表と裏
お久しぶりです、大変お待たせいたしましたが無事に更新です。誤字・脱字ありましたらお手数ですが報告お願いします。気軽に感想・コメント送ってください、待ってます。
「朝です、起きてくださいませ」
寝台に張られた紗幕を越して差し込む光が春陽を覚醒へと導き、ここ数日ですっかり慣れ親しんだ声が柔らかく春陽の耳をくすぐる。
「ハル様」
なかなか目を覚まさない春陽に焦れ、紗幕を越えてそろそろと春陽を揺り動かす。控えめなその動作は彼女のもつ女性らしい淑やかさと慎ましさがにじみ出ていた。
「パメラ、もうちょっとだけ……」
寝かせて、とは春陽の口内で音にはならず消えてしまったが、ここ数日の間に同じようなやり取りを繰り返したパメラは言わずとも春陽の言葉を理解していた。
「いけません、しっかりと起きてご朝食を食べていただかなくては。お薬も飲めませんし、お体だってよくなりません!」
パメラの言葉と共に、春陽の体から温もりが急速に去っていく。
春陽の寝姿は、まるで猫が丸くなって寝ている姿を彷彿とさせる可愛らしさがある。日本人の特徴として西洋人によく実年齢よりも幼く見られる傾向は、もちろん春陽にも有効だ。さらに虚弱体質で、体の成長が同年代よりも遅い春陽にはその傾向が顕著に当てはまっている。
パメラはか細くて儚げな少年が、寝起きを愚図っているさまが可愛く見えて仕方がない。
「パメラ~~、もうちょっとだけ。ね? お願い」
外気にあてられて寒いのか、更に身を丸めながら春陽はパメラにねだってくる。上目遣いで小首を傾げながら請うさまから動物を連想してしまうのは、なにもパメラだけではないだろう。
だがパメラにも譲れないものがあるのだ。仕方なしにパメラは心を鬼にして最後の手段に打ってでた。
「キース様がお待ちです」
春陽の体がキースの名前に反応してビクつくが、ここで情け心を出すわけにはいかない。
「三日前の朝をお忘れですか?」
「起きる! 起きるよ、うん。早起きって大事だもんね!」
先程までのまどろむ雰囲気はどこはへやら、勢いよく起き上がった春陽に上衣を手渡す。それは春陽がもともと着ていた上着ではなく、青い毛糸で編まれたものだった。少し大きめの上衣を気にも留めずに羽織ると、春陽は慌てて寝台から降りる。
「キースは?」
「すでに隣のお部屋でお待ちになっておいでです」
「ありがとう!」
パメラに礼を言うと、そのまま急いで隣の部屋へ駆け込んでいく。
その姿を見ると、ついホッと胸を撫で下ろしてしまう。最初、つまりは三日前を思い出しながらパメラはよかったと、心の底から思う。
『初めまして、ハル・シノミヤといいます』
寝台から上体だけを起こしてパメラに向かい合った少年は、フワリと花も綻ぶ笑顔を浮かべて言った。パメラはその笑顔に嫌な緊張を覚えてしまう。
少年はパメラに笑顔で応じてはいるが、その顔色は蒼白く生者とは信じられない。二つの相反する印象を持った少年は、本当にこの世に存在しているのか疑わしいくらい儚くうつった。
『これからハル様のお世話を担当します、パメルニア・エスタニシアと申します。どうぞパメラとお呼びくださいませ』
『うん、これからよろしくパメラ』
少年は華奢な手を差し出し、パメラもその手をとる。手は男の子とは思えない繊細な手をしていて、そのか細い面影からもパメラの保護欲やら母性本能やらをくすぐるには充分過ぎた。ふつふつと湧き上がってくる庇護欲を抑えもせずに少年の手を両手で握りこむ。
『御用の際は、いえ、御用が無くとも気軽にお声をかけてください!』
驚いて目を丸くした少年は、一瞬後にそれはきれいに笑った。
ありがとう、と。
その言葉ひとつで、その笑顔ひとつで充分だった。それだけで誠心誠意仕えようと思えるだけにはパメラの心を掴んでしまった。
