満ちた言葉。

狐憑きの娘とはそう言う意味。しかも私の場合は妬みではなく、父に対する恨みからそう呼ばれたのだ。だからこそ仕方のない事ではあるのだが、幼い私は純粋だった。愚かしい程に純粋だったのだ。父とは違う、父の分まで他人に優しくするのだと、そう誓っていた。その時は。

しかし現実はそう上手く行かぬ。父にねだって外へ出るようになって、田畑に居る者達に優しい声をかけ、手伝うと言って駆け回ったのだが、返事をしてくれる者はいない。逞しい男の人、優しそうな女の人、子供や爺婆と言った歳の者達まで、誰一人答えてはくれなかった。

もちろん父と一緒の時は恐れ多いと言われ遠慮されてはいたが、私一人で抜け出した時はまるで本当に恐れているような目で見られたのだ。まるで化け物を見るような目で、悲鳴を呑み込む者までいたと、幼い故に感じ取った。

狐憑きの娘。その言葉が頭に浮かんだが、暫くはそんな幼い故の愚かな優しさを振り撒いたものだ。いつもニコニコした笑顔で、少しでも伝われば良いと願って。

だが着飾った娘がそんな事をして何になる?父の娘である私がそんな事をしてどんな風に見られる?それはこれまでの出来事でおおよその見当はつくであろう。

暫くは笑顔を絶やさなかった。そう、暫くはよく外に出ていたものだが、少しずつその頻度も減り、屋敷にこもるようになる。時が経ち年頃の娘になった私は、もう笑う事も外の人間とかかわる事すら止めていたのだ。

自分で言うのもなんだが私は絶世の美女と呼ばれていた。日に当たらない故に白い肌、母に似た整った顔に細い体つき。それに儚げな表情が合わさりこの世の者ではないような美しさだと、奉公人達からもよく噂されたものだ。

狐憑き。化け物。皮肉な事に私はどこに居ようと何をしようと、この世の人間とは見て貰えない。普通の人間として接してくれる者など、誰一人いなかった。

いえ、一人は居た。一人だけ、幼い頃から私を世話してくれた奉公人が居た。同い年の男の子、今や青年となった男の人。年頃の私がいつも優しく接してくれるその者に特別な感情を抱くのは、ごくごく自然な流れであっただろう。その者の目は、その者だけは私を一人の人として見てくれた。それが何よりも嬉しく、惹かれたのだと思う。

父の性格は変わらなかったが、その者は耐えていた。私が気に入っているのもあり、気に入られてもいたようだ。だから私がその者を婿に取れとある日突然父に言われても、はいそうですかと頷いたものだ。どうせ狐憑きと呼ばれる私なのだから、嫁に行けぬ身ではそうするしかない。それに嫌な男ではないのだから、断る理由もなかった。


しかしな、現実とは本当に上手く行かぬのじゃ。我が事ながらあまりに酷いと笑いたくなる。まあよい、ここで止まってはあまりに……………酷い………。


こんこんっ、こほんっ。さて、祝言の日を翌日に控えた夜にそれは起きてしまった。あの忌まわしき出来事が、まだ希望のある私の身に降りかかったのだ。

その夜、私は父と一緒だった。誰より先に私の白無垢姿を見たいと言うから、私はしぶしぶ従ったのだ。着付けは女中にしてもらったが、その時になれば父と二人きり。正直に言って居心地は悪かったが、無言の父の目に涙が浮かんだ瞬間、私も何も思わずに居られない。

すまなかった、自分のせいで辛い思いをさせてすまなかった。そんな言葉が父の口からもれた時、私は愕然としたものだ。しかもその後に続いて今後は周りの者達に優しくすると、本当かは分からずとも言い切ってしまう。

ああ、目尻からジワリと溢れ出る物を止められない。悪い父ですまないと何度も何度も謝る父に、もう良いと伝えようとした時、何か聞こえた気がした。悲鳴、そう、着付けを手伝ってくれた女中の声だ。

