人魚姫と声なき男
雨がひどい夕暮れのことでした。嵐と呼んでほとんど差し支えのない驟雨でした。アイリスの海はしばしばこのような突発的な豪雨に見舞われます。地元の漁師たちだけがその兆候を読み取ることができるのです。そのような日は漁に出ず、陸で雨が過ぎ去るのを待つのが彼らの生き方でした。
神の怒りに触れたかのような豪雨がなぜこの海域で発生するのか、それらしい答えは諸説あります。私は記録官として学者に話を聞きに行きました。気象学者、海洋学者、天文学者など、様々な分野の専門家から説明を受けました。皆それぞれに博識で研究熱心な人びとでありました。
曰く、不安定な大気と上昇気流のために積乱雲が発生しやすいためであるとか、島の沖合いを流れる温かい海水のためであるとか、月の満ち引きの影響を受けやすいためであるとか、学のない私のために懇切丁寧に解説してくださりました。自分の知識を他人に教えるのが楽しくて仕方なかったのかもしれません。そういう性格の人間がいることを私は知っています。ある意味では私と似ている人々だったのでしょう。記録官という職業もまた、誰かに知識と経験を伝えるためにあるからです。どちらにせよ彼らは至極まじめに雨の原因を教授してくれました。おそらくどれも真実の一片であったのでしょう。しかし学者たちの住処を訪れながら、私はある別の考えを強めておりました。雨はそのために起こるのだと確信に近いものを抱いていたのです。
あの日ウィリアム王子を筆頭に数十名を乗せた船はまさしく雨の原因となるものの捕獲のために進んでおりました。もちろん私も同行していました。記録官の役割は王子の身の回りに起きた出来事を後世に伝えることです。たとえ船揺れの激しい甲板の上であろうと私の仕事は変わりません。
降りしきる雨のためにペンが使えず、現場でメモを取れなかったのは不便でしたが、あの時の私には紙もペンも必要ありませんでした。生涯忘れることのない光景を目の当たりにして、どうして記録することがありましょう。私がこれを書き記すのは自分のためではなく後の世の人びとに正確な事実をお伝えするためです。百年、二百年と時代を経ても私はきっと昨日の出来事のように明瞭に覚えているでしょう。しかし私は喋ることができません。何を目にしても、どんな感情を持っても、こうして文字に起こすしか伝える方法がないのです。王子が私を記録官に選んだのも私が語り部として不完全であったからです。物を言わぬ人間は秘密を守る。そう考えていらしたのです。
我々は今日が嵐の訪れる日であることを知っていました。情報を提供した漁師たちはみな出港に反対しました。畏れ多くも王子に向かって直接、「沈んでも知らないぞ」と進言するわけにもいかず、彼らは私に意見しました。無意味なことです。私は真の目的を語ることを許されておりません。たとえ許されていても喋る能力を欠いた私から王子に伝えることなどありませんでした。私は記録官であり、私の目に映ることを淡々と記していけばいいのです。
雨は我々を海の底へ沈めようと目論んでいるかのようでした。船員の半数は船が傾がぬよう船体を水平に保つ作業についておりました。船がなくなってしまっては元も子もありません。もう半数は普段漁師がそうするように、手に手に網を持って荒れ狂う海面を睨みつけています。王子は勇ましくも甲板の先端に立ち、船員の指揮を執っております。自ら網の先端を持っておりました。
王子はたいへん勇気と決断力に富んだ性格でありました。嵐のなかでも声を張り上げて乗組員を鼓舞していました。王子の励ましがなければ船はとっくに海の藻屑と消えていたことでしょう。あるいはそもそも人魚を捕まえようなどと考えもつかなかったかもしれません。
我々はすでに三度、人魚を捕らえることに成功していました。一度目は遠洋で偶然に。嵐に見舞われた船の網に人魚がかかっていたといいます。船員は気味悪がってすぐに殺してしまいました。遺骸が城に届けられたのは数十日後でした。ひどい腐臭がしました。防腐処理もなく藁の詰まった箱に入れて運ばれたのだから当然でしょう。上半身は人間のものと変わりありませんが、下半身には二股の尾がありました。尾は翡翠色の鱗に覆われていました。王子は人魚の遺体にひどく関心を寄せておりました。ぜひ生け捕りにして観察したいとのことでした。
