意外な原因
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「三日です」
アシュレイは春陽の目の前に指をみっつたてながら言った。
「三日間も意識が戻らなかったんです、なにか思い当たるふしが有るはずでしょう?」
「うっ」
春陽が言い逃れなどしないようにしっかりとその視線を合わせながら。
そして止めの一言。
「それともユマラ師が下した診断を一言一句漏らさずに話してさしあげましょうか」
――全て知っているんですからね、とっとと包み隠さずに話してもらいます――
完全無欠の素敵過ぎる笑顔からは盛大に副声音が聞こえてくる。
とても言い逃れできる状況ではないと、春陽は瞬時に悟る。日本にいた頃は三日間寝込むくらいはざらにあったので春陽にとっては大したことでもないのだが、それを心配してくれた、心配をかけた人に言うほど無神経でもなかった。
「……心配かけてごめん、迷惑をかけるつもりじゃなかったの」
「迷惑とは思ってません。私が聞きたいのはなぜ言ってくれなかったのか、です」
キースは黙ったまま窓辺に佇んで瞳を伏せてはいるが、それでも春陽とアシュレイの話に耳を傾けているのがわかる。なにも言わないがキースにも少なからず心配をかけていたのだろう。部屋に入ってくるなり嫌味を投げつけてはきたが、春陽をみる顔には安堵の色を浮かべていた。
「……言えないじゃない」
二人に予想以上の心配をかけてしまった後ろめたさから、どうしても声は小さくなってしまった。
「言えるわけがない」
尻すぼみになる春陽の言葉はアシュレイの表情を曇らせるのには十分な威力を発揮した。弱々しくもしっかりと春陽の言葉はアシュレイの耳に届いた。その言葉はアシュレイを、キースを、そしてこの世界を拒絶した言葉だった、たとえ春陽にその意志がなかったとしても。
「……私達が信じられない?」
柳眉を下げながら哀しげにアシュレイが問いかける。
「それとも私達を憎んでいる?」
「……っ」
事故とはいえ春陽がセフィロスに迷い込んでしまったのは彼らの責任でもある。“事故”とはセフィロスに生きる彼らの事情であり、全くの無関係である春陽にすれば迷惑もいいところだ。迷惑で済めばむしろ良い方だろう、むしろ憎まれてもおかしくないくらいだ。
アシュレイの言わんとするところが瞬時に分かったのだろう、春陽は言葉に詰まってしまう。アシュレイの哀しげな顔を見てしまったから、そして彼が哀しい考え方をしていたからだ。
全く憎んでないと言えば嘘になる。確かに春陽のなかには彼らを恨む気持ちは存在するし信じきれなかったこともあるが、決して彼ら二人を憎んだからではない。むしろ――
「違うっ!!」
否定の言葉は思わず強いものとなってしまった。だがそんなことに春陽はかまっていられない。
「それは違うよ! 確かになんで私がこんな目にって思うけど、アシュレイキースにもどうにも出来なかったことなんでしょう? 二人を憎んでるなんてありえない!」
「そうですか」
アシュレイは先程からの張り詰めた空気を和らげると、ホッと陽だまりのような暖かい笑顔を浮かべる。反則級に破壊力のある笑顔を間近で捉えてしまった春陽は真っ赤に頬を染める。
「わっ私は二人に負んぶに抱っこは嫌なの」
はぐらかす為に無理やり喉から声を絞り出したため、声が裏返ってしまう。
「私ね、生まれたときから虚弱体質で歳を重ねるごとに酷くなってきてたの。最近では心臓も弱ってきてて、担当医があと数年の命だって言ったのも聞いたわ。だから体に負担をかけ過ぎれば熱を出したり、発作を起こすことも私には日常的だった」
「だったら尚更じゃないんですか? なんで私でもネイカーにでも言わなかったんです、命に関わることでしょう」
「だからよ。ほぼ初対面で、それも厄介な小娘。それが今の私でしょ? どうしたって言えないし、頼れないよ。怖いんだよ、見放されたらって。だから寄りかかることなんて出来なかった、助けてって言うことも出来なかった。今まで私を支えてくれてたのは両親だったの。二人はなにがあっても私を捨てたりしないって確信があった、私が二人を大切に想ってたように、二人に愛されてるって確信してたわ。だから頼れたの」
ここは春陽の世界じゃない。ここでは一人っきり。
その想いが春陽の心を占めている。
「帰りたいっ! 時間がないのよ! どうせ死ぬなら故郷で、父さんと母さんのところがいいの、一人でなんて死にたくない! 当然でしょう!?」