父は何を思ったのか私を押し入れに押し込む。何があっても開けるな、何を聴いても出てくるなと、鬼気迫る表情で言われた私は従うしかなかった。あれだけ見たがっていた白無垢も、無理矢理押し入れの中。私は息を殺し、いつもの無表情になり心を殺す。あの苛烈な父ならば、何があっても大丈夫。押し入れの闇の中でそう思い、そう願っていた。

しかし聴こえて来たのは暴れるような足音と父の怒号。それに続いて何かが裂けるような、濡れた音。私は外に出たい衝動にかられたのだが、それはできなかった。

わずかにカラリと開く引き戸。ニュッと入って来たのは黒い頭巾に包まれた男の頭。終わったと思った、私も終わるのだと思った、先程まで話していた父がどうなったのか、予想がつかぬ筈はないのだから……。

しかしそうはならなかった。その男は私を見つめた後、何故か押し入れを閉めてこう言った。『ここには何もない、他を探すんじゃ』と、思いもよらぬ言葉を。

そのお蔭で足音は遠ざかっても、まだ安心する事は出来ない。だが恐怖で動けなくなった私は泣くことも忘れ、押し入れの中で震える事しか出来なかった。頭に浮かんだのはあの人の無事。せめて祝言をあげる筈だったあの者だけでもと、祈るだけ。

それからいくら待っただろう?震えもおさまり、もう希望を失いかけた私はのそのそと押し入れから出る。見えたのは現実、赤い、紅い、もはや二度と動かなくなった父でした。

そう、そうだ。いくら見つめてもそれは変わらない。父の亡骸の傍らに落ちていた短刀を握り、私は屋敷を歩き回る。あの人を探して、奉公人達の死で白無垢をジワジワと赤く染めながらも私は止まらない。死に場所にはまだ到らない、あの人はまだ見つからないのだから。

どこにも居ない。どこにも居てくれない。表に出ようと玄関に向かって、やっと見つけた。無事なあの人、外から来たあの人、何故か提灯を落としたあの人、どうして?どうしてそんな目で私を見るの?どうして、どうして、どうして??

『どうして生きている』

なんて言ってしまうのですか?ああ、得心がいった。戸締まりを任され門の鍵を持っているのは誰か、こんな夜中に一人で戻ったのは何故か、その体に染み付いた臭いの理由も、女である私の純潔を奪おうとする本性も、何もかもを理解する。

この人だ。この者が手引きして賊を引き入れ、私の父や奉公人を、私の家を終わらせたのだ。気づいたところでもう遅い、何もかも手遅れ。

途端に飛び散る赤。歪むあの者の表情。あの者が離れても、短刀はどうしようもないほど深々と突き刺さっている。


ケタケタ笑う私の喉に。


白無垢が赤に染まる。あの者の顔が恐怖に染まる。あの者が逃げて行っても私のケタケタ笑いは止まらない。ペタリと尻をつけて座る私の体を、ゴポゴポと濡らして行く終わりの色。最期に覚えているのはあの者の『化け物』と言う言葉。最後の最期で覚えた、人に対する絶望だけだった。


これで終わりじゃ。人である私は人に絶望して死んでいった。救いも希望もあったものではない、最初から最後まで私の人生は幸せとは無縁の物じゃった。間違いなく終わった、そう、人の生はこの時に終わったのじゃな。なのに何故私は…………あ、こほんっ。


こんっ、何故か私は目覚めました。真っ赤な世界から、真っ暗な世界に放り出されたのだ。そこはぼうぼうと草花が生い茂った場所。大きなあばら家の、辛うじて形の残っていた玄関だった。

混乱していたが、玄関と分かるのは当然の事。そう、ここだ。私はここで終わった、やっと終わった筈だったのに……。

訳が分からないまま外に出て、水の流れのお蔭かまだ綺麗だった池を見つめて私は立ち止まる。容姿はあの頃のまま、身に纏うのは死に装束。そして何よりも目を引いたのは、頭に生えた二つの三角の何か。