二度目の成功に至るまでには幾度もの失敗がありました。ひどい場合には船を丸々失ったこともありました。それでも王子は諦めることなく調査を進め、ついに人魚の居場所をつきとめました。
人魚の生態はいまだによく分かっていません。我々が知っている数少ないことといえば人魚が海上に顔を出すのは嵐の最中だけという事実のみです。普段は海の奥深くにいるため捕まえるのは困難を極めます。沈没の危険を顧みず、王子自らが黒々とした雨雲の下に挑むのはそのためでした。
三度目の成功では二十二体の人魚を捕獲しました。うち十五体は男であり、他は女でした。人魚に性別があることは驚きでしたがそれ以上に女の美しさは我々を打ちのめしました。名家の美姫に勝るとも劣らぬ造形の整った顔立ちは、海の神が寵愛を注いだように思われました。反対に男の人魚のたまらなく醜いことといったら魚の顔を岩で潰したようでした。人魚の生命力は人よりもずっと弱く船に上がるとすぐに死んでしまいました。海水を詰めた樽に入れてみてはどうかと王子が考えついた頃には大半の個体が息絶えていました。試しにまだ生きている人魚を海水の注がれた樽に放ってみると、一時的に回復し、我々と会話を交わしました。
人魚は人語を解す。驚くべき発見でありました。
「母なる海より生まれ出れば、死もまた海で迎えるべし。海で命果てぬは永久の生に次ぐ苦しみなりや」
最期の一言はこのようなものでありました。私はとっさに記録を取りました。王子は人魚の身体を塩漬けにし、陸に持ち帰りました。女はすぐに防腐処理を施され彫像のような神々しさを保ったまま剥製となって城の地下室に仕舞われています。男の尾ひれからは上質の革が取れましたので一流の職人に加工させ、革張りの家具に仕立てました。宝石を直に張り付けたような色合いを王子は大層気に入って、自室に飾ることにしました。私も一度ばかり触らせて頂いたことがあります。魚の鱗とはまるで違う柔らかな手触りでした。
王子はさらに多くの人魚を求めておりました。部屋を人魚の色で染め上げるにはより多くを捕獲する必要があったのです。我々はすぐに新たな人魚の群れがいるという海域へ赴きました。それが王子の最後の航海となりました。
たいへん前置きが長くなりました。さりとて王子と私が運命的な邂逅を果たすまでに右のような経緯があったのです。我々の経験した事態を少しでも現実的に感じていただくのに最適な方法はあの海に戻り、傍らで始終を目撃するほかありません。それがかなわない以上せめて多少なりとも背景事情を把握しなければいけないのです。
人魚狩りの方法はいたって簡単で、荒れ狂う海面に向かって網を投擲するだけです。人魚は嵐の日には水深の浅い場所にいます。よく目を凝らせば船上からでも影を見つけることができます。いままで人魚が幻想的な存在とされていたのは、嵐のなかで海を観察するような好き者がいなかったからでしょう。人魚は群れになって泳いでいます。そこにめがけて網を投げ入れるのです。
網の先にはおもりが括りつけられていて、海中で自然に人魚を囲い込む仕組みになっています。王子の号令に合わせて屈強な男たちが網を引いていきます。海藻や木片にまじってやがて人魚が次々に水揚げされていきます。
「速やかに収納せよ! 女はとくに丁重に扱え。身体に傷を付けるな」
船室には海水の詰まった樽がいくつも置かれています。そこに人魚を放り込むと、彼らはさしたる抵抗も見せずにおとなしくなります。窮屈そうに上半身だけを樽から覗かせるのです。男の人魚はすぐに押し込められ、蓋をされます。女は後ほどゆっくりと顔形の寸評がおこなわれます。噂を聞きつけた有力貴族たちに進呈するためです。王子の嗜好にあった人魚だけが選定され、残りは贈り物として極秘裏に運ばれる予定でした。
今回はいままでに比べて圧倒的に豊漁です。一度の投擲でおよそ十体ずつ。合計で百体あまりの人魚が樽詰めにされました。あとで数えたところ百三体の人魚が船上にいました。予想外に多かったため樽が足りず、男の半数以上は無造作に船室に転がされていました。なかには一度樽に入れられたものの引きずり出された人魚もいました。彼らは抗う様子もなく黙々と我々の作業に付き従いました。ひどく不気味な光景です。魚でさえ海へ帰ろうと懸命に跳ねるのに、言葉を喋れる人魚は運命を受け入れたように樽に詰められていく。私以外の誰もそのことを疑問に感じていないようでした。誰も彼も砂金を目の前にしたように従順に働いていました。人魚は同じ重さの金よりも価値がありました。海に眠った財宝のようでした。