悲痛な声が部屋に響く。
「でも先が短いことを知ったら私が帰る方法を探すのを止めてしまうかもしれない、帰っても帰らなくてもすぐに死ぬ人間のために努力してくれるか分からないじゃない。知り合ったばかりの他人のために努力する義務なんてない、他人の命を背負う危険を冒す必要なんてないんだもの。命は背負う覚悟がある人にだけ預けられるものよ、私はそんな人知らないもの。私じゃ負担にしかならないの、重荷は、足手まといになるのだけは嫌だったの」
泣いてないのが不思議なくらいだった。すでに泣くことを諦めているかのような春陽の様子は痛々しく、その存在そのものが儚くみえる。
「責任です」
顔を俯けた春陽に言い聞かせるようにアシュレイが言葉を放つ。優しく、柔らかく、まるで愚図る子供をなだめているようだ。
「私とネイカーには責任があるんです、ハルヒを元の世界に帰すという責任が。それは重荷でもなんでもありません、義務、使命でも何でもかまいません。ハルヒを帰すまであなたの命を背負う覚悟くらいありますし、背負ってみせます」
アシュレイの言葉はハルヒにとって以外だった。
ゆっくりと顔を上げれば少し困った顔をしてアシュレイが春陽を見つめている。
「頼ってください」
アシュレイの優しさは春陽の心にゆっくりと、柔らかな暖かさを灯す。
キースとアシュレイに頼れるだけの理由が、信頼も、親しさもなにもない、知り合ったばかりの他人に頼れないと言った春陽には優しすぎる言葉だ。
なにもないなら理由を造ればいいと、理由なんて幾らでも造れると。だから頼れと、アシュレイは言っている。
「ハルヒは確かに異界の人間だし、お互いのことをまだ何も知らない赤の他人と言ってしまえばそれまでです。ですがそれは“今”だけのことです。ハルヒが私達を頼らないで誰を頼るんですか、甘えたっていいんです」
小さい子供に言い聞かせるように、ひたすらに優しきく、どこまでも優しさを含んだ声は、ただ一人の少女に向けられる。誰も、何も、世界すら知らず、孤独に脅える少女に向けて。
「ハルヒは決して一人じゃ、孤独なんかじゃありません。ここに少なくとも一人はハルヒの力になりたいと思う人間がいるんです」
言いながら自分を指差したあと、アシュレイはチラリと窓辺のキースを目線だけで捉えると茶目っ気たっぷりに言う。
「どこぞにもう一人くらいいそうですし」
その言葉に明らかにムッとしたキースに構わずアシュレイは続ける。
「だから一人ぽっちだなんて言わないでください」
春陽は明確な線引きをしていた。
ここは自分のいるべき世界じゃない、だからこちらの人たちとは深く係わり合いにはならないし、親しくするなんて論外だと。春陽にはここじゃない別の帰るべき場所があって、そこで待っていてくれる人たちがいる。必ず訪れる別れがあるなら、深入りはしない、そう決めていた。
「……ずるい」
それなのに、こんなに優しい言葉を、心を向けられたら。
「こんなの優しすぎる」
アシュレイは春陽が引いた線などいとも容易く飛び越えてきてしまった。
「そうでもありませんよ?」
「知ってる」
春陽以外に見せるアシュレイの顔は優しいばかりではない。キースやラザルード、その他に見せた毒舌腹黒な一面を思い出して、笑ってしまう。
「ではこれも知っていますか?」
ニヤリと口の端だけを上げて笑うアシュレイは、目を悪戯が成功する前の子供みたいに光らせている。
「ハルヒはそう簡単には死んだりしません」
「え?」
アシュレイは春陽の怪訝そうな顔を見て満足そうに頷くと、ゆっくりと話し始めた。
春陽が倒れこんでいた三日間のことを。
***************
「どこから連れてきたんです、こんなお嬢さん」
羊皮紙に手を置きながらユマラはまるで珍妙なものでも発見しかのように言った。
「どんな特殊な環境で育てばこんな体になるのか知りたいもんだね、まぁ教えてはくれんだろうがな」
ユマラはアシュレイとキースをチラリと視線だけで伺うが、すぐに無理だろうと判断する。険しい表情を浮かべているアシュレイはもちろんのこと、キースも僅かに顔をしかめたのだ。その答えは察するに容易い。
「で? ハルヒの容態はどうなんですか。まさか分からないなんてふざけたことぬかしませんよね?」
「君はほんっとーにせっかちだな、短気は損気、長生きできんぞ」
「余計なお世話ですね、だいたい無駄に長生きして耄碌するよりはましです」
「やめろ、話が進まない」
