金糸雀
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「始め!!」
掛け声と共に男たちの雄たけびが、そこかしこから木霊した。
「いいか! 負けた方には罰則を与える、手を抜くな! 死ぬ気でやれ!!」
「おおおぉ!!」
この声にビクリと一瞬だけ体を竦めるが、それも一瞬のことだった。目の色を変えた男たちは、それこそ死に物狂いの様相で木剣をたたきあわせた。
それというのも日に日に下降の一途をたどり悪くなるキースの機嫌と比例するかのごとく、罰則も厳しさも増しているからである。
最初こそ厳しいだけだった訓練はもはや過酷を通り過ぎて過激である。
前回の罰則組は夕飯をとることもままならず、ミュゼを囲む外壁を夜間訓練と称して戦争なみの重装備で走らされた。
ただ走っただけと思うなかれ。
二組に分かれた罰則組みをそれぞれ外壁の反対側から走らせ、遭遇戦を仮定した訓練にもなっている。当然だが星明りだけを頼りに夜道を総量20キロ近くある装備を身につけ、ひたすら走り続けることになった。兵達は吐く者、倒れる者が続出し、かろうじて罰則という名のイビリを生き抜いた者も、深夜近くになった遅すぎる夕飯は喉を通るはずもなく、それこそ皆倒死んだように眠りについたのだ。
単品でも訓練で通用する猛特訓が、通常訓練――それもかなり厳しめのもの――の後に罰則がこれだ。
さらには翌日も早朝訓練は容赦なく行われ、日中はローテーションを組んでの訓練と通常勤務が加わる。この休む間もない過酷な訓練は兵士達の精神を急速にすり減らした。
もはや何処の重要都市の精鋭兵士でも真っ青の訓練内容に、ミュゼ在中の兵士達はキースがイストニアに来て間もないにも関わらずトラウマを数々と抱える破目になってしまった。
そして全ての監督をしながらも己の仕事を滞らせることなく、疲れた素振りさえも見せずに鬼畜的な量の訓練と仕事を負うキースは、もはや人外として兵達に認定されている。
というよりも、同じ人間だと思いたくないとは兵士達一団の心の声である。
「随分と動きが良くなりましたわ、以前と同じ兵とは思えない錬度ですこと」
男たちの雄たけびのなかには似つかわしくない、猫なで声だ。
「赴任したばかりだというのに申し訳ないわ、毎日休む暇もないみたいね」
突然に背後から掛けられた声にもキースは驚かなかった。
扇状に演習場を囲むように建てられた櫓は主に指揮官が訓練の指示を飛ばしたり、隊列を整えるために使われている。
演習場からあがる声に紛れ聞きづらくはあったが、キースの耳は階段をのぼる足音をしっかりと捕えていた。男にしては軽い足音からも、相手は女性だとも。
しかし背後を振り向いたキースは多少なりとも驚いていた。
見るからに使用人とは異なる風貌の女性が、面白そうに目を細めながら佇んでいたのだ。
身分の高い女性はたかが櫓の高さと言えど、一人の供も連れず単身でのぼることはしない。せいぜい城に仕える侍女か下女だろうと思っていたのだ。
「あら、以外でした?」
「……少しだけ。侯爵からは郊外の視察に出ていると聞いていましたが、お早いお帰りだったようで」
「実を言えば、もう数日前には戻っていたの。なにせ急に王都から客将が来たとマシューから連絡があったんですもの、驚きましたわ」
女は扇で口元を隠しながらクスリと笑う。
「挨拶が遅れました」
平凡な顔立ちだが、どこか凛とした美しさをもっている。
「わたくしラザルード侯爵家当主カルロスが第一子、マリアンヌ・ベルナ・ラザルードと申します。どうぞ、よしなに」
立ち振る舞いも見事で、一片の隙もない。名家の令嬢としては満点の仕草である。
何気ない仕草からみても、育ちのいいただの令嬢だ。だがキースは業とらしいこの態度に僅かに眉間をよせた。
この櫓に単身、それも平気な顔をして登って来たことが、だたの侯爵令嬢という可能性を否定していた。
「こちらこそ挨拶もままならず申し訳ない。中央より参りました、キース・ネイカーと申します。以後お見知りおき下さい」
