1-2 どこもかしこも糞まみれ
「止まれっつってんだろうが犬畜生がよおおおっ!!」
また罵声が轟いた。声の低さと口調の荒っぽさから考えておそらく男だろう。
けたたましく枝が折れる音と、犬の吠える声もする。
ろくでもないことが近付いてきているようだ。次第に三つの騒音がはっきりと聞き取れるようになってくる。
ムゥが身を潜めていた茂みのあたりから大きな影が躍り出てきた。
狼と狐のあいのこのような巨獣だった。
毛並みは金色で、背中の部分にだけこげ茶色の斑点がある。体高こそ先ほどの巨鳥よりやや小さいが、刺すような眼光はどう見ても友好的ではない。おまけに、異常に発達した犬歯は真新しい赤い液体でぬらぬらと光っている。
(巨獣の生息域は乾燥地帯だったはず。巨鳥の死骸の匂いにつられて来たにしても遠出がすぎる)
先輩狩人に叩きこまれた知識がムゥの頭の中で巡る。
異変の足音が聞こえたような気がした。
(そんなことより、この状況どうしよう……)
基本的に、狩人は依頼された以外の巨獣を狩ることは禁止されている。
狩人を統括するコール協会は巨獣を殲滅するための組織ではない。大陸東部の限られた地域にのみ生息する、「体高二メートル以上で既存のものとは異なる性質を備えた生物」――通称「巨獣」の生態の調査・研究と、身体構成組織の軍事利用を目的としている国営の団体だ。
――ただし、人間の当然の権利として正当防衛は認められている。
ムゥは素早く足元の小石を拾い、シュービルの糞尿をなすりつけた。糞まみれの石をジャッカルの顔面めがけて投げつける。
きゃうぅんっという甲高く情けない悲鳴をあげ、ジャッカルは臭いを払うように顔を乱暴に振りまわした。人間にとってもキツいのだから、嗅覚の優れたイヌ科の生物ならばなおさらだろう。
石を投げたのとほぼ同時に、ムゥは鎚を握って駆け出す。グローブだけでなく柄まで臭くなるのは嫌だったが仕方がない。
一撃で仕留めるイメージをもって、相手の鼻柱に鎚を打ちつける。これで打撃面にも糞が付いた。今日は厄日だ。間違いない。
湿った何かが潰れる音がした直後、硬いものにぶつかって打撃の勢いが止められた。反動で鎚が跳ね返り、上体ごと持っていかれそうになる。ムゥはへその下に力を込めて踏みとどまり、身体のすべてを使って鎚を前方に振りおろす。
ムゥが体勢を崩している間にジャッカルは後方へと飛びのいていた。鼻が潰れた怒りで背中の毛を逆立て、牙をむき出しにして威嚇する。
不意打ちを浴びせたのにあまり効いた様子がない。
となれば、ムゥが取る手段は一つだった。
相手が倒れるまでひたすら頭をぶっ叩く。
打撃は効果がない、などとは考えない。
「鳥の羽むしって帰るだけの簡単なお仕事だったのに、よけいな手間かけさせんじゃあないわよっ!!」
ムゥは八つ当たり気味に吠え、鎚を握りなおした。柄の根本と端を持って腰だめに構え、猪にも勝る勢いで突撃する。
盾くちばしの件は完全に頭から抜けている。
ジャッカルは前肢で二度地面を蹴るとムゥにむかって飛びかかった。矮小な存在を嚙み砕いてやろう、とでも言いたげに口を大きく開く。
ムゥはすかさずジャッカルの口に鎚を差し入れた。がっちりと金属を咥えこんでしまいジャッカルは口を閉じられない。
さらに力をかけて鎚を口の中に押しこむ。ジャッカルはわけがわからず嗚咽を漏らし、よだれを垂れ流す。
「んー、これくらいじゃあ流石に顎は外れないか」
大真面目に無茶苦茶なことを言い、ムゥは鎚を引き戻そうとした。
しかしびくともしない。押しても引いても動く気配はない。
よく見ると、鎚に牙が食いこんでいる。どうりで初撃を弾かれてしまったわけだ。
「あらら」
状況に対して、ムゥは緊迫感のない感動詞を発する。
ジャッカルが唇をめくりあげ、にやりと笑った――ような気がした。
(本当にまずいかも)
ムゥが次の行動を逡巡しているうちに、ジャッカルは右の前肢を高く掲げた。鋭くはないが硬そうな黒い爪が生えている。人を殺すのに充分な速度でもって振りおろされる。
赤い血が宙に軌道を描いた。ムゥの顔をむごたらしく引き裂くはずだった前肢は、手根球から先の部分が消失していた。鮮やかに切られた断面から湧き水のように血があふれ、呆然としているムゥの頬を汚す。
異変と痛みを自覚したジャッカルは犬よりも弱々しい悲鳴をあげ、バランスを崩して失った前肢の方向に倒れこんだ。
鎚から牙ははずれている。
「二対一は卑怯だけれど、ごめんね」
ジャッカルの身に起こった一部始終を見ていたムゥは謝罪を手向け、慈悲なく鎚を頭に叩きつけた。
※手根球……人間でいうところの手首のあたりにある肉球のこと。