室町陽菜の場合
『東雲の姫巫女』として喚ばれた彼女の視点です。
何が起こったのか。何が起こっているのか。
室町陽菜には、わからなかった。
その日の陽菜は、いつも通り、より少しだけ早く、学校に行こうと家を出て、駅に向かって歩いていた。
(日直とか、本当面倒くさいなぁ……あ、今日古典当てられるんだっけ)
ぼんやりと考えていたのは、そんないつも通りのことで、いつも通りの1日が始まり、そして終わるのだろうと思っていた。
「あ」
思わず声に出して呟いたのは、目の前を知っている人物が横切ったからだ。駅へと向かうその人物をほんの少しだけ早足で追いかける。
(高遠先生だよね)
今年赴任して来た、男性教諭。一年生の担任で、担当教科の関係もあって、二年生の陽菜とは直接の関わりはない。
(学校にいるときより、ちゃんとしてるかな? どうして学校だと、だらしなくしてるんだろ)
彼の数メートル後ろを歩きながら、陽菜はそんな事を考える。
常に学校だと眠そうな顔で、やる気の無さそうな様子の彼だが、
(やっぱり、高遠先生って、ちょっと格好良い、よね)
きちんと格好を整えて、きりっとした顔をしてくれれば、美形なんじゃないかと思う。
皆が気づいていないのが嬉しいような、勿体ないような複雑な心境だ。
(なんか、ちょっとラッキーかも)
良い事のある1日になるかな。
ふふっ、と小さく笑って前を向いた瞬間。
視界が
白に埋めつくされた
浮遊感に似た 平衡感覚を失う どちらが上でどちらが下なのかさえ
何が 起こって ナニガ どうしたのか 一体
混乱した
混乱している
一番最初に知覚したのは
噎せ返る程の甘い甘い薔薇の香り
「えっ!?」
ぱちぱちと大きな眸をまたたきして、陽菜はキョロキョロと周囲を見渡した。ついさっきまでの街角の風景が一変していた。
白い大きな柱に囲まれた空間。『神殿』という言葉が出てきたのは、漫画やゲームのイメージからか、はたまたこの場に満ちた厳かな空気の為であったか。
理解できないこの状況にも関わらず、陽菜が恐慌状態に陥らなかったのは、隣に知った顔の人物がいるからであった。
「っ!!」
自分が平静とはいえない、程度での心理状態でいられる理由を知覚して、ようやく陽菜はこの場に居るのが自分だけではないことを把握した。
(高遠先生も、居る……?)
非日常の中に日常を見つけて、ほっとする。
学校では見たことのない厳しい視線で、周囲を見渡す彼は、それでもずいぶんと落ち着いているように見えた。
(大人の男性って感じだなぁ……先生、凄い)
「せ……」
先生。と、呼びかけようとした陽菜の声は、
「よく、お出で下さいました。『東雲の姫巫女』」
というよく通る男の声に遮られた。陽菜は、びくりと身体を跳ねさせて、声の主を探す。いかにも『聖職者』といった風情の男性が、陽菜をまっすぐ見上げていた。
「……東雲の……姫、巫女?」
聞いたこともない名称なのに、どうやら自分を指しているらしい。
「はい。突然の事で驚かれたことでしょう。貴女様は、我らが民の願いに応じ、神が遣わして下さった代行者。どうか、その奇跡の力を以てこの世界をお救い下さいませ」
熱の籠った視線に、何を冗談をと笑い飛ばせる余裕もなかった。
(……な、何が……?)
こんな非現実あり得ないと主張する自分の理性が、自分でもよくわからない奥底に隠れていた自分に否定される。
二百年振りに現出した神の恩寵。
この世界を救ってくれ、貴女だけに出来る事。『魔のモノ』を生み出す『混沌の渦』を封じてくれ。
『姫巫女』だと。貴女こそ救世を成す奇跡の存在だと。声たからかに謳われる。
(そんな怖い事、したくない。家に帰りたい)
震え怯える『陽菜』と
(確かに私なら出来る……やり方も……知っている)
と考える『陽菜』が同時に彼女の中にいた。
他の何者でも無く、自分自身に追い詰められ、陽菜は気付かないうちにガクガクと震えていた。
崩れ落ちそうになって、初めて自分が気が遠くなりかけていることを自覚する。
そんな陽菜を支えたのは、傍らの男の腕だった。
(先生って意外にがっちりしてるんだな……)
ぼんやりとそんなことを考える。
スーツに隠れた彼の身体は、思っていたよりたくましい印象だった。学校の姿からインドア派だと思っていたけれど、そうでもないのかも知れない。
「大丈夫か?」
耳元に囁かれた声に、ぞくりとする。
年上の異性の声に含まれた色気にあてられたのだと気付かなかった。
「……信じ難い事だが、ここは『異世界』らしい。……この『世界』の安寧の為に、命を賭けろなんて」
陽菜の耳に、憤りを含みながらも、冷静さを保った声が囁かれる。
「こんなことを言う、この『世界』の者の声に心を動かすな。俺だけを信じろ。俺は必ずお前を元の『世界』に連れて還る」
薔薇の香りではない匂いを感じたのは、いつの間にか陽菜が彼の胸に抱かれていたからだった。
ほのかに纏う男性もののコロンだけではない匂いと、自分の物ではない体温に包まれて、陽菜の頬が赤くなる。
「俺が必ずお前を守る。だからお前は、俺だけを見ていろ」
まるで愛の言葉を囁くような、陽菜だけに向ける甘い声。
呼吸の気配すら感じる直ぐ側に、整った大人の男の顔がある。漆黒の眸が陽菜だけを映していた。
「た、高遠……先生……?」
自分の声が掠れたのも、気にならなかった。彼の声に、その視線に、酔ってしまったようだった。
甘い薔薇の香りに満ちた『世界』よりも、甘い甘い何かに、陽菜はその心を捕らわれたのかも、しれなかった。
高遠さんの認識と彼女の間には、齟齬があります。