誰これ、と春陽が見たならば即座に問いただすだろうキースの態度は、もちろんマリアンヌを警戒してのことだ。キースが断罪者であることを知る人間は必要最小限だけでいいのだ、世界初の界渡を秘するためにも。
「あら、噂に聞いた将軍様とは違うようですわ……もっと強面で傍若無人なかと思っていましたのに」
慇懃な態度のキースに、マリアンヌは面白そうに目を細めた。
「ウィダの賊討伐作戦でクナート卿の部隊に隠密で潜入、能力査定で師団長には不適格の烙印を押したそうですし。イストニアに戻ってからは師団長の役職も兼任しながら、兵達を地獄の訓練と呼ばれて恐れられている猛特訓で兵の錬度を無理やり底上げする、傍若無人の鬼教官と噂が城内を行き交っていますわよ。たった一月足らずで大したものですわ」
変わらず口元は見えず、言葉も軽やかに紡ぐが、その目は決して笑っていない。
むしろキースを探るような目でキースを見つめている。
「そのような心無い噂が広がっているとは……。自分が教官として呼ばれたからには、その積を全うしたいだけですよ」
「立派な心がけですわ。わたくしなど戦の準備でも始めたのかと、浅はかな考えを致してしまいました。街でも物騒な噂が立っているもので、つい……将軍はご存知ですこと? “嘆き姫”が夜な夜なあらわれては、美しい娘を嫉んで攫っていくそうですわ」
探るような目つきで問いかけるマリアンヌに、キースは面倒な気持ちを押し隠すのでいっぱいだった。
親子揃って、と思わざるをえない。なにせつい最近、マリアンヌの父親であり、イストニア領主であるラザルードからも同じ名前を聞いたばかりであった。
「所詮は噂でしょう」
ラザルードからも聞いた噂は確かに怪しさ満点のもので、普通ならば放置することなどありえない。
だがキースは敢えて無心を貫いた。
「恐ろしい噂ですわ、実際に姿を消した者が何人もいるそうです」
毎年この春の季節になると、人の出入りが激しく各主要都市では人攫いが頻発するのはキースも知っていた。組織がらみから、単発まで規模は様々だが、その事件数から国中で警戒が強められるのだ。
「噂とは尾ひれが付きやすいものです、“嘆き姫”が人攫いなどとは馬鹿げているにも程がある」
たしかに諜報専門の部下の報告書でも上がってきていた。
ルカは国中の主要都市で起きる不審事件を徹底的に集め、その中から更に情報を取捨選択して毎日怒涛のように大量の報告書を送ってくる。そこでも今年の行方不明者の数が多いとされていた。
だからといってキースが事件解決に割く時間はない。
「そうでしょうか」
冷たい声音だった。
「噂自体は馬鹿げているかもしれませんが、そこに悪意が潜めば馬鹿馬鹿しいと言ってもいられませんわ。明確な悪意をもって流された噂を放っておくのですか?」
冷めた表情で、マリアンヌはひたとキースを見据えた。
「……故意に流されたという証拠もないでしょう。あまり騒ぎ立てるのも褒められたことではありませんよ?」
「……そうですわね」
溜息をつきながら答えたキースをどう思ったかはわからないが、マリアンヌは納得するように何度か頭を肯けた。
事実キースの言葉は捜査に踏み切りたければ、証拠でももって出直してこいと言ったも同然だ。納得しようとしまいと、結局はそういうことなのだ。今の時期では噂だけで人を動かせるほど、イストニアの兵士に人員の余裕はない。
「いきなり不躾でしたわ、ごめんなさいね」
全ての感情を隠して浮かべた笑顔は、まさに侯爵令嬢としてのもので、これくらいの腹芸が出来なければ貴族などやっていられない。
「いえ、マリアンヌ様に要らぬ心配をかけるまで噂を放置していた私の責任です。くれぐれも兵達に注意するよう言い含めます」
ウィダの森であの男が事を構えたのであれば、イストニアでまた何か起こる可能性がある。
手がかりらしい手がかりも見つけられない今、キースに出来ることは来るべきその日に向けて平和ボケしているイストニアの兵達の錬度を上げることだけだ。
「そうですわね。兵達の強化で忙しいなか時間をとらせてしまいました、申し訳ありませんでした」