網にかかる人魚の数は徐々に少なくなっていきます。最後に投げた網は空振りのように思えました。近海にいる人魚は採りつくしてしまったのだろうかという考えがよぎりました。しかし引き上げた網の先端に最後の人魚がかかっていました。
女の人魚でした。美しい女の人魚のなかでも、彼女はひときわ異質でした。鱗は透き通ったエメラルドのようで、裸の上半身は真珠をまぶしたように滑らかな肌をしていました。なにより私の視線を惹きつけたのは彼女の瞳です。晴れ渡った海を思わせる青色でした。それだけで彼女がどのような景色を見て、育ってきたのか分かるような気がしました。
青い双眸は私たちに向けられていました。私と、隣にいらっしゃる王子に注がれていました。少しの間、時が止まったようでした。降りしきる雨だけが正確に時を刻んでいます。王子は我に返ったようにかけ出しました。丁寧に傷を付けないよう人魚から網を外していきます。
「樽を持ってこい! いますぐに」
王子の怒鳴り声で船員たちも慌ただしく動きはじめました。私はただ無心に彼女と王子を見つめていました。記録官としての役割さえ忘れてしまいそうでした。あの時紙とペンがあったとしても私はなにも書きつけることができなかったでしょう。
網をすっかり外してしまうと王子は人魚をとりわけ大きな樽に慎重な手つきで運びました。元々そこに入っていた人魚は別の樽に移されたのでしょう。樽は王子のお気に入りを城に運ぶための特注品です。最後に残った人魚はやはり抵抗する意志を見せずにおとなしく樽に囚われました。尾ひれが隠れてしまうと人間となにも差異はありません。裸の美女が水浴びをしているようでした。
「名はあるか?」
王子は尋ねました。
私は彼女の声に耳を澄ませようとしました。しかし期待とは裏腹に彼女は首を横に振るだけでした。人魚の髪は長いのが常です。彼女は髪留めをしていました。よく見るとそれは黒真珠をあしらった代物のようでした。
「この船にはお前の仲間もいる。何か伝えたいことはあるか」
今度も人魚はうつむきがちに首を振りました。
彼女が特別な人魚であると王子は感じ取っているようでした。自分と通じるものがあったのかもしれません。王族の方々には独特の雰囲気があります。彼女も人魚ながら同じ空気をまとっていました。どこか近寄りがたい、それでいて強烈に惹き寄せられる雰囲気を。
「そうか。ならば未練もあるまい。お前は城に連れて行く」
人魚は驚いたように顔を上げました。王子は彼女の青い瞳を見ながら続けました。家畜を屠殺するように躊躇いなく残酷に告げました。
「妾となるのだ。いいな」
人魚はそのとき初めて声を発しました。
消え入るように麗美な音色でした。
「はい」
王子は満足気に頷くと、彼女を丁重に船室に運ぶよう指示しました。船員が四人がかりで樽を動かしていきます。じっと故郷の海を凝視する彼女の表情からはなんの感情も読み取れませんでした。たとえ泣いていたとしても雨のせいで気づかなかったでしょう。一瞬だけ私と視線が合いました。私は凍りついたように見つめ返すしかありませんでした。彼女がゆっくりと運ばれていく間、私は身動きひとつできず、立ちすくんでいました。
人魚のすっかりいなくなった海はじきに穏やかになりました。我々は百三体の人魚とともに港に戻りました。樽詰めの人魚の姫は厳重な管理下で城に移送されました。それが陸の生活の始まりでした。
ウィリアム王子にはすでに后がおりました。海の向こうのネーデルランドの姫君ですが、まだ二人の間に子どもはなく、早々に世継ぎを生むことを期待されていました。当時のチャールズ国王が健在なうちに子をなすこと。それが王子の一番の仕事でありました。
囚われた人魚のうち男はすぐに殺され、彼らの尾ひれで作った家具が天井から壁紙にいたるまで王子の別邸を彩りました。人魚の鱗の耐久性は非常に強く、また加工しやすい素材であったため、様々な形に加工されました。椅子やソファをはじめとして、なかには絵画の額縁になったものもあります。