フサフサしている茶色より明るい色の物。触ってみるとムズムズして、こんっ!と口からもれた声に合わせて何故だか尻までくすぐったい。手を伸ばせば同じ感触。耳より敏感でびくりとしてしまったが、恐る恐る池に尻を向けて確認してみる。

頭の耳を見たところでもしやと思ったが、やはりと言うかなんと言うか、狐の尾っぽだった。紛れもなく本物の、狐の特徴が今の私にはついている。

狐。狐憑き。その言葉を思い浮かべ、私は化けてしまったのだと理解するしかなかった。狐憑きと呼ばれていたからこうなってしまったのか、もしや本当に狐に憑かれていたのか、あれこれ考えたところでこの耳と尾は消えない。

なにより私自身が消えてくれない事に笑いたくなった。そうだ、笑っても良い。もはや私は人ではない化け物なのだから、自由に笑っても良いではないか。人の世の事など考えず、私は笑った。

月夜の下、初めてなくらい笑いすぎて『こんこんっこほんっ』なんて咳き込みながらも、笑って笑って泣き笑った。楽しくて悲しくて寂しくて最後に泣いて泣いて、あばら家の中で疲れて眠りにつく。

次の日の夜、散々泣いて気が楽になった私はどうしても外が見たくなった。幼い頃に見た田畑を、この山を、思いっきり駆け回りたい。年頃とは言え狐としては化けたばかり、そう思って尾をパタパタさせるのも致し方がない事。

深夜、獣しか起きていない頃を待って私はそれを実行にうつす。仕方がない、仕方がないのだから思いっきり、野山や田畑、民家の近くまで駆け回った。体が軽くて、鳥のように跳ね回って、私は初めて風を切る楽しみを覚えた。

しかしあばら家に戻り眠りにつく直前、体を丸めながら少しばかり後悔する。何故かと言えば、何かと言えば、散歩している間に見た物が気になっていたのだ。

黒くて嫌な化け物。化け物と言うのは私も同じではあるのだが、あれは違う。言葉をかけても通じなかったし、民家の戸にへばり付いていた物など怒りのあまりこの手で切り裂いてしまった。

いえ、黒い色のせいで嫌な事を連想してしまいついつい手が出たと言いますか、要するに私のせいでは……こんっ、とにかく私はあれを葬ってしまったのだ。私の身は何も変わりなくとも、その家に何か災いが起きなければ良いが、そんな心配をしながら私は眠る。

その次の日も、その次の次の日も、黒い物を見かけては耐えきれずに襲いかかる。田畑を駆け回るのも日課となり、村人が襲われていたから仕方がなく目につくところで化け物退治をする。

そうこうしている内に何故だか夜に目を覚ますと、あばら家の前に餅や花と言った物が置かれている事があった。もったいないからペロリと餅を平らげては、髪に花をさして日課となった化け物退治に赴く。

いや、よく分からぬ事はまだあった。深夜だと言うのに村の爺婆、それに働き手の筈の男や女が家の前に立ち、手を合わせて何やら呟いている。私は見つからぬよう隠れていたのだが、子供と言うのは敏感なもの。指をさされて逃げようと思ったのだが、『お狐様』の言葉に身がすくんだ。狐憑き、化け物、私は、いつまで経っても人に望まれぬ化け物。

ゾッとした。化け狐だと言うのに、体が強張った。そして逃げようと踵を返しかけた時、その家の爺様がその子娘を叱っているのが耳に届く。狐になったせいで確りと聞こえてしまったのだ。

『指を指すな。あの娘さんは神様だ。儂らはいくら感謝しても足りない。あんなに酷い仕打ちをして、それでも守ってくれているんだぞ?あの娘さんには、本当にすまない事をしたってのに』

ひどく訛っていたがその爺様はそんな意味の事を言いながら、私に手を合わせて泣いていた。見ればその子娘の両親も泣き崩れていて、私は意味も分からず真似して手を合わせた子と同じ心境だっただろう。

いや待て、あの子娘には見覚えがある。それどころかあの両親も、爺さまにまで同じ感覚がした。そうだ、あの子供がどうしてここに居る?あの優しそうな母親の後ろに隠れていた年端も行かぬ小さな娘。私が人であった頃、幼い頃に何度も話しかけ微笑みかけて応えてくれなかった人間達が、どうして変わらずにここに居る?