「お一人で大丈夫ですか?」
暇を告げるマリアンヌに、答えはわかっていようとも礼儀として声をかける。
「はい。最後に一つだけよろしいですか?」
すでにキースに背を向けていたマリアンヌは、ゆっくりと振り返った。
「なんでしょう」
「確かに兵の能力を高めることは大事かと、軍事に疎いわたくしでも存じ上げます。ですが陛下より預かりし臣民が心の安寧を護ることも、どうぞお忘れなきよう。それも仕事の内なれば」
マリアンヌは最後にそれだけを告げると、今度こそ躊躇うこともなく颯爽と櫓を降りていった。
振り返らず、一分の隙もみせずに。
「……マリアンヌ・ベルナ・ラザルードか」
その名をかみ締めるように呟く。
それまでは僅かに浮かべていた余所行きの笑顔を冷たく凍らせて。
「随分と好き勝手に言ってくれる……どいつもこいつも」
ムーラ・シュトラール。一筋の光も入らない暗い闇の中で、己の醜悪な自己満足だけを満たそうとしている男の姿が浮かんだ。
侮蔑と嫌悪を投げつけたくなる衝動を抑え、己の為すべきことだけを考えた。
まずは己の仕事を全うしようと、兵達の訓練へ再び目を向けた。
これがマリアンヌが春陽へ突撃を掛ける前日の出来事であった。
**********
灰色の雲が空を厚く覆いつくし、どんよりと湿った重い空気が立ち込めていた。
もう少しすれば雨が降るのかもしれない、春陽は窓から空を眺めながらそう思った。
一日だけ待つと言って去っていったマリアンヌであったが、肝心なことに春陽はそのマリアンヌとの連絡手段をもたなかった。
あろうことにも春陽がラザルードの愛人でないと知るや、それまでの態度を一変させた変わり身の早さはまさに圧巻であった。唐突に与えられた取引といい、呆然としている間にマリアンヌが去ってしまったのだ。
遅まきながらこれに気づいた春陽は、期日の今日になって俄かに焦っていた。
せっかく春陽の人生で初ともいえる冒険をしてみようと、一大決心したにもかかわらず、取引相手に連絡が取れないとは間抜けすぎた。
パメラとて先日、春陽の側を離れたのはユマラから春陽の身体に対する経過を聞きに行ったためだ。キースにも当然報告はされるが、常日頃から春陽の側にいるわけではない。そのため専用侍女になりつつあるパメラもユマラからの報告と注意を聞くことになったのだ。それも当たり障りのない内容に押しとどめた範囲で、だが。
それでも春陽の側を離れた時間は半日程度であり、今日も今日とてパメラは春陽に付きっきりだ。部屋の掃除をし、寝台のシーツを取替え、お昼の前にお茶を準備し、春陽の食事を用意する。さらには春陽が過ごしやすいようにと書庫から本を借り、中庭の温室から花を摘んでくるはと、春陽にしてみれば至れり尽くせりだ。
今も春陽の身体が冷えないようにと、温かい香茶を入れている。
春陽にはもう打つ手がなかった。
これではマリアンヌに返事が出来ない。というよりも、マリアンヌに会う方法すらわからないのが現状だった。もう打つ手がないもなにも、最初から手などないことに気づき落ち込んでしまう。
うんうんと呻っていればパメラに具合が悪いのかと心配される始末であり、これ以上パメラに心配をかければ、キースないしユマラに報告されることは間違いない。
どうしたものかと悩んでいた春陽の前にそれは現れた。
コツコツとなにか硬質なものが窓を叩く音。
チラリとパメラの様子をみれば、気づかなかったようで着々とお茶の準備を整えている最中である。
音をたてないようにそっと窓を開けると、円らな瞳と目があった。
「……カナリア?」
淡い黄色の羽に青い瞳をもった鳥は、ひょいっと春陽の差し出した指にとまった。
セフィロスにもカナリアはいるのだろうか、という春陽の疑問は簡単に解けた。
「ハル・シノミヤ。わたくしの声が聞こえて?」
カナリアではない。
言葉を話す小鳥にギョッとするも、可愛らしい嘴は聞き覚えのある女の声で喋る。
小首をかしげながら話す様は非常に可愛らしいが、それは春陽にとってさして重要ではない。
「あ、あの。どちらさまでしょうか?」
