ソフィア・ハートクリフ『姫巫女の友人』の場合
なんちゃてシリアスも後わずかです。
残る『混沌の渦』は後二つとなった。
陣の中は、翌日に遺跡に向かい出立する『姫巫女』と守護者たちの準備で慌ただしさに満ちている。
夕闇が迫り、篝火が焚かれ、魔法具に灯りが灯される。何処か幻想的にも思えるこの光景を見る事が出来るのも、後どれくらいだろうかと、ソフィアは考えていた。
(屋敷に戻れば、もうこのように、一人気儘に歩く事も、変わりゆく空を眺める事も出来なくなるのでしょうね)
旅に出たばかりの頃は、全てに不自由を感じ、周囲に侍従が控えていない事が落ち着かないソフィアだったのに、今ではこうやって一人そぞろ歩くことすら、楽しむ様になっていた。
森や土の匂いにもだいぶ馴染んだ。
もしかすると街の埃っぽい空気の方が、不快に感じるのかもしれない。
(この旅が終わってしまうことが……寂しいのかもしれません……)
救世の為の旅を「楽しい」などと感じるなど、不謹慎にも程がある。それを自覚しながらソフィアは煌めきはじめた星の数を数えた。まだ、夕日の赤を残して中天が紺碧に染まるこの時間は、ため息が出る程美しいと思う。
「……?」
そんな中、視界の端に留まる人影に気付き視線を向ければ、ソフィアを無言で見詰めるクリストファーの姿があった。
「クリスさま?」
いつも快活で、朗らかな表情を絶やさないクリスが、別人のような重々しい顔をしている。ソフィアでなくとも、彼が常の彼で無いことは一目瞭然だった。
「何か、あったのですか?」
「ぉ……嬢さ、ん」
掠れた声は、ソフィアをいつもの様に呼ぼうとすることすら、痛々しい。はっきりと悲壮感がその顔に滲んでいる。
『何か』があったのだ。
ソフィアの胸に言い様の無い不安が広がる。悪いことが起こる前兆の様に、黒い重苦しいものが詰まり苦しくなる。
「クリスさま……何が……」
「ソフィア……」
問い質そうと開きかけた口が、耳元で聞こえた声に驚いて閉じられる。
(初めて、名前で……?)
生まれた時から呼ばれてきた自分の名前が、特別な響きで聞こえた。
一瞬で、残照よりも赤くなったソフィアは、クリスに抱きしめられて、息の仕方すら忘れかけた。
「すまない……すまない、ソフィア……俺には、他のやり方が思いつかない……正しく無いことが分かっていても……それでも……」
羞恥と歓喜に混乱するソフィアには、クリスから出た懺悔のような呟きの意味を考えることが出来なかった。
自らが抱いた不安の存在を思い出したのは、翌日の事だった。
聞こえた言葉を理解した途端に、ソフィアは愕然とし、血の気を失い倒れかけた。だが、その直前、自分のやるべき事を思い出して立ち留まる。
ドレスの裾を翻し、ソフィアは目的の場所へと向けて走り出した。
「ヒナさまっ!!」
ソフィアの仕える主にして、『異世界』からの来訪者である友人である少女の元に、ソフィアは駆け込んだ。こんなに不作法に息も服も乱れる程急いだのは生まれて初めてだった。
「……そふぃあ……」
小さな小さな声に力は無い。
声だけではなかった。
常に生き生きとして豊かな表情をみせる陽菜のその顔は、強張り、感情を表す事すら忘れた様に、能面じみたままに固まっていた。
きらきらと輝いていた黒い眸も、焦点を失い虚空を見ている。眼前のソフィアを見ているようでいて、本当は何も見ていないのかもしれない。
陽菜は自らの寝台に凭れたまま、ぐったりと身体を投げ出して床に座り込んでいた。
「何が……」
言いかけてその言葉を飲み込む。
ソフィアも一報を受け、何が起こったかは知っているのだ。それを今わざわざこんな状態の陽菜から聞き直す必要は無い。
(私が混乱してどうするのです! 私がしっかりしなくては……)
自らに渇を入れ直し、ソフィアは膝を付き、陽菜の肩を抱く。
「ヒナさま……ヒナさま……っ」
だが、掛ける言葉が見付からなくて、ソフィアにはただただ陽菜の名を呼ぶ事しか出来なかった。
「そふぃあ……」
「はい、ヒナさま。私はここにおります」
「せんせい……せんせいが……」
虚ろな陽菜の眸が、ソフィアを見て感情に揺れる。その次の瞬間、彼女から大粒の涙と慟哭が溢れ出した。
「せんせいが、しんじゃった……っ、しんじゃったよ、ソフィアっ!!」
声を張り上げ泣き叫ぶ陽菜を、ソフィアはしっかりと抱きしめる。
「血が、血がいっぱいでっ……動かなくって……せんせいが、せんせいがぁっ!」