ああ、そうか。あの娘さん、そう言った爺さまは過去に見た逞しい男の人。逞しい男親はその息子で、優しそうな女親はあの時見た子娘か。ふふっ、世の中とは分からぬものだ。私だけの時が止まり、あんなに冷たくあしらわれたのに今や神さま扱いとは。

気づいた時には駆け出していた。そしてあばら家に逃げ込み、丸まって震えていた。見られたくなかったのだ、神様と呼ばれているのに泣き顔を見せる事が、恥ずかしくて堪らなかった。けれど嬉しくて、人から存在する事を望まれたのが初めてで、堪らなく嬉しくて泣くのが止まらない。

ああ、私がしていた事は無駄ではなかったんだ。そう思うと止めどなく涙が溢れて来て、こんこんと鳴きながら私は喜びの涙で笑顔を濡らした。

それからいくばくかの月日が流れる。毎晩何匹もの化け物を狩り、毎晩何度も拝まれ、その村の化け物を狩り尽くした頃にはもうあばら家は無くなっていた。かわりに建てられたのは社。村の者達が建ててくれた神聖な場所。崇め奉られた化け狐は、私はその社に住んでいたのだ。

社まで建てて祀られては逃げる訳には行かない。その土地の守り神として、私は自らも知らぬ内に化け物から神と成ってしまっていた。嫌ではなかったし、みなも喜んでくれていた。しかしそのかわり神となった私が視える者は居なくなった。まがいなりにも神。人の身で感じる事は出来ても、私を視れる程の者は居ない。

夜な夜な散歩がてら村の見回りに出ても、直接私を拝む者は居ない。社の方向を拝んでも、私はそこに居ないのだ。お供え物や信仰心を貰っても、寂しさは消えない。そんな独りぼっちの夜が続いた頃、社の戸を叩く者が居た。こんな夜に迷惑な者が居たものだ。変な物を呼び込んでは面倒だと、私は戸の前に立つ。

「すまぬが雨宿りさせてくれ。神さまの社に何を馬鹿な事と思うじゃろうけど、わしにはここしか行き場がないんじゃ」

「そう、雨にも気づけない程に私は参っていたのですね。どうぞ、気を引き閉める意味で歓迎します。泣きそうな顔の男の人を返すのも可哀想ですし他意はありませぬ、神さまですから」

「有りがてえ。本当に有りがてえ神さまじゃ。少し濡らしちまうかもしれねえ、本当にすまねえ」

「ふふっ。謝ってばかりでおかしな人だこと。褒めても何も出しませぬよ。私はただの狐――――えっ、今の声が聴こえたの?私の言葉、届いているの?」

がらがらと社に入ってきた坊主姿の男。今にも泣きそうな男。神仏に関係のある者ならもしかしてと思った、そう期待した。だが男は部屋の端にごろりと横になり、があがあと大きないびきまでかきはじめる。ああ、これは無い。こんな男が私の声を聴くなどあり得ない。

「こんこんっそうですね、何かおかしな事をされては困りますから今宵はここに居りましょう。他所の神は知りませんが、私は見も知らぬ人間を信じられる程出来た神ではないのです。優しい人々に崇められてはいますけれど、こんな風に独りであなたに囁いてしまうくらい…………いつも独り…………」

はぁ、と大きなため息をもらして私は横になり丸まった。相変わらず反応のない男の反対側、もっとも離れた位置で瞳を閉じる。男のいびきは止んでおり、雨音が静かに鳴り響く夜。ひさしぶりに悲しい気分を忘れて、私は坊主の男と同じ社で眠ったのだ。

それっきり、朝方には男は姿を消していた。安心した私は再び夜まで寝ようとして、ふと泣きそうになって何とか堪える。人の身であった頃は泣く事などなかった。なのに人ではなくなったとたんに人らしさを取り戻すのだから、とんだ笑い話ではないか。