アシュレイの態度は未だ軟化する気配をいっこうに見せない。春陽を助けるためとはいえ、ユマラに頭を下げたのは奇跡だったのかもしれない。
「さっさと状態を説明してくれないか、時間が惜しい」
「少し長くなるがよろしいか?」
「かまわない」
ユマラはアシュレイも無言で頷いたのを確認すると、今までの飄々とした態度を改めて話し出した。
「はっきり言うと、このお嬢さんの状態は良いとは言いがたい。まず深刻なのが心臓だね」
「患っているんですか?」
「いや、そうではない。弱っている、が一番しっくりくるね。この状態では日常生活にも支障が出ていたんじゃないかの。それにな現時点で心臓が最も深刻な問題ってだけで、その他に問題がないわけじゃないんだ。体中のあらゆる機能が衰弱しているんだ、このままだともって数年しか生きられないだろうね」
「そうは見えなかったが、衰弱している原因はわかるのか?」
「原因ねぇ、それなら目の前で見ているだろう?」
ユマラの視線を追うと、春陽がぐったりと横たわる寝台を取り巻くエーテルが二人の目につく。
「まさか、エーテルが?」
「勘違いしなさるなよ? 君が見ているのは原因が引き起こした結果であって、原因そのものじゃない。エーテルがお嬢さんの具合を悪くしている原因の一端であることは間違いないが、その状況をきちんと理解することが先決だよ」
アシュレイの気先を制して言う。
「お主らがお嬢さんに何も手をつけずにいたのは幸いだの、このエーテルを霧散させていたら命に関わっていたよ」
ギョッと目をむくキースとアシュレイをよそにユマラは淡々と真実だけを述べていく。
「このお嬢さんは人間が生きる上で当たり前にしていることが極端に出来ないんだよ。生きる上で必要不可欠なのはなんだと思う?」
「……環境、食べ物、いや――」
「エーテル?」
「生きとし生けるもの全てが世界樹の恩恵、つまりはエーテルを無意識に取り込んでおる。それは魔法師、魔術師に関わらず、全ての人間がね。当然だろう、エーテルは空気中に、自然の中に含まれているからね。それこそ意識して摂らなくても食事をすれば、水を飲めば、あるいは息を吸い込むだけで体に摂取されるんだ、通常なら」
「ハルヒはそれが出来ていない、そうなんですか?」
アシュレイが耳を疑りたくなるのも頷ける。世界樹は世界と世界を繋ぐ門でもあり、エネルギーの塊だ。そのエネルギーの恩恵から世界は成り立ち、生命を育むことが出来ているのだ。その世界の根源たるエネルギーは世界が、生命が存在するための基盤だ、それが世界の理であり掟でもある。基盤が成り立たなければ、その先が示すものは一つしかない。
「全く、というわけではない。極僅かだがエーテルを体に取り込むことは出来てはいるよ、だが圧倒的にその量が足りていないんだ、だから体のあらゆる機能が衰弱してしまって倒れたんだね。解熱剤と栄養剤を飲ませれば目を覚ますだろうが、それでは根本的な問題が解決していないから、またすぐ寝込んでしまうよ」
「治す方法は?」
「ん~、無くはない、ね。幸いお嬢さんは特殊な環境で育ったんだろう、無意識かだが本能がエーテルを集める能力がずば抜けて高いんだ。ひどくエーテルが希薄な場所で育ったんだろうね、ただでさえ少ないエーテルを体に取り込まなければならない、しかもお嬢さんが取り込めるのはほんの僅かな量だ。生き延びるためにエーテルを集める能力を進化させなければならなかったようだ」
「まさかこのエーテルはそいつ自身がが集めたってのか!?」
「そうですよ、お嬢さんが少しでもエーテルを体に取り入れるためにの。だからこのエーテルを散らしてしまっていたら間違いなく病状は悪化していただろうよ」
「なにが幸いなんです、エーテルを取り込めなければそれも無意味です。加えてこの濃度のエーテルを無意識に集めているなんて危険が大きすぎます」
ユマラの診断を聞くにつれ、アシュレイはその秀麗な顔を憂いに染めていく。ラザルードさえ動かすほどの影響力をもつ若者が、これほどまでに心動かす少女は一体何者なのかと考えてしまう。アシュレイ程ではないが、キースも少女の身を案じているのが伝わってくる。
「確かにこのままではお嬢さんの体は衰弱したままだし、このエーテルを放置しておくのも危険だの。だけどね、つまるところ問題は一つなんだよ」
「……ハルヒがエーテルを取り込めない、ですか?」
「聞いたことがない症状だが治るものなのか」
「最終的には治せればいいんだけど、わからないな。そういった症状がある人間は見たことがないんでね」