だからパメラはいそいそと朝食の準備をするために少年の部屋から出て行く。寝坊したが最後、少年の朝食は彼の主人がきれいさっぱりたいらげてしまっただろうから。
きっともうすぐ彼の悲壮な怒鳴り声が響くことだろう。涙目になってキースを怒鳴りつける少年の姿が浮かび、クスクスと笑いがもれる。
儚くも可愛らしい少年を想いながらパメラは厨房へと足を向かった。
***************
ああ、忘れもしない三日前。それはアシュレイがイストニア城を発った翌日の、それは素晴らしい朝だったと思う。世界でただ一人、春陽にとってそれは当てはまらなかったのだが。
春陽は思い出したくもないあの朝の出来事が頭に浮かんだが、それは頭の片隅に追いやり、きっちりと頑丈な鍵をかけ、キースと朝食が待っている隣の客室の扉を開いた。
「おはよう、キース!」
春陽に用意された部屋とほぼ同じ内装をほどこされた客室には、焼きたてのパンの芳ばしいにおいと、紅茶の香りが充満している。
「おう、遅かったな」
テーブルに用意されたはずの二人分の食事は残りわずかだ。
「あーーっ!」
毎朝きっちり二人分を用意してもらっているのだが、春陽が少しでも寝坊しようものなら用意された食事の丸ごと全部を食べてしまうのだ、このキースという青年は。身長は高いが、けっして太くはない体のどこに二人分の食事が入るのだろうか。
「ちょっと! なんでいっつも人の分まで食べてんのよ!? 自分の分だけで我慢しなさいよ!」
「どうせすぐにパメラがもってくるだろ? お前こそ毎回そんなに騒ぐな」
「そういう問題じゃないのよ! 人の食事にまで手を出すその根性が問題だっていってるの」
「確かに問題だな」
ちぎったパンを咀嚼して飲み下すと春陽の言葉に肯きをかえす。
一体なんだろうか、いままで春陽が何度も抗議を繰り返しても反省の色はみえず、むしろ右から左へと聞き流している節があったのだが。
「な、なによ、今日はやけに素直じゃ――」
「それだ、その言葉遣い」
「はぁ?」
「お前のもの覚えの悪い頭でも分かるように、何度も何度も、それはもう懇切丁寧に教えたにもかかわらず、なんで女言葉がぬけないんだろうな、ハル・シノミヤ?」
「うっ!」
「いいか、お前はここでは男なんだぞ? 言葉遣いには気をつけろって何度いったら直すんだ。ここにパメラがいなくてよかったな、いたら実力行使で口を塞いでるところだ」
整った顔立ちで、おなじみになった憎ったらしい皮肉を吐く。加えて春陽やキースの事情を知らないパメラや他の人たちには大きな猫をかぶっているものだから、嫌味やら皮肉やらの対象は春陽やラザルード、その他の数人に絞られている。
キースの小言や嫌味の種にされてはたまらないので、意識して女言葉を使わないように話す。
「これでも努力はしてるんだけど、癖になっちゃってるから難しいんだよ」
「癖でもなんでも直せ。いまはパメラやその他の数人だけとしか顔を合わせていないから助かっているが、これからは城で働く大勢の人間と接することになるんだ。ハル・シノミヤの正体がばれて実験動物になってもいいなら構わないがな」
「それは嫌だ!」
「じゃあ直せ、死ぬ気で直せ。もともと頭のネジなんて有って無いようなもんだったんだ、いい機会だからきっちり締め直すんだな」
「……ご丁寧にありがとう、お礼に私からも一つ忠告してあげる。キースはその遠慮も思いやりの欠片もない話し方と、鉄面皮はひかえることをお勧めするよ? そんなだと恋人なんか一生かかっても出来やしないし、奇跡が起きて恋人が出来たとしても、せいぜい逃げられてお終いだね! 断言できる!」