あらゆるものが人魚色に染まった建物は、足を踏み入れると異国に迷い込んだ気分になりました。海の底にあるという人魚の王国。亡国の末裔である人魚姫を招待するため、部屋は改装を施されました。専用のプールを用意したのです。広大な海に比べれば牢屋のように小さなプールでしたが、そこに海水を満たしていなければ死んでしまいます。人魚姫が来てから、その部屋に立ち入ることを許されたのはごく少数に限られました。一国の王子が人魚を妾にしている。噂が立てば他国との関係はおろか、父王や他の兄弟との信頼にも傷がつきかねません。王子は新たに部屋をつくり、さもそちらが本拠であるかのように振舞いました。実の妻でさえ人魚の存在には気付きませんでした。人魚はすべて剥製になり、城の地下室に眠るか、諸侯の手にわたっていると信じていたのです。
私は記録官としての仕事の他にも、人魚姫の世話役を命じられました。口がきけない。それだけのことが秘密を守るのに適していると判断されたのでしょう。文字にしてしまえば、秘密を暴きたいという欲求が昇華されると思っているようでした。
王子は夜になると、人目を忍んで訪れました。必ず何らかの贈り物を携えていました。貝殻のネックレスや髪留めなどの装飾品が多く、その他にも新鮮な魚であるとか、衣服を与えたこともあります。飼い方のわからない動物に接するような態度でした。王子が最初に人魚姫に与えたものは名前でした。自分の所有物であることを主張するために、あるいは不便を解消するために、名も無き人魚姫をシレネッタと呼ぶことに決めたのです。
シレネッタ、シレネッタ。王子は何度も人魚姫に呼びかけました。しかし人魚姫は「はい」と言った嵐の夜以来、一言も口を利こうとせず、無心に天井を眺めていました。まるでそこに壁があり、空を遮っているのだと理解できないみたいに。海の中の景色がどのようなものであったのか、私にはわかりません。きっと果てしなく自由な空間だったのでしょう。
人魚姫が来てから十三日が経ちました。王子は毎夜のごとく別荘に足を運んでいました。私は建物の管理人となり、日中は掃除や人魚姫の食事の用意をしました。人魚姫は海のものにしか口をつけようとしませんでした。試しに何度か調理した牛肉を出してみましたが、毒が入っているのを警戒したかのように手付かずのまま残っていました。夜になると闇に紛れるため黒服に身を包んだ王子がやって来ます。私は紙とペンを持ち、王子と人魚姫の傍らで会話を記録するつもりでしたが、いつまでたっても筆は走りません。人魚姫は陸に上がったとたん喋れなくなってしまったみたいに沈黙を貫いていました。その夜も私は記録用の道具を持って、王子が一方的に話しかけるのを見ておりました。十分ほど独り言のような会話を続けたあとで王子は私に耳打ちしました。
「今日はもういい。部屋に戻って休め」
私は静かにうなずきました。部屋を去ろうとすると、人魚姫と目が合いました。私はうつむいたまま自分にあてがわれた部屋に戻り、目を閉じました。かすかに聞こえてくるかもしれない物音に耳を澄まそうとしましたが、別荘はすっかり無人になったかのように静かでした。人魚姫の寡黙さが伝染ったみたいだと私は感じました。
翌朝、私が人魚姫の部屋に行ってみると、王子はすでにいませんでした。人魚姫は私の姿を認めると、しばらくじっとこちらを見つめていました。そして言葉を発しました。
「あなたが何も話さないのはどうして?」
私は彼女が自発的に喋りかけてきたことに驚きましたが、口元でバツ印を作ってろうあ者であることを伝えました。
「声を奪われてしまったのね。あなたも」
人魚姫は初めて口角を上げて笑いました。魔法にかけられたように私は魅入ってしまいました。
「お腹が空いたわ。食べるものを持ってきて」私が我に返って朝食の準備をするために出ていこうとすると、「お肉が食べたいわ。それから野菜も」
私は人魚姫の要求通りに肉と野菜のサンドイッチを作りました。屋内のプールに持って行くと人魚姫は首を傾げました。
「あなたのぶんはないの?」
私は首を横に振りました。人魚姫は腕を組みました。王子から貰った胸元が隠れる服に、ネックレスをしていました。昨夜まで手を触れようともしていなかった贈り物です。
「一緒に食べましょう。これからずっと」
無邪気な笑顔で人魚姫は言いました。それから私は必ず朝食を彼女と共にするようになりました。
朝になると私はサンドイッチを作り人魚姫と一緒にゆっくりと時間をかけて平らげます。彼女は私が話せないことなど気にも留めていないように様々なことを語りました。
「今日の海はどのような気分かしら。きっと怒っていると思うわ。ときどき海はとても気分を害することがあるから」
