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2-1 ファティマが死んだ日

 走るよりも少し速い程度の速度で景色が流れていく。

 初めての幌馬車(ほろばしゃ)の乗り心地は最悪だった。お尻に柔らかいクッションを敷いていても痛い。貨物と一緒に荷台に乗せられているため、狭いしがたがたとうるさいのも嫌だ。

 腹いせに積み荷をつまみ食いしてやろうかと思ったが、ファティマが乗っている馬車にはぶどう酒しか載っていなかった。


 ゆくゆくは跡を継ぐ弟の補佐をするのだから、どのように隊商を率い商いをするのか、一度お前のその目で見ておきなさい――と言ったのは一代で富をなした豪商である父だ。他家と違い、娘の教育にも積極的だった。


「ねえさま、ファティマねえさま。馬車ゆれるね、すごいね!」


 先日八歳になったばかりの弟・ムスタファが薄い水色の瞳を輝かせて馬車の中で飛び跳ねる。父親と同じ、金に近い栗色の髪がさらさら動く。


 ねえさまだけずるい。ぼくも一緒に行く、と大泣きして無理矢理ついてきた。そのおかげで今回は家族総出での行商となった。

 両親は遅くにできた息子にとても甘い。かく言うファティマ自身も歳の離れた弟を甘やかしている自覚はある。


「ムゥ、危ないから座ってなさいって言われたでしょう」


 ファティマは怒った振りをしてムスタファを捕まえた。自分の膝の上に座らせて抱きかかえる。体温の高い小さな身体が愛おしい。


「ファティマねえさま、これからどこに行くの?」

「もう、何回それ聞くの。さっきも教えたでしょう。『ダハ集落』という所に食べ物を運びに行くのよ。そこにはとっても大きな鳥や獣がいるんですって。ムゥは小さくて可愛らしいからもしかしたら食べられちゃうかも」


 ファティマは意地悪く笑い、ムスタファのぷっくりとした頬をつまんでみせる。


「そんなことないですー。ぼく可愛くないし、おいしくないもーん」


 ムスタファは不満そうに足をばたつかせた。


 最初の異変は馬のいななきだった。

 聞こえてきたのは隊商の先頭の方。護衛の為に雇った傭兵と狩人がいるあたりだ。

 ファティマとムスタファが乗っている幌馬車は、もっとも安全な隊の中心にいる。


 数名の騎馬が幌馬車を追い抜かしていく。側面と後方の警護をしていた者たちだ。

 ファティマは空気が変わるのを感じとり、決して離れないようにムスタファを強く抱きしめた。


「ねえさま?」


 大丈夫。きっとお父様たちがなんとかしてくれる。だからおとなしく待っていよう、ムゥ。


 ムスタファにかけるはずだった言葉は、鼓膜を破るほどの咆哮にすべてかき消された。

 音の圧でびりびりと肌が痛む。恐怖という感情に直接訴えかけるような声だった。獣の鳴き声に似ている、けれど決定的に何かが違う。


 世界が反転した。

 内臓が強制的に持ちあげられ、胃の中身がせりあがってくる。

 荷台がひっくり返されたのだとファティマが理解したのは、外に投げ出された後のことだった。

 地面に打ちつけた背中が痛む。呼吸をするだけでも苦しい。目頭が熱くなり、勝手に涙があふれてくる。


 腕の中にムスタファの姿はなかった。

 擦れて赤く血のにじんだ両腕で地面をつっぱるようにして上体を起こす。

 周囲から、むせ返るような、アルコールと何かが混ざった匂いがする。今の衝撃でぶどう酒がぶちまけられたせいだろうか。

 何がどうなっているかわからない。だからこそ、早く見つけてあげなくては。


 何かとてつもなく大きなものが、倒れた幌馬車を執拗に踏みつけていた。

 かぎ爪のついた皮膜の翼。爬虫類を思わせる硬質な鱗に覆われた身体。先端にかえしのような内向きのトゲが生えた太い尻尾。頭部には螺旋状にねじれた角が天に向かって二本生えており、右角だけが半ばから折れている。