ここ数日でキースの嫌味に対する免疫がかなり上昇したと思っていた春陽だが、それではまだまだ不十分だったことに今更ながら気付いた。キースに嫌味で返したあと、室内の温度が下がったことで我に返るようじゃ駄目だ。それでは春陽自身にも被害が出てしまう。どうせ反撃するならば被害にあわないように避難して安全圏からだ、無駄にいい頭を惜しげもなく嫌味につぎこむキースは反撃にも容赦ないのだから。
「……ほう?」
――後悔先に立たず――
日本には素晴らしい格言が数多くあるというのに、人間はいつまでも学ばないものだ。それが人間の本質だからなのか、人間の性質を訓示したものが格言だからなのかは分からない。だが確実に地雷を踏む人間は一向に減りはしない、それは変わらない現実である。そして春陽もそのなかの一人に間違いなく数えられる。
口元にはこんだカップを離しながら目を眇めたキースは、室内の温度をグンと低くする。
“天然人間クーラー、夏は一家にお一人どうでしょう!? ”などと煽り文句が頭に思い浮かぶが、そんなお茶らけたことを言える雰囲気ではない。それ以前に、いくら室内温度が急激に下がるとしても、付随効果で最高に居心地の悪い空気と圧迫感、さらには寿命が数年縮まるような思いを強いられるのでは割に合わない。ぜひ我が家に! などとのたまう豪傑はまずいないだろう。
カチャリと、カップを陶器で出来たソーサーに戻した音はやけに大きく聞こえる。
美形が優雅に紅茶を飲む姿は目の保養になるものだが、キースのそれはまるで当てはまらなかった。不穏な黒い気配を漂わせているのだから当然かもしれないが、保養どころか目の毒にすらなりかねない。
「――チッ」
これから何を言われるかと思い身構えていた春陽は、突然の舌打ちにビクリと体が反応する。
キースといえば舌打ちと一緒にそれまで纏っていた黒い空気を一気に霧散しており、それまでが見る影もないほどごく自然に朝食を再開し始めている。
いったい何が起こったのかと春陽が目を丸くしていると、誰かが扉をノックした。
「失礼いたします」
無駄のない所作で部屋に入ってきたのはパメラだった。食事の乗ったカートを押して入ってきたパメラは、まさしく春陽にとって救いの女神だ。
「ハル様のお食事をお持ちいたしました」
「パメラ! ありがとう、助かった!」
色々な意味で、ということは黙っておく。
「いえ、ハル様のお世話を任された者として当然です」
「パメラ、あまりそいつを甘やかすな。ただでさえ使えないのに、さらに使えなくなったらどうしてくれる」
まだキースに使われたことなど一度としてないのだが、それはここで生活していく上での設定なので黙っておく。
「無理です。甘やかす云々は置いておくとしても、病み上がりのハル様が朝食を食べ損ねているのを見逃すことはできません。キース様もハル様の分まで食べるのは止めていただきたいですわ」
キース相手に堂々と渡り合うパメラはまさに勇者で、城中の人間を代表する希望の星である。いかに大きな猫をかぶっていようとも、キースに口ごたえできるのはパメラだけといえよう。
キースと会話しながらも次々と春陽の朝食を並べていく――まさしくプロフェッショナル――
「考慮しておく」
なにもかぶっていないキースならば、ここで辛らつな言葉を山ほど返してくるだろうが今は“考慮する”の一言だ。
食事を食べ終わったキースは、用意されていたナプキンで口元をふいている。
わー。いつもそんなんだったらいいのにと、キースのかぶった猫の大きさに呆れてしまう。こんなことを思いつつ、春陽はパメラが新たに用意してくれたパンをもそもそと咀嚼していると、パメラから視線を移されていた。
「それよりもハル」
キースの春陽に対する扱いは、もう完全に“ハル”という少年に対するものとなっている。男扱いされることはいささか抵抗があるものの、いちいち気にしていたらいつまでも始まらない。
「それ食べ終わったら侯爵様のところへ行けよ」