私は彼女の言葉を書き連ねていきます。まるで伝記のように。ペンが止まるのを待って彼女は続けました。
「そんなときは海面に出て怒りが収まるのを待つの。海の底から追い出されてしまうの」
王子はそこを狙って人魚を捕獲したのです。私は言葉を内心に囲ったままペンを走らせます。
「空と同じくらい陸は自由なところだと思っていたわ。でも、海のほうがずっと素敵――ねえ、そこの小物を取ってくれないかしら」
プールから出られない人魚姫が指さしたのは人魚の鱗をあしらった小さな鏡でした。彼女の下半身と同じ色をした鏡を私は渡すべきか迷いました。
彼女はそんな心情を見透かしたように微笑みました。
「知ってるわよ。それがどうやって作られたかくらい。あなたが自分の名前を忘れないようにわたしも仲間を忘れたりしないわ。この部屋は気味が悪いくらいわたしに優しいの。どこにいても囁きかけてくるわ」
鏡を覗き込みながら長い髪を梳かしていきます。私は彼女が唯一身につけていた髪留めを外していたことに気付きました。忌々しいものを隔離するみたいに、部屋の隅に転がっていました。
「あなたにあげるわ」
人魚姫は感情のこもっていない声で言いました。
「わたしには必要ないものだから。あなたの大切な人にでもあげてくれる」
記録官として私は人魚姫の髪留めを保管することにしました。最初で最後の彼女からの贈り物でした。
夜になると王子は人魚姫とふたりきりの時間を過ごします。その間私は、昼間彼女と交わした言葉を反芻しながら眠りにつきます。別荘に篭もりきりなため外の情報は入ってきませんが、王子の様子を見るかぎり奥方とはうまくいっていないようでした。毎晩のように他の女のもとに――それも人魚のもとに通いつめているのですから当然の成り行きかもしれません。奥方との仲が険悪になるにつれ王子が人魚姫に見せる感情は激しくなっていきました。私のいる部屋にまで嬌声が聞こえることもありました。次第に声は大きく甘美になっていきました。私はうまく眠ることができず、凍ったように縮こまって人魚姫の声に神経を向けていました。
ある朝のことでした。私がいつものようにサンドイッチを持って行くと、人魚姫はプールの脇に上がって、倒れていました。死んでしまったのかと思いました。人魚は海から離れて生きることはできません。いままで陸上で生き永らえてきたことが異常だったのかもしれません。しかし私をそれ以上に驚かせたのは彼女が人魚ではなくなっていたことでした。二対の細い脚。人魚姫はただの人間の娘になっていたのです。
夜のうちにどのような変化があったのか私は存じません。彼女は――シレネッタは一糸まとわぬ裸体のまま臥せっていました。
私が肩を抱き起こすと、ひどく冷たくなっていました。濡れた肌からは体温が感じられませんでした。
「子どもができたの」
彼女は私の腕のなかで微笑みました。
「まだ死ぬわけにはいかないのよ――でも寒くて死にそうだわ。海の上はこんなに寒いのね」
私はすぐに毛布と衣服を取りに戻りました。
王子の第一子が生まれたのはそれから十月と三日の後のことでした。生まれた子どもは間違いなく人間でした。
そのころ、国内を致命的な流行病が襲いました。人々はなすすべなく次々と病に倒れていきました。別荘には私とシレネッタ、それから息子のエリックしかいなかったので感染の心配はほとんどありませんでしたが、二日とあけることなく顔を見せていた王子が十日も来なかったことが事態の深刻さを物語っていました。
流行病に関してはほかの記録官の記した本から知識を得るほかありません。病の感染力は恐ろしく、村が壊滅することも珍しくなかったそうです。人々は病を怖がり家から出ようとしませんでした。国王でさえも病魔から逃れることはできず、王位継承権を持つ者たちも次々に命を落としていきました。
「まるで呪いだ」新たな国王になったウィリアム王子はひどくやつれて見えました。一気に三十も歳をとったようでした。「どうすれば病が収まるのか見当もつかない」
「どのくらいの人が死んだのかしら」
エリック王子をあやしながらシレネッタは聞きました。人間の脚は生えたものの歩くことはできず、車椅子に腰掛けています。背もたれには例に漏れず人魚の鱗が使われているのでした。
「全人口の三分の一が死んだ。いまも大量の病人がいる。近いうちに死者は半数に達するはずだ」
「大変なことね」
