灯ノ魔女とハロウィーンの夜
その夜は酷く冷ややかな暗闇で満ちていた。
立ちこめる暗雲は空をどんよりと覆い隠し、闇色の山脈を黒々と染めている。
気を抜けば押しつぶされてしまいそうな夜の闇。その間を縫うようにして、少女は一人、漆黒の夜空を駆けていた。
澄んだ大気は冬の訪れを予感させて、凍てつくような夜風は、ほうきに乗って飛ぶ彼女へ容赦なく襲いかかる。まるで彼女の行く道を阻むかの如く吹き付ける風は、手足の感覚を奪い、身も心も蝕んでいくようだ。
飛ばされそうになる帽子を押さえながら、ほうきにしがみつく。羽織っていたマントはその身を離れ、遙か遠くへと飛んでいってしまった。
しかし彼女にとって、そのような些細なことなど、どうだってよかった。袖がめくれ、凍えんばかりの冷風に晒されようと、彼女の顔には夜風より冷たい表情が浮かんだまま、何の変化も感じられない。
それは惰性にも似た、目的もない飛行。
どこまで続くともしれない暗闇の中を、彼女は一人飛び続ける。
※
冷風が吹き荒ぶ山脈を超えた少女は、夜風の激しさが落ち着いたことを確認すると、操っていたほうきをその場に留まらせる。
感情の窺えない表情で一人浮かぶ彼女。その姿は、夜の漆黒の中にあっても異質さに満ちていた。
丈の長い黒ローブを身に纏い、頭には同じく黒色の三角帽子。その下から覗く相貌は、どこかあどけなさを残しつつも、少女と言うには洗練された美しい顔立ちをしている。鮮やかな黒髪は腰の辺りにまで伸びており、柔らかな肌は陶器のように白い。
まるで精美な芸術品のような麗しい容姿を持つ彼女はしかし、その体内には膨大な魔力が渦巻いていた。
人智を超えた魔の力は、忌まわしき異端の力。人は彼女を――魔女と呼んだ。
ほうきに乗ったまま空中で一息ついた魔女は、夜風で乱れた衣服を整えながら、ぼんやりと周囲を見渡した。
眼下一面に広がる鬱蒼とした森。空が曇っていることもあって見下ろす森はとても暗く、僅かな明かりをも飲み込んでしまいそうなその様相は、まるで夜の海を見ているかのようだ。
風も止み、静寂だけが立ち込める森の上空で、ふと顔を上げた魔女は前方に眩い何かを見たような気がして、そちらへじっと目をこらす。
暗く深い森のずっと先、そこにいくつもの光が折り重なるようにして、キラキラとした輝きを放っている光景が見て取れた。魔女の位置からは小さな明かりの集合体にしか見えないが、それが人々の営みによる光であることは、彼女の目にも明らかだった。おそらく、この辺りに暮らす人々の村落か何かなのだろう。
その暖かな輝きは、暗闇に佇む魔女の心を惹きつけた。
――しかし、彼女は知っている。あそこは『私がいてはいけない場所』であると。
魔女は鍔の広い三角帽子を深く被りなおす。なぜだか急に肌寒くなってきた。
「そうだ、マントが飛ばされちゃったんだっけ。あれがないと、寒くて冬が越せないなぁ」
凍えそうな体を抱くように摩りながら、誰に伝えるでもなく自嘲的に呟く。
魔女は異端の存在。人が彼女らに関われば、恐ろしい厄災に見舞われる。そんな根も葉もない、だが多くの人々の間で信じられている迷信を思い出し、彼女は苦笑する。
そう、私は魔女なのだ。この先に村があるのなら避けるべきだ。
魔女は首を振り雑念を追い払うと、村を迂回するべく、ほうきの先を右側へとずらす。そして再び暗い夜の中を飛び始めた。
その双眸に奇妙な光景が移ったのは、それからすぐ後のことだ。
見下ろす限りに広がる闇色の森。その上空を無心で飛び続けていた魔女は、またもや前方に灯る光を見つけて目を疑った。
村を避けたつもりだったのに、いつの間にか方角を見誤ってしまっていたのだろうか。そう思った彼女は、不思議に思って首をきょろきょろと動かす。
