LINEのバースデーカード
自己肯定感の欠如とは、治療法のない病である。
LINEには自分の誕生日にカードを書いてもらえる機能がある。
誕生日をプロフィールに登録しておくと、友だち登録しているユーザーが自分にお祝いのメッセージを書いてくれるというものだ。
年に1回、カレンダーを見て自分の年齢を思い出す日に、友人たちからささやかな祝いの言葉をもらえるというのは喜ばしいことだと思う。
しかし、私はこれを健全に受け止めることができていない。
カードの数が増える度、自分のその醜い内面も、本質的には美しいものなのではないかと錯覚できるからだ。
私には誕生日を祝ってくれる友人がこんなにも居て、わざわざメッセージを書いてもらえる程には存在を認められているのだと、そう誰かに誇示できている感覚になるからだ。
画面をスクロールする回数が増えれば増える程、自分の価値を実感でき、名前の付けられない欲求が満たされるのを感じる。
その喜びを余すことなく平らげるため、1日が終わるまでに何回もメッセージ一覧を見返すのだ。
また、この機能は他人に贈られたカードを覗くこともできる。
メッセージの内容は覗けないこともあるが、そのカード数は数えることができる。
そして私は、誰かの誕生日が訪れる度に必ずそのカードの数を数えている。
友人であっても、年上であっても、殆ど言葉を交わすことのない関係の人間であっても、私は数える。
彼、あるいは彼女が、私よりも誕生日を祝われているのではないかと恐れを抱きながら。
そして私よりもカードが少ないことに安心して、愉悦を感じるのだ。
私よりも頭の良い人間、私よりも社交性のある人間、私にはない何かを持っている人間。
そんな人間を祝うカードの数が私よりも少ないと分かったとき、その愉悦もまたひとしおになるというものだった。
逆に私よりもカードの数が多かった場合には、全身を内側から蝕まんとする程の嫉妬に駆られて、結局はどうしようもない自己嫌悪に落ち着くのだった。
いつだってその黒い画面に写っているのは、
薄暗い部屋の中で食べ慣れたジャンクフードを貪り自分を慰める誕生日を過ごしている、豊かでも満たされてもいない虚しい男。
この生き物をどう形容しようとも、美しいとは語られることはないだろう。
私が歳を重ねることを祝われなくなったとき、または歳を重ねることを素直に喜ぶことができなくなったとき、もうオカズを手にすることはできなくなる。
その頃には、私は私を肯定できているだろうか。