穏やかな口調でシレネッタは呟きました。口元が微かに笑っているように私は思いました。国王となったウィリアムは両親の会話を子守唄にすやすやと眠っています。母親の気品を目一杯に受け継いだ顔立ちは幼いながらも心を奪われるほどです。
「病は防ぎようがない。家の門をかたく閉ざしても、薬を飲んでも効果はなかった。このままだと国が滅んでしまう」
「国なんてあっけなく滅んでしまうものよ」
私は記録する手を止めました。人魚の国の姫が口にした言葉を記録すべきか迷ったのです。シレネッタは何事もなかったかのようにエリック王子をあやしています。ウィリアム国王は人魚の革張りのソファに力なく座り込み、頭を抱えました。
「いつかはここにも病が来る。感染すれば肌に黒い斑点ができ、数日のうちに高熱を発して苦しみながら死ぬことになる。あっという間の出来事だ。薬を調剤する暇もない」
「あなたも死んでしまうかもしれない」
「父は発症してから二日で亡くなった。たったの二日だ。跡継ぎを指名する暇もなかった」
「あなたが死んだら次の国王はこの子になるのかしら」
「お前はそれを望んでいるのか、シレネッタ」
国王は恐ろしい形相でシレネッタの胸ぐらに掴みかかりました。彼女は顔色ひとつ変えずにエリック王子の髪を撫でつけています。
「余が発病すればエリックが次の王になる。まだ幼い子どもに代わってお前が国を支配しようというのか」
「政治なんてつまらないもの。わたしにとって大切なのはこの子だけ」
「同族を殺されたことを恨んでいるのだろう。余が死ねば少しは気が晴れるか」
シレネッタの服を掴む拳の力が増していきます。私は国王を諌めようとしました。しかし腰を上げる前にシレネッタは細い指を絡ませました。
「エリックが起きてしまうわ」
「余は死にたくない。まだ死ぬわけにはいかないのだ……」
崩れ落ちる国王の指先に、小さな黒い斑点がありました。シレネッタは海の底のような青い瞳で見つめていました。流行病の感染力は尋常でなく、私たちも間違いなく数日のうちに発症し、死ぬ運命にあるようでした。
「人魚の鱗を粉末にして配るといいわ。一人につきほんの一口でいいから」
「なんと……」
「家具も剥製もすべて粉にするの。あなたの粉はわたしが作ってあげる」
シレネッタはエリック王子を膝に乗せたまま私に目配せしました。私は彼女の車椅子を押して、今ではすっかり使われなくなったプールの部屋に向かいました。
「すこし待ってて。全員分の粉を用意するから」
私はシレネッタを部屋の外で待つことにしました。国王のすすり泣くような声だけが聞こえていました。エリック王子はあまり泣かない赤ん坊でしたので、泣き声を聞くのは久しぶりでした。
少ししてシレネッタはエメラルドグリーンの粉の入った小鉢を抱えて出てきました。私たちはすぐにそれを飲みました。王子の黒斑は翌朝には消え、すぐさま国中に人魚の鱗の粉末を配給することに決まりました。新薬だと偽って配られた粉薬の効果はめざましく、地上から人魚の痕跡が一切消えるのと引き換えに、国民の半分の命が救われました。
半数の命が生き延びたとはいえ国力が半減したのは間違いのない事実でした。国を支える人々がまるでいなくなってしまったのです。まるで大きな戦があった後のようでした。誰の責任にできることでもなく、過ぎ去った事実は過去のこととして受け入れるほかありませんでした。
ウィリアム国王の后であった女性もまた流行病の犠牲者となりました。ほとんど名目上の結婚でありましたから国王は悲しむ様子もありませんでした。葬儀が終わるとすみやかにシレネッタを新たな妻として迎えることを発表しました。どこからともなく現れた素性のしれない彼女との結婚に反対する者もいましたが、みなシレネッタの顔を見るだけで意見をやめました。人魚であった頃の美貌はいまなお衰えていなかったのです。結果的に誰もが納得しました。
私たちは別荘を離れ、城での暮らしを始めました。王妃となったシレネッタの世話役として何人かの女中が付けられましたが、私はやはり秘密を握る唯一の人間として記録官の仕事と並行し、シレネッタとエリック王子の世話役に任じられました。