そう考え無理矢理に眠り、夜に起きた時には人が居た。一瞬だけ驚いたけれど………………いえ、あの坊主姿の男の人がまた居りました。変わらぬ姿で、どこから持ってきたのか握り飯まで食らいながら。

「まさか盗んで来たのですか?つまり盗人?あなたは盗人なの?ああ、それは許せませぬ。私は神となってもそれだけは許せない。どうしてくれようか、久しぶりにこの手が疼きまする」

「やはり働いた後の飯は格別じゃ!手伝ったと言ってもわしはよそ者。なのに飯を食わせてくれるとはなんと優しごほっ!ごほっごふっ!」

「あっ、ついつい勘違いして威圧してしまいました。ごめんなさい。えっと、あなたの水筒はこれですね――――――っ!?」

慌てた勢いで竹の水筒を取ろうとして、私は手を引っ込めた。やろうと思えばこれを手渡すのは造作もない。だがそんな事今は関係ないのだ。男の手が私の指先に触れた気がした。それが何より胸をざわつかせる、期待と言う希望で。

「ぶはあっ、死ぬかと思ったわ。いんや、まだ早い。わしはまだまだ死にはせん、死ぬには早すぎるんじゃ。さて、飯も食ったし寝るとするか」

「気のせい?ですよね。そうですよ、死なれては困ります。あなたが居ないと私はまた独り――――――いっいえ、何を言っているんでしょう。神さまが何をそんな、弱気になっている訳ではなくってただただ社で亡くなられては困ると言うだけで」

「忘れるとこじゃった!悪いがまた明日もよろしく頼むわ。本当にすまねえ。おやすみな、神さん」

「か、かみさん!?ああ、神の方ですね。妻扱いされたのかと一瞬胸が高鳴――――こ、こんっ。はい、こちらこそよろしくお願いします。おやすみなさい…………知らないお人…………」

話が繋がったように思えるのは偶然だろうか。いや、偶然だとしか思えない。今の私は神なのだから、そう易々と声が聴こえては困る だろう。しかし独りぼっちになっていた私からすれば、偶然だとしても嬉しかった。

その日の夜は少しだけ社の真ん中に寄って寝る。男がこちらに寄って来ていたし、私だけが端で寝るのは何となく主らしくないと思っての事。そう、それだけの事だ。じっと男の背中を見てしまうのも監視する為。それだけ、だから…………居なくなっても大丈夫。

なのに男は居なくならない。何日経とうと居てくれた。毎晩一緒の社で寝て、毎晩一緒に過ごす。綺麗な花を見つけたのだとか獣を捕ったのだとか独り言を話し合いながら、私に供えた後に男が火を通した獣を共に食し、寝ている間に私の髪に花をさしてくれていたりと、最早そんな日々が当たり前になっていた。

そう、男は最初から私の声が聞こえていた。私の姿が確かに視えて、私が社に灯す狐火の恩恵を受けていたからこそ、夜も普通にして居られたのだ。そして私はそんな男を最早隠せぬ程に好いていた、神だと言うのに愛してしまった。

想いを隠す事も出来なかった私だが、手が触れるどころか息が当たる程近くで寝ていても男が背を向けたままなのがどうしても辛く、常に思っていた事が口からもれてしまう。口が滑った、あまりに幸せで気が緩んでいたのだ。

「化け物の私は、狐である私は、あなた様の妻には相応しくないのでしょうね。せめて人の身であった頃に出会っていたのなら、私はあなた様と結ばれていたのでしょうか?」

不満を乗せた冗談。そんな他愛もない話のつもり。なのにそれを聞いた男はびくりと身を震わせた後、のそりと身を起こして私を見下ろす。その目には光るものがあり、初めて見た時の泣きそうな顔そっくり。

「会っている、会っているんじゃ。すまねえ、こんなに好きになるとはわしも思わなかったんだ。ただお前の為にこの身を捧げたいと、お前の為にこの命を捧げたいと、最初はそう思っていた」

