――清々しい朝。
長年使い続けられるこの表現だが、今この時がこれまでの中で一番相応しい表現だろう。
スズメの囀りで眠りから覚醒した僕の身体は、直後にカーテンを開き朝日を浴びる。
滅多にできないことをし終え、余韻に浸っていると、妹から声がかかった。
「アニキー、遅刻するぜー」
「おわっ、本当だ。こりゃあパンを咥えて登校しなきゃいけないなー。あはははは。(棒)」
「いや、笑ってる場合じゃねーって……ホントに遅刻するぜ?」
ふむ、少しまずいかもしれない。
とは言うものの、実は計画通りだったりする。
いつもより二十分以上遅い起床。このままでは遅刻は確実。実にいい流れだ。
一体どんな計画なんだ? どうせ言い訳してるだけだろ? と言いたい所だろう。もちろん言い訳じゃないし理由もある。それも重大な。
だが、話せば長くなるのでそれは一旦置いておくとしよう。とりあえず今は登校準備が先行だ。
筆箱よし。教科書よし。弁当よし。一つ一つ指差し確認をし、食卓に置いてあるパンを一つ咥えて玄関へ向かう。
「いってきまーす!」「いってくるぜー!」
「車に気を付けるのよ~」
母親が玄関まで出てきて見送りをしていた。
車って……そんな、小学生じゃあるまいし……。
そんな母親の陽気な見送りを背に、僕――古渡新太と、妹――古渡麻衣は学校へと向かう。
「っていうかアニキ、本当にパン咥えるんだな……しかもパンだったらなんでもいいのか」
何を言うか。パンであることに意味があるんだ。たとえそれがロングフランスパンだったとしてもだ。
「ア~ニ~キ~。ちょ、走るなって~。う……なんか酔ってきたぜ……」
そう、理由だ。
なぜ僕がこんな遅い時間に、しかもパンを咥えて走って登校しているのか。
簡単なことだ。今日はうちの高校に転校生がやってくるからだ。
え? それが関係あるのかって? もちろん関係あるに決まっているだろ。
じゃあどんな関係か、考えるまでもなく、あのベタなイベントを回収するためだ。
察しがいい人はもう分かっているだろうけど、そのイベントとは、
転校生とごっつんこ! することである。
風の噂によればその転校生は女子で、かなりの美人ときたもんだ。これはもうちゃっちゃと関係を作って最高のトゥルーエンドまで持ち越すしかないだろう。
どこのクラスに配属されるかはまだ分からないのだが、僕には分かる。必ず僕のクラスだということを。
なぜなら、この物語は僕が主人公でその転校生がヒロインなんだから……きっと。
そう思いながら、僕はパンを咥えながら絶好のポイントまで走って向かう。絶好のポイントとは、ある住宅地の曲がり角(通称、幸福のお角様)のことだ。
これまた噂によると、そのお角様でぶつかった二人は永遠の愛を育むことができるというのだ。そんな、角でぶつかり合うなんて滅多にないようなことなのだが、そこではなぜかしょっちゅう目撃されており、ぶつかった二人の様子を窺うに、恋に落ちているのは確かなのだそうだ。その数も数十件と確認されているため、この噂は信憑性の高いものだといえるだろう。
幸い、お角様は通学路にあるため、余計な時間を使わずに済む。
さあ見えてきた、栄光という名の架け橋が……
僕の輝かしいみらいが……
お角様を横切る瞬間に見えた人影は――――――中年太りのおっさんだった。
「なんでだよ!」
避けるのも間に合わず、そのままぶつかってしまう。
途端に思い出す例の噂。『ぶつかった二人は永遠の愛を育むことができる。』
「……」
仰向けになりながら、一気に顔が青ざめる。
「あの……大丈夫かい?」
顔を上げるとそのおっさんが手を差し伸べていた。
目が合うと……おっさんの頬が僅かに紅潮し、恥ずかしそうに微笑む。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
警告! 警告! 危険! 逃走! 逃走!
僕の危険信号が赤を超えて黒になっている。早くここから逃げなければ、食われる!
どういう意味でかは考えたくもない。
それよりも、今は無心で走らなければならなかった。
気が付くと僕は、我が母校――明澄学園の校門の前に立っていた。
あれから何時間も走り回っていたのだろう。時刻は十一時半を過ぎていた。
家を出たのは八時二十分頃なので、軽く三時間程走っていたこととなる。
そろそろ三校時目が終わるころだ。完璧に遅刻。本来ならば、転校生と仲良く遅刻する予定だったのだが……いや、さっきのことは思い出さないようにしよう。
「あ……麻衣……」
すっかり忘れていた。
胸ポケットをまさぐり、その中に入っている妹を取り出す。
「やばい……完璧にのびてるな、こいつ」
僕の指につままれている手のひらサイズの少女。それこそが、古渡麻衣の正体である。