 この生き物の名前をファティマは知らない。だが見つかれば命がないことはわかる。


 硬直するファティマの耳に、か細い泣き声が聞こえてきた。

 安堵でなく絶望が心を満たす。弟が、あの鱗に覆われた生き物に見つかってはいけない。


 ファティマはもつれる足で駆け出した。

 泣き声は幌馬車の方からした。このままではムスタファが見つかって殺されるかそのまま踏みつぶされるかのどちらかだ。


 履いていた靴を脱ぎ、持てる力のすべてで投げつけた。猛禽類のそれをもっと巨大に凶悪にしたような足にこつんと触れる。

 鱗に覆われた生き物は緩慢な動きで頭をファティマの方に向けた。(わに)のようでも獅子のようでもある醜く恐ろしい貌。縦にスリットの入った眼がしっかりとファティマの姿を捉える。


(どうか逃げて。誰か、誰でもいいからムゥを助けて)


 がくがくと震える膝を抑えるように手を当て、ただ祈った。


 何かがファティマの身体をななめに引き裂いた。衝撃で身体が吹き飛ばされ、地面の上を滑る。生温かいものにぶつかって勢いが止まった。父親と母親が折り重なるようにして倒れている。見開かれた瞳は何も映していない。力の入らない手に触れた赤は、自分から流れる血なのか、父親と母親のものなのか。


 視界が薄く白い点で埋めつくされていく中で、鱗に覆われた生き物が何かを咥えるのを見た。

 か細い泣き声が咽喉が裂けるほど絞りだされた悲鳴に変わった。口からはみ出た短い手足がぷらぷらと揺れている。


(ああ、先に死なせて……)


 この時以降、神に祈ったことはない。



*****



 息苦しさに、自然とムゥの目蓋が開いた。

 ねばつく汗が太腿や背中をじっとりと這う。寝間着が肌にはりついて気持ちが悪い。目覚めたばかりだというのに動悸がする。


 部屋の小さな窓から朝の光が差しこんでいた。(ほこり)が舞ってきらきらと輝いている。

 最後に掃除をしたのはいつだったのか思い出そうとし、やめた。宿屋の女将にお金を渡して掃除をしてもらう方が部屋の衛生的にも精神衛生的にも良い。


 ムゥは服を乱暴に脱ぎ捨て、ベッドサイドにある年季の入ったチェストから清拭(せいしき)用の布を取り出した。布を三つ折りにし、心を落ち着かせるようにゆっくりと身体を拭いていく。動きに合わせて大きくせり出た胸が揺れる。


(やっぱり邪魔だな、これ)


 ムゥはなんの感慨もなく胸を下から支えるようにして持ちあげた。見た目相応に重量がある。

 狩猟のときはさらしで潰した上に、ブレストプレートで固定していた。息苦しさはあるが動きやすさの方が大事だ。

 いっときは本気で切り落とすことも考えた。胸が大きくとも欠け角のオルランドにつけられた傷跡のせいでほとんど利点を活かせない。左肩から右の腰骨のあたりまで赤黒い帯が走り、周囲の皮膚がひきつれたようになっている。これを見て()えなかったのは一人だけだ。


 何故死なせてくれなかったのだろう、と考える時期はとっくの昔に過ぎた。

 何もできなかった「ファティマ」はあの時に死んだ。今は二つ名を持つ飛竜「欠け角のオルランド」を殺すことを(よすが)とする狩人の「ムゥ」だ。


「ムゥ、起きているかい。あんたにお客さんよ」


 部屋の扉が無遠慮に叩かれた。声の主はこの宿屋を女手一つで切り盛りしている女将のクレメンスだ。


「はーい。すぐ行きまーす!」


(誰だろう。やな夢見たし、人と会うの面倒くさいな)


 愛想良く返事をし、渋々ながら服をまとった。

お読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なかなか凄惨な過去ですね。 死んだ弟の名を名乗り、狩人になった少女。 モンスター狩りを続けても、 彼女の復讐心は消えそうにないですね。 その辺の問題を今後どう描くか楽しみです。
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