お手上げとばかりにユマラは肩をすくめてみせた。ただ治せるかどうかは分からないが――
「いいかい、今からすることはあくまでも応急的措置だ。お嬢さんが完全に治るわけじゃあないが、しばらくは持たせることが出来るし、日常生活を送るぶんには問題はなくなるはずだよ」
フ~っと紫煙を燻らせながら、ユマラはゆっくりと瞼を持ち上げる。身を投げ出したすわり心地のいい肘掛け椅子はギシリと音を立ててユマラの体重を受け止めていた。
先程まで一人の少女のために老いた身体に鞭打って眠る間を惜しみながら薬とアレを造っていたのだ、趣味の葉巻一本くらい楽しんだって罰はあたるまい。
少女が目を覚ましたときにはやっと人心地がついた気分だった。それまでは客室に行くたびに絶対零度の極寒の視線にさらせれ、無駄に神経をすり減らしていたのだ。
看護する側が倒れては意味がないと何度忠告しても少女の傍を離れなかったアシュレイは、少女が目を覚ますと別人かと思うほどに豹変した。それまでのピリピリと張り詰めた空気が一瞬にして溶けて、砂糖菓子のような甘い空気になってしまった。
『このまま目が覚めんかったら患者がもう一人増えるところでした』
アシュレイの変化に呆れ、ついつい嫌味をいってしまったのは止むを得ないだろう。それにしても歳はとりたくないもんだ、あれだけ急かされ、こき使われたというのにアシュレイと少女を生暖かい気持ちで見てしまう。
(まあ、あのお嬢さんはアシュレイ殿に問い詰められるだろうがの)
部屋に残してきた少女はユマラが言った意味をきちんと理解していないようだった。不思議そうにユマラを見上げてきたが、アシュレイからフォローする気力はもう残っていなかった。いくらか不憫に思いつつも、悪いことにはならないだろうと少女のために用意された客室をあとにした。
怒涛のように過ぎた二日間が頭を過ぎる。こんなに忙しかったのはいつぶりだろうかと、溜息をこぼすが悪い気はしなかった。医者として充実した日を過ごせたことには違いないのだから。
疲労困憊の身体を少しでも休めるため、ユマラはそのまま椅子に身を預けるのだった。
***************
春陽は聞いた内容に頭が追いつかなかった。セフィロスに来てからというもの、春陽がいままでに培ってきた常識というものが全く通用しなかったが、アシュレイからもたらされた話はそれ以上だ。
「確認しますがハルヒの故郷では魔法や魔術などは存在しないんですね?」
生まれてこのかた十七年、春陽の虚弱体質は原因不明であった。もはやそういった体質だとも思っていたが、まさか異世界でその原因が判明するなんて誰が想像するだろう。
「宗教的なやつとか、伝説なんかじゃ魔法は存在するけど、現実でそんな力を使う人なんてみたこともないわよ」
「ではユマラ師の診断どおりですね、悔しいですが流石としか言いようがありませんね」
「エーテルを体に取り込めるようになれば、普通の、丈夫な体になれるの!?」
ずっと春陽は耐えてきた、退屈な入院生活にも、苦しみにも、友人さえ作れなかった子供時代も。我慢することなんて当たり前すぎて、望むことは難しすぎて、いつしか唯一つの願いでさえ諦めてしまっていた。“生きたい”という至極当然の想いでさえ口に出せないほどに。
そんな春陽に唐突に訪れた希望はあまりに眩しすぎて、いつからか自分のなかに幾重にも厳重に鍵をかけたはずの想いをも照らし出してしまう。そして同時にその光は影をも色濃く浮き彫りにするのだ。希望を失ったときの絶望をも。
「ユマラ師が造ってくださいました、これを腕に嵌めてください」
差し出された手には銀色に鈍く輝く腕輪だった。腕輪の中心には小さな紅い輝石が存在を主張するかのように煌めいている。
「……この模様はなに?」
腕輪を受け取り、しげしげと眺めていると内側に幾何学模様が刻まれていた。それはちょうど紅い輝石がはめこまれた裏を中心として描かれているようだった。
「これは魔術陣です。この紅い結晶石を中心にしてエーテルを流すよう組まれています」
「結晶石? なんなの、それ」
「魔法や魔術を使うさいに媒体として用いられる輝石のことです、この輝石を使うことで術を安定させたり、効果を上げることができるんですよ」
なかなかに便利なものがあるものだと、春陽は感心して手の中におさまっている腕輪を眺める。こんなちいさな腕輪一つで春陽の体がよくなるとは俄かには信じられない。