「会っている?ま、待って下さい。私はあなた様と会った覚えなどありませぬ。私は歳を取りませぬ故、あなた様が会っていたのなら随分と若い時の――――――あ…………まさか、そんな…………っ」

目が合った瞬間、思い出した。忘れていた、忘れようとしていたあの時の事だ。私が人の身であった頃、私が人である事を終えた日に確かにこの人と会っている。あの時も、今のように闇の中で見つめ合っていたのだ。

「あなた様はやはり盗人だったのですね。私を見逃してくれた盗人さん。それがあなた様だったなんて、運命とはどの世に居ても酷いものですね」

「そうじゃ、そうなんじゃ。わしはあの時の盗人じゃ。わしはこんな若く綺麗な娘が殺されるのは堪らなかった、他の者らがいくらやってもわしは一人も出来んかった。一番若かったわしは人殺しまでするとは知らなかったのじゃ」

「……………………だから、どうなるのでしょう。あなたの仲間が全て終わらせた。あなた達が私の全てを奪った。私を殺して、私を人ではない化け物にしてっ!あなた達のせいで私はっ!!」

「止めてくれ、愛しいお前が人殺しになるのは耐えられん。神さんが人を殺しちゃいかん、心配せずともわしはもうすぐ死ぬ。そうじゃ、仲間とも思っておらんかったがあやつらは皆この世におらんわ。仲間を売ったわしが断言する、手引きしたくそ野郎も打ち首獄門じゃった」

「え…………っ?今、あなた様はなんと言ったのですか?」

「すまねえ、愛しいお前なんてもう言えねえよな。わしも打ち首になっとればお前を苦しめる事もなかったんじゃろうか。けどな、わしはお前が生きていると思っていた。最期に一目だけ見たいとこの地まで来て、やっとわしは」

「だから最後って何です?どうしてあなた様は泣いているんですか。私だって、泣きたいのですよ?最後って、もうすぐ死ぬって、つまりあなた様はっ」

「おいおい、お前だって泣いておるぞ。ああ、わしは病を持っておったから恩赦を頂いた。先が長くないからと、あやつらをお上に売ったわしだけが。しかしあのくそ野郎はお前の話しを全くしないどころか、お前の事を思い出したくないようじゃった。だからこうやって勘違いした馬鹿が、ここまで来てしまった訳じゃ」

「黙って、もう黙って下さいな。私はもう、あなた様をどうこうしたりしませぬ。出来ませぬ、出来ませぬよ。こんなに辛く、身が張り裂けそうな程に好いておるのですから」

「これは奇遇じゃな、わしもお前を好いている。化け物も神さんも関係ない、お前を愛している。いつ失ってもおかしくない命をなんとか持たせられるくらい、わしはお前をほって置けなかった。あの時からずっと、わしはお前に惚れていたのじゃ」

もう耐えきれなかった。化け物も神も関係ない、そんな事を言われて我慢できる訳がない。まるで子供のように男に抱きついて、今までどうしてこうしなかったのか後悔で悲しみ、愛される喜びでぐずぐずになる程泣いた。こんこん泣いて、落ち着いても男は私を離してはくれない。いえ、それは私も同じなのですが心持ちが変わっておりました。

「こんこんっ、私はこの地に住まう神。人の身ならぬ化け狐。あなた様はそんな私に仕え、私を満たしてくれた。そんなあなた様には神としてお礼をしなければなりませぬ、これまで積み重ねたお礼を」