すると彼女の左側には、先ほど迂回した村の光が変わらない輝きを放っていた。
そのことに安心して、だが魔女は再び視線を前に向ける。
ならば、あの光はいったい何なのか……。
森の中で瞬くその光は、左に見える村のものと比べて非常に弱く、今にも消えてしまいそうな微かなものだ。よく目を凝らさなければ、きっと気付けなかったことだろう。
誰かが焚き火でもしているのかと思ったが、煙が立っている様子もない。そもそも、これほどまでに深い森だ。こんな夜中に森へ立ち入る旅人がいるとは到底信じられなかった。
そんな奇怪にすら感じられる光を、しかし彼女は焦がれるように見つめる。
いったい、あそこには何があるのだろうか……。
「だめだめ。何を考えてるの、私」
気が付けば、無意識に光の方へとほうきを進めていた魔女は、首を振って誘惑に抗う。だが、小さな光は今も微かに瞬き続けて、魔女の目を引いて離さなかった。
「気になる……」
それは魔女が持つ未知への好奇心か、煌めく光の魅惑か。まるで不思議な何かに誘われるようにして、彼女は小さな光の元へと引き寄せられていった。
※
ほうきをゆっくりと降下させた魔女は、ふわりと森の中へと降り立つ。夜の森は深閑として、時折吹く風による木々のざわめきだけが辺りを支配していた。
魔女は草が生え放題になった森の中を歩きながら、先ほど見かけた光を探る。
ふと上空を見上げれば、立ちこめていた暗雲の合間から青白い月が覗いていて、差し込む細い月光が森の中を怪しく照らしていた。
上空からの記憶を頼りに進んでしばらく、魔女は何かに気付いて近くの木の裏に身を隠す。そして、木陰からそっと様子を窺った彼女は、眼前に広がる光景に唖然とした。
「……家?」
思わずそう零した魔女の視線の先、森の木々が開けたところに、小さな民家が佇んでいる。
外観はこれといった特徴もない、簡素な木造の一軒家だ。しかし深い森の中にぽつんと建っているというだけで、どことない不自然さを感じずにはいられない。
民家の窓からは、柔らかな明かりが漏れ出している。さっき目にした光はこれだったようだ。そのことに納得して、だが魔女は別の疑念に首を傾ける。
――こんな森の奥深くに、いったい誰が住んでいるのだろうか。
不思議に思った魔女は、好奇心に身を任せて民家へ向けて歩き出す。
民家の周りに木々はなく、足首ほどの長さの短い草が生えているのみだ。遮るものがない、月明かりだけが照らす茂み。そこを忍び足で歩く自分が急に盗人のように思えてきて、自分は一体何をしているのだろうと考えるが、どうしても気になって仕方がなかったのだ。それはほんの気の迷い……出来心かもしれない。
息を殺してゆっくりと進んだためか、民家の側までたどり着くのに時間がかかってしまった。魔女は壁伝いに民家の横を進み、備え付けの出窓へと近づく。
「大丈夫。ちょっと確かめるだけだから……」
そう魔女は呟いて、物音を立てないように注意しながら、そっと窓の下から顔を覗かせる。
眩い明かりが目に入り、彼女は目を瞬かせた。
暖かな光に満ちた室内で、まず目についたのは薪がくべられた暖炉だ。そこから少し離れたダイニングには椅子とテーブルがあり、その上には火か灯ったままの手持ちランプが置かれている。
森の中に建っているとはいえ、室内は意外にも綺麗に整えられているようで、置かれている家具からも最低限の生活感が感じられた。
そんな、よくある村の民家と何ら変わらない光景。しかし、肝心の人の姿は見当たらない。
魔女は思わず「誰もいないの?」と、疑念の声を漏らす。だが、暖かな光で包まれた民家の様子に反して、ここで人が暮らしているようには感じられなかった。
そのことに魔女はなぜだか裏切りのようなものを感じて――しかし、突如として民家から聞こえてきた声に飛び上がりそうになった。
――何!?