陽菜の慟哭をソフィアはただ受け止める。
彼女はただ、抱きしめた陽菜の背中を優しい手つきで撫でるだけだった。
細いソフィアの身体が、唯一の物であるように、全身全霊の力を以て、すがり付く陽菜に、苦痛を訴えることも、拒絶することも決してせずに、ただ陽菜の叫びを受け止め続けた。
混乱した様子の陽菜の言葉だったが、漠然とは何が起こったかは理解出来た。陽菜が彼の元から離れていた合間の出来事だったらしい。
遺跡の罠のひとつが原因だと言われたが、危険だからと、側に行く事は出来なかったと。
血の海に倒れ、動かなくなった彼の姿に、半狂乱となった陽菜の様子と、直ぐ側に迫っていた大量の『魔のモノ』の気配に、一行は彼をその場に残して撤退を選択したのだと言う。
泣き疲れ憔悴した陽菜を寝台に寝かせると、ソフィアは彼女が寝息をたててもその傍らでその手をそのまま握っていた。
「カオルさま……」
ぽつり呟く。
ソフィアと彼はあまり友好的ではなかったが、お互いに嫌い合っている訳でもなかった。
互いの立場が異なる事を理解した上での距離感は、早々埋められる物ではないし、二人共埋めるつもりもなかった。
だが、「陽菜を守りたい」という一点では共通していた。ある意味では二人は同士であったのだ。
ソフィアも彼の死に動揺していない訳ではない。
「……事故? 罠?」
昨夜のクリスの姿が脳裏をよぎる。 あまりにも、タイミングが、良すぎるではないかと。ソフィアは自らの想像に震えた。
「私が……私が、ヒナさまをお守りしなくては……」
その意志は彼女自身が思っていたよりも強く、自らを支える力となった。
(カオルさまの分まで、私がヒナさまをお守りしなくては……)
覚悟を決めた者特有の毅然とした表情で、ソフィアは胸の内で誓いを立てる。
(カオルさまを殺めたのは、きっと、クリスさま……クリスさまに命じる事が出来る程の権力をお持ちなのは、今この地では殿下だけ……)
美しいだけで、疑う事も自ら考える事も放棄していた少女もまた、この長い旅路と、『異世界の友人』という新しい価値観の元に、めざましい成長を遂げていたのだ。
(私が願うのは、大切な友人であるヒナさまの幸せ……私がヒナさまを守らなくてはなりません。王家から……っ)
今までの彼女の『世界』では、考えられない事を思いながら、それでもソフィアは、心の片隅で安堵した。
彼女は『魔のモノ』の脅威から、陽菜を守る事は出来ない。盾となる事すらままならないだろう。
だが、王家が相手ならば、貴族の娘として教育を受けてきた自分には、何か出来る事があるに違いない。自分にも陽菜を守る事が出来る。
「私が仕えているのは、ヒナさまです……王家ではありません」
ソフィアの呟きが、静かな空間に響いた。
この日の内に、精神的に不安定となった『姫巫女』の療養の為に、一度神殿に戻る決定が成された。
神殿に戻る竜車の中でも、宿泊地でも、ソフィアは陽菜の体調を理由に、徹底的に陽菜と自分以外の者との接触を遠ざけた。
(まるで、カオルさまがされていた事のよう……)
ソフィアはそんな自分に苦笑しながらも、親鳥が雛を守る様に、弱りきった陽菜の傍らに常に居た。
結果的にクリスと会う時間も取れなかったが、それで良かったのかもしれない。
会えば問い詰めてしまうだろう。
そうすれば、陽菜の前で今のように振る舞える自信がソフィアにはなかった。そこまで自分は強くはない。
時折遠くに見えたクリスの姿は、苦しんでいるように見えた。
ソフィアはそうであって欲しいと願っていた。
神殿に戻っても、陽菜の気鬱は、晴れなかった。
彼女の気晴らしにと、殿下たちからの茶会や遠乗り等が幾度も申し込まれるのを断りながら、ソフィアは自分の想像が正しい事を確信していた。
「カオルさまならば、どうするでしょうか……」
眸を伏せ、陽菜の居室の前で呟いたソフィアに、その声は唐突に掛けられた。
「どうすると思う?」
ばっと顔を上げたソフィアは信じられない者を見た。
「カ……カオルさま? え? でも……?」
信じられない以上の奇妙な違和感にソフィアが眉をひそめると、彼は何処か眠そうにしている顔に、ニヤリと意地の悪い笑顔を浮かべる。
「薫、で合ってるよ。君は、『ソフィア』さん、かな? 変な話だけど初めまして」
その瞬間。
神殿の一角で、爆発音が響いた。
お兄ちゃんが来たら……
相変わらずの通常仕様がそろそろ始まりますよ。