「そうか、それ程憎いのなら仕方がない。お前の好きなよう、煮るなり焼くなり好きにしろ。心に止まらずこのちっぽけな命までも、好いたお前にくれてやる」

「そうですか、ではあなたのお命頂きます。どうか残された余命、この狐の夫として過ごして下さいな」

「そうかそうか、ついにわしも年貢の納め時か。やっとお前の夫に………………お、夫!?神さんからかみさんに格上げっちゅう訳か!?なっなんと畏れ多い事か、許してくれ」

「いえ、だからとっくに許しています。私はもう逃がしませぬ故に諦めて下さいな。こんっ、私はこう見えて脚が早いのですよ?手と口を出すのは遅すぎましたけれど…………」

「きりりとした後にシュンとする耳と尾っぽ、なんと可愛らしいお狐だ。仕方ない、わしも男じゃ。ごほっ、ごほんっ…………お狐さまよ、どうかわしのかみさんになってくれ」

「こんっ。その願い、神ではなく妻として叶えましょう。喜んでお受け致します、あなた様」

想いを重ねた私達は体を重ね、手を重ねたまま共に眠った。幾ばくかの日々を乗り越え、病など全く感じさせぬ夫に希望を抱き、本当に幸せだった。きっと神である私の影響を受けて病など吹き飛んだのだろうと、思わずにはいられなかったのだ。

そうして愛を育み結ばれた私達だが、ある日夫が呆気なく死んだ。死んだ、死んでしまった、私に気づかれぬよう社の外で眠るように死んでいた。帰りが遅いと探しに出てあの人の亡骸を見つけた私は、泣くでも叫ぶでもなく唖然としていたのだと思う。人として死んだあの日のように、私はまた死んだように地べたに座り込む。

暫くして村人が来て、集まってきて、何やら涙を浮かべながらどこに埋めるかと話している。他所に埋める?あなた様を他所に埋めるの?妻である私の側ではなく、他の死者と同じ場所に埋めるだと?

ざわざわと揺れる辺りの木々。まだ夕刻だと言うのに暗くなる空。私はボンヤリとあの人の亡骸を見つめていただけなのだが、どうやら村人達には私の怒りが伝わってしまったようで、平伏して拝み出す者まで出る始末。結局、あの人は村の翁の一言で埋められる場所が決められる。

『こやつはお狐様の夫になったと言っていた。最初は社の世話をするこやつのざれ言かと思っていたが、このお怒り様を見ればまことの事だろう。ならば側に埋めてやるのが道理。お狐様はやっと幸せになれたのだから、誰も邪魔をしてはならない』

そう言った意味の言葉を話す、村の長老。過去に幼い私の言葉を聞いてくれなかったあのじい様は、私を見つめ涙をこぼしながらそう言ってくれる。私の望みを汲み取り、応えてくれたのだった。

そうして私は独りになる。あの人の亡骸を埋めたこの場所で独り時を過ごす。悲しかった。私は神、他のものは知らぬが少なくとも私はあの人のお子を宿す事が出来なかったのだ。

毎晩あの人を思い出し、泣き疲れて眠りにつく。そんな事を続け、いつしか私は外に出る事を止めていた。あの人が居ないのに愛しい気持ちは残り、未だに膨れあがっている。短くも幸せな日々を思い出し、泣きながら好きだと何度も呟く。

好き。あなた様が好き。卑しくもこの世に留まり、あなた様の下に逝けぬこの狐をどうか許して下さいな。私はずっと、ずっとずっとあなた様を愛し、あなた様と過ごしたこの地で消える所存でございます。


「――――――――ぐしゅ………ひっく…………こんっ、こんこんっ。なんじゃろうか、目にゴミでも入ったか?くくっ、神と言うのに情けない。あれからいくつもの時が過ぎたと言うのに、私はまだ好いておるのじゃからっ」

時は流れ、時代は移り変わり、鉄が走り建ち並ぶような街の中にあってもワシが居る場所は変わらぬ。消えぬまま、あの人を変わらず愛しておるのじゃから困ったもの。いくらまぶたをグシグシ擦っても涙が止まらぬのじゃから、本当に困ったものじゃ。