突然のことに動転する魔女。先ほどまで、人の気配など一切感じられなかったのだ。
彼女は慌てて再度室内を窺うが、相変わらず暖炉の炎がチロチロと燃えるばかりで、何の変化も見受けられない。しかし、民家からは確かに誰かの声が聞こえてきて、それは少しずつ大きくなっていく。
「ふんふんふふ~ん」
軽快なリズムで紡がれる陽気なハミング。
それからしばらくして、室内に人影が姿を見せた。
緊張の面持ちで室内の様子を窺っていた魔女は、そこでさらなる驚愕に目を見開く。深い森にひっそりと建つ民家、そこで暮らしていたのは年端もいかない一人の少女だったのだ。
背中に触れる壁の向こうからは、今も機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてくる。
とっさに出窓の下に身を隠した魔女は、その場でしゃがみ込むと小さくため息をついた。
どうやら、盗み見をしていたことには気付かれなかったようだ。そのことに魔女は安堵して、しかし同時に沸き上がってくる罪悪感に身悶えする。それに、このどうしようもなくうら寂しい感覚は何なのだろうか。
「何してるんだろ、私……」
自分でも分からない心のモヤモヤに、だが彼女は首を振ってそれを追い払う。
――そうだ、ここも私が居ていい場所ではない。この暖かさに触れるべきではないのだ。悪い魔女が人の光に触れることなど、あってはならない。
そう自らに言い聞かせて、魔女はほうきに跨がって空へと飛び立とうとする。
しかし、民家から溢れる光は狂おしいほどに眩しくて、彼女の心を惹いて止まなかった。
「もう少しだけ……」
別にあの光に触れていたいわけじゃない。でも……ほんの少しでも、あの温もりを感じられたら、それだけで……。
「――そこに誰かいるの?」
「ヒェッ!?」
突然かけられた声に、魔女は思わず素っ頓狂な悲鳴を上げる。咄嗟に口元を覆うが、一度飛び出した声はもう戻らない。彼女は強ばる体を動かして、恐る恐る振り返る。
開け放された出窓から顔を覗かせた少女と目が合った。赤い髪色をした彼女、その表情は民家の明かりが逆光となってよく窺えない。
ほうきに乗りかけた体勢のまま固まってしまった魔女は、何故気付かれてしまったのかを悟る。
おそらく心の中の葛藤に晒されていたとき、自分の姿は窓から丸見えだったのだろう。
どうしてそんな些細なことに気付けなかったのか。魔女は自分の注意力の低さを呪った。
しかし、見つかってしまった以上、もう取り返しはつかない。
盗み見をしていたことは誤るべきだろう。だが、相手がまだ年若い少女だとしても、魔女が近くにいるなど到底看過できることではないはずだ。
魔女は恐怖と厄災の象徴。そんな存在が近くにいると知られれば、どんな目に遭わされるか分からない。たとえこちらに敵意がなくても、人は相手が魔女だと知れば、忌まわしい物を見るように蔑み、罵り、容赦なく暴力を振るう。たとえそれが、年若い少女であったとしても……。
「逃げなきゃ……早くここから立ち去らないと……」
恐怖のあまり民家から離れようとした魔女は、しかし焦って自分の足にほうきを引っかけてしまった。盛大に転倒した彼女は、地面を這ってでも逃げようとして、手を滑らせ頭を打つ。泣きたくなるような痛みに耐えながら、それでも足掻くように立ち上がろうとして、そのとき背後の少女の姿が目に入った。
少女は先ほどからこちらをじっと見下ろしているのみで、表情も胸中も定かではない。
すると、彼女は急に我に返った様子で慌てて室内に姿を消して、かと思えば何かを片手に窓から身を乗り出した。
魔女の視界を焼けるような光が覆う。
――あぁ、やっぱり……。
魔女は諦めたようにその場でへたり込む。迫害され、追い出されることには慣れている。罵りや蔑みの言葉も聞き慣れた。……けれど、やっぱり胸が苦しいな。
魔女は自嘲的な笑みを浮かべたのち、その場でギュッと目を瞑った。
しかし、待てども待てどもそのときは訪れない。不思議に思った魔女は、おずおずと瞼を開く。そのとき、彼女の耳に澄んだ声が響いた。