小鳥が言葉を話すことに大して驚かないとは、我ながら随分と馴染んだものだなと思いながら、突然話し始めた小鳥を見つめた。
「あら、わからなかったかしら。わたくしよ、マリアンヌですわ」
「え?えぇ!?」
思わず大声をあげてしまう。
これも魔法かなにかだろうかと、まじまじと小鳥を見る。
「ハル様?」
春陽はハッとして背後へ振り返った。
背後に誰もいないことにホッとするも、今の春陽の声がパメラにも届いてしまったようだ。
――ヤバイ――
「ちょ、ちょっと失礼します!」
慌ててガバっと両手で掴んだため、ピュイィと小鳥の苦しそうな声が聞こえたが、気にしている場合ではない。そのまま寝室へ続く扉を掴み、大きな駆け込んでシーツの下に無理やり押し込んだ。
「苦しいかもしれませんが、少しだけ我慢しててください」
言うが早いか、春陽は寝室から飛び出した。入ったときと同じように勢いよく扉を開けたのだが、目の前に立っていた物体にぶつかりそうになってよろけてしまう。
「……ハル様、如何なさいました?」
寝室を出ればパメラに不審そうな顔でむかえられた。
「べつに、なんでもないよ?」
そう言いつつも、ソロリと扉を閉めようとしたのがいけなかった。
「寝室になにか?」
「えっ!? っ本! 昨日読んでた本を探してたんだ。何処に置いたか忘れちゃって」
「本、ですか? そんなに慌てて? 昨日は確かイストニアの経済について纏めた本を読んでいましたね、つまらないと仰りながら」
「う、うん。でも、復習しておこうかなって、しばらくはイストニアに居るわけだし。覚えておくに越したことはないし」
「……では、部屋を探し残してはいないか確認いたします。失礼しますね」
更に怪訝そうな顔をしたパメラに、春陽は誤魔化しに失敗したことを悟った。一体なにがいけなかったのだろうか。こんなことならば、小難しいなどと文句を言わずに真面目に読んでおけばよかった。
パメラは春陽を押しのけ、つかつかと部屋へ入っていく。
本を探すとは言っていても、その表情は不審物を探すそれだ。部屋をキョロキョロと見回すと、パメラは一点で視線を留めた。
無言でその視線の先、つまりは寝台へと進めば、勢いよくその掛け布団はもとよりシーツごと剥ぎ取った。それはもう無駄に華麗に。
「あら」
一瞬で顔を青ざめさせた春陽だったが、その一言で我にかえると慌ててパメラに駆け寄った。
「いきなり何してるの!?」
「何もありませんわね」
パメラはいまだ寝台を見ている。
春陽も焦って寝台を見るが、パメラの言うとおりそこには何もない。
さっきシーツの下に押し込んだ黄色い物体の影がないことに春陽はホッと胸を撫で下ろしつつも、今はパメラを寝室から離すことが重要だと意気込む。
「ほら、寝台を探したって本は出てこないよ。それに間違えて侯爵に返す本に紛れちゃった可能性もあるし」
行こうと、パメラを促す春陽だったが、納得がいかないのか部屋を何度も見回している。
これには内心冷やりとした春陽だったが、結局何も見つけられなかったパメラはしぶしぶと寝室を後にしたのだった。
結局、春陽の探していると言った本をパメラは部屋の片隅に放置された本の山から見つけ出し、素晴らしい笑顔で春陽に手渡した。
「見つかって良かったですわね、ハル様。しっかりとお勉強下さいね」
ハイ、と言って渡された本は、微塵も興味が湧かない経済に関してだったが、春陽は泣く泣く受け取るしかなかった。パメラの目がキラリと光っていたのは決して春陽の気のせいではないだろう。
その日、春陽がパメラからやっと解放されたのは日も沈み始めた夕刻だった。
何だかんだでパメラは美味しい香茶を入れなおしてくれた。そしてそのまま春陽の頭では到底理解不能と思える『イストニアの経済発展とそれに伴う事業改革』を、訳の分からないまま読み進める春陽の傍らでニコニコと微笑んでいた。
夕食の準備をする時間になるまでそれは続いた。
脳の過重労働で魂が抜けかけていた春陽を正気に戻したのは、寝室で鳴き暴れ始めた彼の小鳥だった。
よろしければ感想下さい。泣いて喜ぶくらい励みになります(笑)