完璧な命令形、その上に決定事項なのだろう。春陽に断る隙も、疑問をぶつける隙も与えず席を立つ。
「俺は仕事で行けないからな、すぐに行くんだぞ?」
「……うん」
言うが早いか、さっさと扉を出て行ってしまった。
「なんだろう?」
「なんでございましょうねぇ」
ラザルードからの用件も言わずに出て行ったキースには聞きたくとも聞けない。春陽は仕方なく出された食事を片付けることに集中した。
***************
太陽の日差しが一片たりとも差し込まない暗く湿った場所、男はそこにいた。
風通しがよほど悪いのだろう、淀んだ空気とかび臭さが鼻につく。水滴が落ちる音が響くことから、それなりに広い空間が在ることは分かるが、実際にどれくらいの空間が広がっているのかは分からない。
男がここに来てからどれくらい日にちが経ったのかは分からない。感覚を狂わせるためだろう、生きるために必要な最低限の食事は、出す時間を変えているようだ。
「毎回ご苦労なことだとは思いませんか、将来有望な“死神”さん?」
音も気配もなにもしなかったが、ただひとつ男の体に纏わりつく鬱陶しい空気が変わったのを先程から感じていた。わずかだが、ほんの少しだけ緑の匂いがしたのだ、かび臭さのなかに。
「元気そうだな、もう少しは弱っているかと思ったんだが」
「そうですか? 貴方は案外目が悪いようだ。この私の状態を見て“元気そうだ”などと言えるなんてね」
そういうと男は自らの両手を突き出した。男の腕が動くと、一緒にジャラジャラと鎖も一緒に動いて音を立てるのだ。
「生憎と暗くて視界が悪いんだ、目を凝らしてまで貴様の姿を見たいとは思わない」
「つれないな」
「お前が置かれた状態は分かっているがな。どうだ、最重要犯罪者用の牢獄に入れられた気分は」
この地下深くに造られた最重要犯罪者用の牢で、灯りはキースが手にしている燭台の蝋燭だけだ。そのわずかな灯りでさえ、目隠しで視界を覆われている男には届かない。
男は両手両足を拘束され、さらに鎖で繋がれている。目は皮製の目隠し、服も指先の自由が利かないよう拘束服を着せられた男は、ニヤリと口元を歪ませた。
「最悪だね。体の自由はきかないし、第一ここはかび臭いですからね」
「いつまでその余裕が続くか見ものだな、ムーラ・シュトラール」
呼ばれた名にわずかに反応するも、動揺は一瞬で収まる。
「その名前で呼ばないでいただけますか、捨てた名前で呼ばれるのはあまり気分がいいとはいえない」
「名前は簡単に捨てられるものじゃない。捨てたつもりでも“名”はついて回るもんだ、それこそ死なない限りな」
「いいえ、死んだんですよ、ムーラ・シュトラールは。ここにいるのはギゼルだけです」
「そう簡単に死んでもらっては困るな。大罪人、元シュトラール家当主ムーラ・シュトラール、罪悪感はないのか? 二十年前、貴様のせいで一族郎党国を追われ近親者はすべて死刑となった。お前は自業自得だろうがな、なにも知らず死刑になった妻や子、母親や父親はどう思ったことやら」
「やめろ」
「それまでは貴族として裕福に暮らしていただろうに、突然それらを奪われ、囚人になり下がった。さぞお前を恨み、憎みながら死んでいったことだろうな?」
「やめろと言ってるだろう!?」
「本当のこと、だろう? お前だけが生き延びた。シュトラール伯爵家は取り潰され、その名は忌避されるものとなった。すべてはお前が元凶だ、それを逆恨みとは傲慢も過ぎたものだな」
キースの口調は抑揚無くただの事実、それを語った。なんの感情も込めず過去の惨事の記録を読み上げただけだ。だがその声にはムーラに対する侮蔑、蔑みの感情が冷ややかに込められていた。