「おうおう、可愛らしい顔が台無しだ。どうかしたのかお前?」

「こんっ!?くっ、こんのっ、見るでない馬鹿者。ワシは泣いてなどおらぬ。神さまじゃぞワシは!」

「ほら動くな。涙を拭けないだろう。わしにとってお前は神さまである前に、いつまでも経ってもかみさんじゃろうが」

「ん、仕方がない男じゃ。本当に仕方がないお人じゃ……」

隣を見れば神主姿の男が一人。ワシの頬に手を添えて指で涙を拭ってくれる男。紛れもないあの人、私が唯一愛するあなた様。

どうして居るのか、それはワシも最初は分からなかった。あの人が居なくなってちょうど百年は過ぎた頃、雨の日に未だに社に住まうワシをこやつは訪ねて来た。幻かと思ったワシは年がいもなくつもりにつもった愛しさと言葉を伝え、伝えあい、ずっと離れなかった。幻でも良かった、あなた様に会えた事が嬉しかったのじゃ。

しかしどう言う訳か男は消えなかった。毎晩共に過ごし身も心も重ねながら、流石のワシも首をひねり初めていたのだ。そして男と話し合って考えたのじゃけれど、よくよく考えればそれも当たり前。神と繋がり想いまで通じ合わせた男が、神の眷属と成るのは当然の事。神自身が会いたいと、共に居たいとおもっていたのだから当然のなり行きだった。

私は奇跡だと喜び、神さんが奇跡とはなんぞやと夫に言われて赤面したのだったか。その時に散々甘えたのが舐められ甘やかされる原因なのじゃが後悔はしていない。もう私達には後悔など、不用なのですから。

「うむ、少し昔を思い出しておった。どこぞの馬鹿が私を置いて居なくなった日を思い、ついつい頬を濡らしてしまったのじゃ。そんなところを見られるとはワシとした事が恥ずかしいのう」

「すまねえ、もうあんな事はないから安心しろ。しかしこんな日にまでその口調と言うのはどうにかならんか?ババ臭くてたまらん、折角のお前の可愛さが勿体ないぞ」

「婆っ!?こ、これはこんな姿でも神さまらしくあろうと考えた故の口調なのですよ。いくら年を経ても私は歳を取りませぬし身も心も若いままで…………えっ、あれ?今あなた様はこんな日と言いましたか?それって」

「結ばれた日だから思い出してしまったんだろうが、もう二度とお前を悲しませたりはせん。愛している。永遠に愛し共に居る」

「ズルいお人。私だって愛しています。今までもこれからも、ずっとずっとあなた様だけを」

いつかのように髪に一輪の花をさして、夫は私を抱き締めてくれる。私達が結ばれた日、想いと体を重ねたあの日、それが今日と同じ日付だと夫は覚えていた。

本当に嬉しくて、そして幸せで、目を細めて夫に頬を擦り付ける。耳や尻尾を撫でられるのも今となっては慣れたもの、あなた様だけに許した変わらぬ親愛の証し、どうか受け取って下さいませ。


「んっ?」

「おっ?」


ピクリとする私達。鳥居の奥、石段を上がって来たのは二人の人間。まだ幼い男の子と女の子の二人組だった。しかも仲が良さそうに手を繋いでいて、まるで同じだと私と夫はクスクスと笑いあう。

「あの二人は両想いだ。女の子が遠くに引っ越すとかでな、今にも泣き出しそうなのはそれが理由じゃぞ」

「そうですか、それは仕方ないですね。本当に仕方ない事です」

「おう、急に立ち上がって始めるのか。そうだな、今回はわしもついていく。わしがお前と手を繋いでいても構うまい」

「それはそれは仕方ない。私達は夫婦なのですから、これは大変な事になりそうです。もちろん願うのは私達ではないのですけれど」

賽銭箱の上、最上段に立ち背を向ける。子供らが賽銭を入れパンパンとかしわ手を打ったのに合わせ、視えるかどうかも関係なしに社を開け放つ。そうして私は振り返り、子供らを見下ろし言ってやる、左手を夫と繋ぎながら言い放ったのだ。


「その願い、神である私が叶えましょう」


私は化け狐。人では無くなった化け狐。今は愛しい夫と永久にある妻であり、人の世を永久に見守る神様。

この私、お狐様のご利益はもちろん――――恋愛成就でございます。



化ケ狐メモリアル。終わり。


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