腕に嵌めるのを躊躇っていると、アシュレイが春陽の手から奪い取って素早くはめてしまう。妙にしっくりとくる腕輪を眺めているとアシュレイが満足そうに話し出す。
「よくお似合いですよ。この腕輪はこれから何があっても、どんなときでも決して外さないようにしてください。ユマラ師が言っていましたが、これはあくまで応急的措置なんです。この腕輪によって春陽の体に無理やりエーテルを流し込んでいるんです、これさえ外さなければ日常生活に困ることはないそうです。ですが外してしまえばハルヒの体は即座にエーテルを失い、またいつ倒れるかわからないそうです。大事にしてくださいね」
「まだ半信半疑なんだけどね、何もしないよりはましだと思うことにするわ」
願うことに臆病すぎるほど臆病な春陽にしては上出来の部類に違いない。なによりも、春陽には譲れない決意があるのだから、それを実現するための努力は怠るべきではない。願いではない、ただ“帰る”という決意が春陽のなかにはあるのだから。
「それで充分です、もしも効かなかった場合はユマラ師をしめて、新しいものを造らせるので問題ありませんし」
ニッコリと笑うアシュレイの顔からは、表情とはとても似つかない物騒な言葉が聞こえた気がするのだが、あえて春陽は流すことにした。主に己の精神的平穏のために。
「まずは薬と栄養剤で体力を増やしていくことからですね、城で“界渡”の研究を始めるのはその後に――」
「まって!」
思わずアシュレイに割って入ってしまったがしょうがない、春陽の最優先事項の問題が後回しにされようとしているのだから。
「研究はすぐにでも始めようよ! 私の協力が必要なら何としてでもするから、お願い!!」
「駄目です。ハルヒの体力の回復を優先します」
「でも――」
「今回以上に体調を崩したらどうするんだ?」
それまでは黙って聞いていたキースが厳しい口調で言い放つ。
「また倒れて、何日も寝込んで、その分だけ研究は遅れるし、周りの人間にも迷惑をかけることになる。少しは考えてからものを言え」
反論の余地も無いほどの理詰めだ。今回だってアシュレイやユマラにも多大な迷惑をかけたことだろう、なにせ原因も分からずに倒れた春陽の看病をしなければいけなかったのだから。
「まずは体の調子を戻しましょう? 動けるようでしたら、城のなかを散策してもかまいませんし。もちろん一人は駄目ですけど、これからイストニア城で生活するんですし、ゆっくりと城に慣れるいい機会になると思いますよ」
「……わかったわよ」
春陽だってこれからお世話になるのに、我侭を言って迷惑をかけたいわけではない。アシュレイでさえ是とは言わないのだ、春陽が折れるしかないのは明白だ。諦めて春陽は首肯するしかなかった。
「これで安心ですね、なんの心配もなくイースへ行けますよ」
「――え? アシュレイどこかに行くの?」
「私も仕事の関係でここから西にあるイースへ一度戻る必要があるんです。事務処理なども含めると早くても二週間でしょうか、なるべく早く帰ってくるようにはしますが」
「に、二週間も?」
「はい、すみません。その間はネイカーがそばにいますので、必要なことは彼に聞いてください。くれぐれも言っておきますが、彼のそばを離れないようにしてくださいね」
印象最悪、無礼千万、デリカシー皆無の男と二週間も一緒に行動しろと!? 恐る恐るキースをみれば不機嫌なオーラを全開にした男がこちらを睨んでいる。不満があるのはキースだけではないというのに、全て春陽が悪いとでもいうように睨んでいる。
はっきり言おう、全くもって上手くやっていける自身などミジンコの毛ほどもない。
――行かないで――そう言おうとも思ったが。
「ハルヒが無事に目覚めましたので、今夜にも発たなくてはいけないんです」
そんなことは言える雰囲気ではなく。
「な、なるべく早く戻ってね?」
そう言うのが精一杯だった。
はいと、笑顔で答えるとアシュレイは時間が惜しいとばかりに部屋を出て行ってしまう。なんでも城で暮らす上での根回しを今のうちにしておかなければならないらしい。ラザルードがいる執務室で打ち合わせのあと、クレアと城を発つと言っていた。
今まではアシュレイが緩衝材になってくれていたが、この先二週間はキースと真っ向から会話しなくてはならなくなってしまった。一難さってまた一難、これが世の常とでもいうのか。春陽は今後を考えると溜息を抑えられなかった。
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