「もう三年前になるか、かの犯罪組織の幹部が王都に潜んでいると情報で調べたら驚いたよ。二十年前に行方をくらました大罪人、元シュトラール家当主がいたんだからな。追っ手に脅え、どこかに隠れ住んでいるかと思えば懲りもず犯罪に手を染めていたとは、殺された身内も浮かばれないな」
「……何度も言わせないでくれるかい、黙れ」
怒りで声を震わせながらも、ムーラははっきりと言葉を紡ぐ。ここで怒りに任せて激昂することは簡単だが、それは相手の思う壺だということも理解していた。だからこそ怒りに蓋をしなければならない、ムーラ自身の身を守るためにも。
「まだまだ余裕のようだな、上出来だぞ? 身体の自由に加え視界まで奪われているんだ、大概は短時間で発狂するものなんだがな。まあ、どんなに意志の強い人間でも徐々に狂い、最後には自我を失い廃人になことに変わりはないが。お前はいつまで持つかな」
悪辣で辛辣。感情のこもらない、冷たい声音は大抵の人間が恐怖するだろう――命を刈り取ることを全く躊躇しない“死神”なる存在の声を体現しているかのようで。
「ずいぶん饒舌なんですね、“死神”さん。一囚人でしかない私を相手にしている暇があるんですか? なんど足をはこぼうと私は何も話しませんよ、時間の無駄です」
「いまに自分から話したくなるさ、その為だけに造られた牢獄だ。人間は所詮いつまでも苦痛に耐え続けることはできない。先に待つものが“死”だとしても、それが苦痛からの解放の唯一の手段だとなれば喜んで受け入れる。やっと解放されると、な」
「悪趣味な牢もあるものですね」
「牢に悪趣味もなにもないだろう。趣味のいい牢など無価値で無意味なものだ、存在意義を否定しているのだからな。人から希望を奪う存在であってこそ、恐怖を与えるものだ」
二人ともが話したい、訊きだしたい事柄を避けて会話しているが、二人にとってそんなことは関係なかった。お互いがお互いの目的を正確に理解しているのだ。
「……私も脅えていると?」
「時間の問題だろう、あとは蝕まれるのを待つだけだ」
この牢には何の気配もない、あるのはムーラ・シュトラール一人の気配だけだ。食事を運びに来る人間はいても、見張りの人間はいない。食事を運ぶ人間も徹底して教育されているため、ムーラは話すことなどなくなっていた。ただ孤独に時間が過ぎていくのを感じるだけ。
風の匂いも、水音も、光の暖かさも、自然の気配も全てを遮断された“無”の空間こそが、ムーラが囚われた牢だ。ただ囚人を捕らえておくためだけに、絶望を与えるだけに造られた。その空間のなかで自我を保つことは難しい。
「……不愉快だね、私を見極めたつもりとは」
「そうかな? 案外見誤ってるのはお前のほうかもしれないぞ」
これは綱渡りのゲームだ。
ムーラの自我が壊れるのが先か、かの組織の陰謀を死神が止めるのが先かを賭けたゲーム。先に足を踏み外した方が大きな代償を払うことになる。
「まあ今日はこれくらいでかえるさ、どうやら機嫌も損ねたようだしな」
「止められると思わないことですね」
「最初に言っただろう、“嘗めるな”と。止めてやるさ、絶対に」
キースは踵を返すと後ろを振り返らずに足を進めた、この牢にもう用はない。
時間との勝負なのはムーラ・シュトラールだけではない。組織の幹部であるムーラが計画に失敗して捕まったとなれば、必ず組織は動く。ムーラ・シュトラールを助けるためではなく、報復と反撃、そして失敗した計画を再行するために。
「どうでしたか」
地上の光がみえたところで若い男の声がキースを呼び止める。キースよりも若い男はまだ二十歳を越えてはいなく、青年と呼ぶには幼さが残った顔立ちをしている。よく見知った青年にいつもの明るい笑顔はなく、表情は緊張を隠しきれていない。
「まだ無理だな、この方法しかなかったとはいえ時間がかかり過ぎるな。こうなったら地道に情報を集めるしかない」
「どうしても吐きませんか?」
