3-4 虎に翼
猛禽類の羽ばたきが聞こえ、狼煙も土埃も一気に霧散した。強い風圧によって砂や草が飛ばされ、ムゥの視界をさえぎる。
敵の姿を確認する前にイグニが動いた。
相手に向かってスプリングボックの生首を蹴り返し、それに追従するように、二つの剣を抜き放ちながら体勢を低くして走る。
黄色い体毛に覆われた、丸太のような太い前肢が生首を弾き飛ばす。肉球の間に格納されていた爪が飛び出し、角や骨ごとずたずたに引き裂いた。
「あー、これヤバいやつじゃんか」
相手を飛び越すように高く跳躍したイグニが気弱に漏らす。そんな言葉とは裏腹に、両手を広げるようにして迷いなく双剣で切り払った。巨獣の背に生えた、巨大な鳥の翼を。
速さも重さも備えたイグニの斬撃は羽を数枚散らしただけだった。
巨獣は不機嫌そうに羽ばたき、それだけでイグニの身体を押し飛ばす。予想していたのか、イグニは軽やかに着地して武器を構え直した。
見通しのいい草原に、降ってわいたかのように現れたのは、翼を有した虎の巨獣だった。体高こそ以前に戦ったジャッカルと同程度だが、広げた翼の分だけ巨大に見える。
翼以外にも通常の虎とは違う点が二つあった。
一つは、頭の横から前方に向かって湾曲した角が生えている。間違っても頭突きなどは受けたくない。
もう一つは、顎から立派な髭が蓄えられていた。胸部に届くほどの長さで、毛量も多い。元の色は白に見えるが、今はスプリングボックの鮮血でまだらに赤く染まっている。
「村一つ丸ごと食った、とかいういわくつきの二つ名の翼虎、『美髯虎キュウキ』だ」
巨獣とにらみ合いながら、イグニはその名を呼んだ。
ムゥの知らない名前だった。ランク3にならないと「二つ名」の討伐を受注できないため、オルランド以外の名を把握していない。翼虎自体も、目にするのは初めてだった。ムゥが活動できる範囲には生息していない巨獣だ。
二つ名だけあって、対峙しているだけでも寒気がする。
「ぴえんのQ子?」
「……仮にちゃんと聞き取れなかったとしても、自分の中で一考してから口に出しもらっていいか。キュウキだ、キュウキ。とりあえずそれだけ覚えて」
「わかった。とにかくその変な虎、腹立つから倒して帰ろう。こいつのせいでまた失敗した」
もはや原型を留めていないスプリングボックの生首を一瞥し、ムゥは武器の柄を強く握りしめた。イグニのおかげで簡単な捕獲方法がわかったため再度捕獲するのに苦労はないが、それはそれ、これはこれだ。溜飲はきっちり下げておかないと健康に悪い。
「一応、一回だけ止めとくわ。二つ名とはいえ、依頼外の巨獣の討伐は基本的に禁止されてる。それは知ってるよな?」
イグニはため息混じりに確認した。
キュウキに動きはない。こちらの様子を窺っている。尻尾だけが楽しげに左右に大きく振れていた。
「こんなド平原で空飛ぶ虎と追いかけっこして逃げきれると思う? それに、最初に手を出したのはイグニでしょう。私はあいつが咥えてた生首を殴っただけ」
「わかったわかった、最初から止める気なんて微塵もねーよ。狼煙を見て来る、不幸な協会の人が到着するまでにどうにかしねーとな!」
心なしかうきうきとした様子で、イグニは再度キュウキへと向かう。狩人になる人間は基本的にみんな戦闘狂だ。
瞬間、キュウキの全身の毛が逆立った。耳を伏せ、肩を怒らせ、牙をむき出しにする。人間の頭などたやすく噛み砕くほど大きく開いた口から、皮膚を震わせる咆哮が轟いた。
ムゥは反射的に耳を手で塞いでしまう。それくらいのことでは咆哮が身体の内側まで入り込むのを防げなかった。吐き気がするほど内臓を揺さぶられる。本能的な恐れを刺激され、身体がうまく動かせない。
(威嚇一つでこれか……!)