人魚の鱗とは露知らず、民衆は特効薬を開発したウィリアム国王を名君と謳いました。隣人がことごとく亡くなった国を建てなおすことができるのは国王しかいないと盲目的に信じ込んだのです。実際のところウィリアム国王は非常に有能な統治者でした。人口の半減した国を存続させただけでも偉大な功績といえるでしょう。他国の侵略にあって滅びた国も多かったのです。外交と内政の両方で国王は臣下をよく見極め、適切な人員配置を行いました。自ら交渉の場に出ることもありました。その代償としてシレネッタに会う時間はほとんどなくなりました。結局のところ二人の間に生まれた子どもはエリック王子だけでした。シレネッタは城の外に出ようとはせず、王子にかかりきりでした。流行病の恐ろしさを知っていたためでしょう。
ウィリアム国王の双肩にかかる重荷は想像を絶するものがありました。見かけるたびに髪は白くなり、頬は痩せこけていきました。目の下には常に黒々としたクマがあり、まるで病魔に憑依されたかのような形相をしていました。かろうじで生き永らえているという表現が最も適切でしょう。月に一度ばかり妻と子どもに会うと、見違えるように活力がみなぎるのですが、それも一週間がせいぜいというところでした。残りの三週間はいまにも突然死しそうな迫力で政務にあたっていました。
世の人々は国王が家族に会うたびに元気になる光景を感動的にとらえているようでした。家族思いの心優しい君主。真実を知っているのは私だけです。
人魚の鱗には人を癒やす効能がある。それはすでに証明済みです。とりわけシレネッタの用意した粉末は国王の生命を支えていました。消えてしまった人魚の鱗をどこから調達しているのか、私は知っています。彼女自身の鱗を使っているのです。人間の生活を受け入れるのと引き換えに得た両脚は、元々可憐なエメラルドの鱗に覆われた尾ひれでした。その鱗を保管していて、国王が来るたびに一枚ずつ粉にしていくのです。国王もおそらく最初は疑問に思っていたことでしょう。しかし時間が経るにつれ徐々に粉末に対する依存心は強くなっていきました。月に何度も薬をせがみに来たこともありました。しかしシレネッタは要求を突っぱねました。
「この薬は効果が強すぎるの。これ以上飲んだらあなたきっと人魚になってしまうわ」
冗談めかしていましたが、私にはそれがあながち嘘であるとも思えませんでした。
エリック王子は大きな病気をすることもなく健康に育ち、唯一の王位継承者として恥じることのない立派な青年になりました。母親譲りの顔立ちの美しさは他国まで評判となり、すでに名君の後を継ぐ者としての評価を高めていました。父親とは反対に物静かな性格で、窓辺に佇んでいる姿などは母親と瓜二つでありました。
ウィリアム国王が疲労のために倒れ病床に伏せっている間もエリック王子はまったく遜色なく政務をこなしました。国王は体調を崩しがちになり、何度かの快復のあとついに寝たきりになりました。身体が限界を迎えていたのです。シレネッタの調薬した粉がなければとっくに他界していたことでしょう。それまでの奇跡的な回復もすべて人魚の薬のおかげでした。
「余は死ぬのか」
六月の満月の夜でした。
部屋には国王夫妻と私だけがいました。プールの備え付けられた別荘のときのように私は静かに二人の会話を記録する役割でした。国王は手足を動かすのさえ辛そうです。本来の二倍も歳を重ねたように見えました。
「死なないわよ。わたしが死なせないもの」
「お前の作る薬のおかげで命を保たせることができたが、それも限界だ。薬はいずれ効かなくなる。もう誤魔化せない」
「……ねえ、わたしのこと愛してる」
唐突にシレネッタは訊きました。国王はかすかに頷きました。
雨の音がします。急に降りはじめたようです。大降りの雨でした。
「余がいままで国のために尽くすことができたのは、すべてお前の協力があったからだ。エリックも無事に育った。言葉にできないほど――感謝している」
「……人魚の鱗には人を癒す力がある。だとしたら、その肉を喰らえばどうなると思う」
「噂に聞いたことがある。人魚の肉を食べれば不老不死になれると。だが嘘だ」
「どうして」
「人魚の肉を実際に口にした貴族がいた。彼は高齢で死に怯えていた。長生きはしたが数年前に亡くなった」
「そうね。普通の人魚の肉にはそれほどの力はないわ。死肉であればなおさら」
「お前は違うというのか」
「わたしは人魚の姫だもの。わたしの血肉には不死を授ける力がある」人魚姫は胸元に忍ばせていたナイフを取り出しました。「ねえ、わたしのこと愛してる」
「愛している。間違いなく愛している」
国王は観念したように瞼を下ろしました。
これから人魚姫がなにをしようとしているのか、悟ったようでした。