「無理だな、死ぬまで痛めつけようと何も話さないさ。むしろ喜んで死ぬだろう」
苦虫を噛み潰すような苦々しい表情が切迫した事態を物語っている。
少しでも情報を集めるためにムーラ・シュトラールに会いに来たはいいが、尋問できるとは思えなかった。拷問して情報を吐くくらいなら簡単に済むが、情報を漏らすくらいなら死を選ぶ人間が少なからず存在する。まさにムーラ・シュトラールはその類の人間だ。自らの目的のために他人の命を奪うことを躊躇わないその傲慢、横暴さを持っている。その手の人間は目的のためならば自らの命など簡単に差し出すし、差し出すことを厭わない。
だからこそキースはムーラ・シュトラールの精神を壊すほうを選んだ、いや、選ばざるを得なかった。喜んで命を差し出そうと、彼ら自身の概念が崩壊することを許せるとは思えない。彼らは自尊心の塊だ。誇りを持って死ぬことには耐えられても、その誇りを奪われることを善しとしない。揺さぶりをかけるなら、そこしかないのだ。
「拷問をすればするほど、こちらが何の情報も掴んでいませんと言っている様なものだからな。奴を喜ばせて死なせる必要はない」
「では虱潰しですね、一番被害が出そうな王都を中心に情報を集めてみます」
「たのむ、苦労をかけるな」
青年の顔に疲れの影が見える。一から情報を、それも主要都市全ての不審情報を集めなければならないのだ、森の中からたった一つの木の葉を見つけろと言っているようなものだ。おびただしい量の情報を処理し、その中からムーラ・シュトラールが属す組織だけを掬いあげる作業が青年を待ちかまえている。青年の膨大すぎるだろう仕事量を考えると、いっそ憐れに感じる。
「いえ、キース様がお気になさることではありません」
「そう言ってもらえると助かる。それと手の空いている者はもちろん、国内に散った断罪者の全員に奴らの情報を集めろと通達しておいてくれ。少しでも不審な動きがあれば漏らさず報告すること、これを最優先事項とし俺の名で発令しておけ」
「わかりました。それでキース様はどうされるのですか」
「俺か? 俺はイストニアでお姫様のお守だよ」
溜息混じりにキースはイストニア城にいる異界の少女を思い浮かべた。
「姫、ですか? イストニアというとラザルード侯爵家ですね。一人娘がいたと記憶していますが、その方ですか」
「違うな。じゃじゃ馬、もしくはお姫様だな。まあ気にするな、そのうち分かるさ」
春陽の存在は隠そうとしても隠せるものではない。とくに断罪者と守護者には報告せざるを得ないが、いまは時期ではなかった。
少女のせいではないと頭で理解していても、犯罪組織の破壊活動が迫っているこの時期に行動を縛られていることに、どうしても苛立ちはつのる。
「俺はいま余程の事態にならない限りイストニアを離れられない」
キースは自分の配下である青年に真剣な眼差しをむけた。険しい瞳のなかには青年への確かな信頼が浮かんでいる。
「ルカ、絶対に阻止するぞ」
「当然です」
ルカはキースに向けてしっかりと微笑んだ。
ルカは断罪者にしては若すぎるほど若いがその実力は確かであり、キースが信頼するに値する実力と誇りを持っている。その彼が揺るがないのであれば心配する必要はない。キース自身が指揮を執らなくとも大丈夫だと安心できるくらい、ルカは有能だ。
「任せたぞ」
そう言うとキースはルカに背をむけた――躊躇いもなく背をむけることができるのはルカを信じているから。キースにはキースのやるべき事がある、ルカにしなければいけない事があるように――
近くの木に繋いでおいた青毛色の馬に飛び乗り、まっすぐイストニア城へ足を進めた――キースを縛った少女のもとへと。
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