ムゥは耳に当てた手をどうにかずり下ろし、爪を立てて自分の頬を引っかいた。浅く血が滲む。痛みで意識がはっきりとする。
キュウキがこちらに向かってきているのが見えた。後脚で地面を蹴り、脆弱な存在を捕らえようと飛びかかる。
よけるのは間に合わない。しかしこのままでは牙と爪を真正面から受けることになる。
「咆哮対策くらいしとこうぜ」
相討ち覚悟で鎚を振りかぶろうとしたムゥの身体が、横から強い力で押し倒された。そのまま勢いでごろごろと地面を転がる。
キュウキの前脚は誰もいなくなった場所をえぐった。不満げなうなり声をあげ、獲物が転がった方向へと首をゆったりと動かす。
「いいや、次は吠えさせない」
ムゥは倒れた時に手放してしまった鎚を素早く拾い、キュウキに殴りかかった。狙うのは当然頭だ。
キュウキはじゃれるように右の前脚を振り上げた。鎚が当たる方がわずかに早い。だがそれで怯まなければ、爪で引き裂かれた生首と同じ運命を辿る。
鎚の平らな面が角と接触した。軽い手ごたえとともに角は砕けたが、そこで衝撃が阻まれた。思ったようにダメージが入らず、キュウキは怯まない。
「捨て身特攻って初手からやるもんじゃねーからな!」
振り下ろされた前脚をイグニが双剣で受け止めた。意外に腕力もあるようだ。分厚い肉球を切り裂き押し返す。最初からカバーに入るつもりでなければ間に合わない動きだ。
「ありがと。信じてた」
「嘘つけ」
「あたり。嘘」
「少しは期待させろよ。来るぞ」
軽口を叩きながらムゥとイグニは別々の方向へと回避行動をとる。
次に標的にされたのはイグニだった。赤髪に黄色のマントという目立つ色彩が巨獣の視角を刺激するのかもしれない。
なんとなくそうだろうな、と思っていた予想が当たり、ムゥは小さく吹き出してしまう。
「笑ってんなよムゥ! ああもうなんで俺ばっかり!」
イグニはわめきつつも、噛みつきや前脚での攻撃を軽々とかわしている。それだけでなく、攻撃後の隙に合わせて斬撃を差し込んでいた。見た目以上に体毛が硬く、皮膚までは届いていないようだがキュウキの注意を引き続けるのには充分だった。
「せめて黄色いマントやめたら?」
「うるせー! 黄色好きなんだよ!」
気持ちいいほど単純明快な理由だ。ムゥは奥歯を噛みしめて笑いをこらえる。
「じゃあこいつの皮剥いで新しいマントでも作ろうか」
イグニが囮を買って出てくれるおかげで、ムゥは余裕をもってキュウキの後脚を叩くことができた。
頭以外への攻撃は主義に反するが、わがままは言っていられない。あの例の赤い麻酔薬を使った途端にキュウキが現れた。偶然で済ますにはあまりにタイミングが良すぎる。胡散臭い依頼主になんらかの動きがあるはずだ。ここで足止めされているわけにはいかない。
出っ張った踵を鉄の塊で殴られ、飛び跳ねるようにキュウキが怯む。しかし同時に、別の生き物のように尻尾が動き、ムゥをなぎ払う。とっさに鎚の頭の部分で受けるが、武器もろともたやすく弾き飛ばされた。倒れた時に地面に擦った背中よりも、前腕部のほうがびりびりと痛む。
(やっぱり殴るなら頭がいいな)
ムゥは素早く起きあがり、手を握って動きを確かめる。まだ多少のしびれはあるが動きに支障はない。
「ムゥ、平気か!」
イグニが駆け寄ってきた。何故か周囲にキュウキの姿がない。
「大丈夫。それよりイグニ、尻尾切って。役目でしょ」
「役目じゃねーよ!」
「まあいいや。キュウキは?」
ムゥの問いに、イグニは人差し指を空へと向けた。
キュウキは背の翼を大きく羽ばたかせ、人の身では決して届かない上空からこちらを尊大に見下ろしていた。ムゥが殴った後脚がだらりと垂れている。こちらを侮り、地上でじゃれついてくれているうちに倒してしまうべきだったかもしれない。
角を砕かれ、脚を傷付けられたキュウキの金色の瞳は、しっかりとムゥに向けられている。
「イグニ、翼切って。役目でしょ」
「だから役目じゃねーっつってんだろ!!」
※キュウキ……漢字の表記は「窮奇」。中国神話に登場する「四凶」と呼ばれる魔獣の内の一体。翼の生えた虎だったり、針金のような体毛の生えた猛牛だったりする。