「わたしはこれから死ぬわ。人魚は陸では生きられないのよ。この二十年間わたしはずっと屍だった。泡となって消えるときが来たの」
「自分を犠牲にするな。余のような老い先の短い人間よりエリックの面倒を見てやってくれ。あれは気丈に見えるがまだ精神的に脆いところもある。母親のお前が影から支えてやるのだ」
「エリックは一人前になったわ。あなたが命がけで国を立てなおしてくれたおかげで」
人魚姫は突然ナイフを国王の右手首に深々と突き刺しました。国王は驚いて目を見開きました。
「だからわたしも安心して死ねる。人魚の血は途絶えていないから」
「お前、最初から復讐するつもりで……」
「死ぬのが怖いかしら。愚かな迷信に惑わされて死んだ老人のように。大丈夫よ、あなたはわたしが死なせないわ」
そして躊躇なく反対側の手首に新たなナイフを突き立てました。国王の表情が苦悶に歪みます。雨がひどくなってきました。船の甲板に打ちつける波のように血潮が溢れていきます。
人魚姫は国王の両腕が動かなくなったことに満足すると今度は大きな釘を持ちだしました。片手には金槌を持っています。
「かつてこんな風に処刑された聖人は生き返ったらしいわね」
「やめろ……」
かすれた声を無視して人魚姫は釘の先端を太ももに合わせました。金槌が振り下ろされると、苦痛にまみれたうめき声が聞こえました。うまく大腿骨を貫通することができないらしく、何度も何度も釘を打ち付けてようやく国王の左脚はベッドに固定されました。反対側もほどなくして固定されました。
「あなたに最初に抱かれたあの夜からわたしはこの瞬間を待ちわびていた。わたしの血を引く子どもがこの国を支配し、そして国民たちもまた人魚の意志を引き継ぐ日を」
人魚姫は私と国王に語り聞かせていました。記録に残すべき告白だと主張するように明朗な声でした。
「仲間たちはみな民のなかにいる。やり残したことはひとつだけ」
「助けてくれ……」
国王は懇願するように私に顔を向けました。彼は泣いていました。雨に濡れたわけでもないのに、さめざめと泣いていました。
「ねえ、あなたに協力してほしいことがあるの。わたしが死んだらこの人を故郷の海に沈めて。永遠に浮き上がってこないように厳重に重石をつけて」
私は否定も肯定もせず彼女の声を聞いていました。
「あなたができないのならエリックが手はずを整えてくれるわ」
私は秘密を漏らさない。記録に留めるだけ。エリック王子が母親の傀儡であるのはすでに気付いていました。私は誰よりも人魚姫の近くにいたのです。
「わたしはあなたのこと大嫌いだったわ。最初からずっと。あなたに触れられたこの身体も、あなたに囚われたこの命も全部大嫌い。だからわたしは人魚であることをやめたの。これ以上わたし自身を嫌いになりたくなかったから」
動けない国王に語りかけながら、人魚姫は私の返事を待っていました。青い瞳の奥には喜びが満ちていました。かつてこれほど嬉しそうな彼女を私は見たことがありませんでした。
「……それじゃ、さようなら」
人魚姫は国王を磔にしたのと同じ唐突さで自分の指を切り落としました。強引に国王の喉元に指の欠片を押し込むと、まるでそれが自然な行為であるかのように喉を掻き切って自決しました。
断裂した頸動脈から血が溢れてきます。身動きの取れない国王の顔面が赤く染まりました。
私は紙とペンを置いて彼女の頭を持ち上げました。切り裂かれた首筋から取れてしまいそうなほど不安定な頭部でした。死んでもおな美しい顔立ちでした。私は人魚姫に接吻し、彼女の舌を噛み切って飲み下しました。
「ねえ、わたしのこと愛してる」
その問いに対する私なりの答えのつもりでした。
エリック王子の協力のもと私は死の淵にいる国王と人魚姫の遺体を海に沈めました。人魚の肉は死を遠ざけることはできても、四肢の傷まで癒やすことはありませんでした。両手両足に穴から鉄を流し込まれ、さらに鎖に繋がれた鉄球をまとって国王は消えていきました。
人魚姫の遺体は私以外の誰の手に触れることもなく、故郷の海へと還っていきました。おそらくこれでよかったのだと思っています。彼女はアイリスの海で甲板に上がったときから死んでいたのです。漁師が網にかけた魚が死ぬように、人魚も海から離れれば死んでしまうのです。
人魚姫は死にました。彼女の青い瞳は閉じていました。思えば私はあの夜から、こうなることを望んでいたのかもしれません。