「ねぇ、大丈夫? 外は寒いでしょ? そんなところにいたら風邪引いちゃうよ」
まるで寒さに震える捨て猫を気遣うかのような、優しい言葉。それが誰に向けられたものか分からず、魔女は呆然とする。そして辺りを見回し、自分の他に当てはまる人間がいないことに気付いてさらに困惑した。
動揺を隠せないままに、魔女はゆっくりと顔を上げる。
するとそこには、ランプを手にした赤毛の少女が、不思議そうに魔女のことを見下ろしていた。再び二人の目があったその瞬間、少女はパッと顔を輝かせた。
「いらっしゃい。歓迎するよ、魔女さん!」
※
くべられた薪がパチパチと弾ける音。
テーブル横の椅子に腰掛けた魔女は、暖炉の中で揺らぐ炎をぼんやりと眺めていた。
招かれるままに立ち入った民家の中は、仄かに明るくて、暖かい。そのまま眠ってしまいたくなるような心地よさとは裏腹に、魔女は気まずそうに視線を泳がせる。
彼女の前、テーブルを挟んで向かい側の椅子に座る少女。
どことなく幼さが残る顔立ちの彼女は、魔女よりも少し年下くらいだろうか。ぱっちりとした瞳は澄んだ緑。そして何よりも目を引くのが、その特徴的な髪色。少しオレンジ色のかかった、綺麗な赤毛をしている。
少女は丁寧に編み込まれた髪を揺らしながら、向かいに座る魔女をニコニコと見つめていた。
「えっと、その……」
魔女は控えめに口を開きかけて、しかしすぐに噤む。
不思議そうに首をかしげる少女を前に、その後もしばらく言い淀んでいた魔女だったが、意を決すると静かに尋ねた。
「私を追い出さなくていいの?」
「え、どうして?」
「どうしてって、私は魔女なんだよ?」
「知ってるよ?」
「奇妙で不可思議な魔法を使う、怖い魔女だよ?」
「うん、知ってる」
どうしてそんなことを尋ねるの? といった少女の反応に、魔女はポカンとして固まる。そして、目の前の少女も同じ表情をしているというのだから、魔女は更に困惑してしまった。
そのまま互いに見つめ合っていると、少女がぷっと吹き出す。
「あははは、おっかしいの!」
突然笑い始めた少女を前に、魔女は呆気にとられる。
――いったい、この子は何なのだろうか。
魔女とは、その異端さから人々に忌避される存在。しかし目の前で笑う少女は、まるで相手が魔女であることなど気にもしていないかのように、無邪気な笑顔を浮かべている。それは、恐れを知らぬ純粋無垢な笑みだ。
少女は笑いすぎて目元に滲んだ涙を拭った。
「魔女さんはお客さんなんだよ。追い出すだなんて、とんでもない」
お客さん。そう、少女は口にした。自分の前にいるのが魔女と知りながら、さも当然のように受け入れ、親しげに話しかけてくる彼女。今まで魔女であると知られた途端、迫害され貶められた魔女にとって、自分を前にこのような反応をされることは初めてであり、どう返せばいいのか分からなかった。
その時、ふと少女は何かを思いついたようにピンと人差し指を立てる。
「そうだ。せっかくこうして会えたことだし、質問遊びでもしない?」
「質問……遊び?」
「うん、質問遊び。あたしが質問して、魔女さんが答える。そしたら、次は魔女さんが質問して、あたしが答える。それを繰り返す遊びだよ」
快活に話を進め始めた少女に、だが魔女は少女のペースについて行けずに当惑顔になる。そのことに気付いたのか、少女はハッと手で口を覆うと、恥ずかしそうに頬をかいた。
「ほら、あたし達、会ったばかりでお互いのことをよく知らないでしょ? だから、質問遊びをすれば、お互いのことを知れて良いんじゃないかなって思ったの。あたしね、魔女さんのことを知りたいんだ。……駄目かな?」
遠慮がちに魔女を見上げる少女。その目は、汚れのない純粋さに澄んでいた。期待感に満ちた視線に、魔女は半ば勢いに乗せられるままに頷く。
「……いいよ。質問遊び、しよう」
「ほんと? やったー!」
少女は椅子から飛び上がり、全身で喜びを見せる。随分と感情豊かな女の子だ。
「それじゃあ早速だけど、まずはあたしからね。魔女さんはどこから来たの?」
少女のはじめの質問に、魔女はそっと顎に手を掛けて考え込む。
――どこから来たんだっけ?
当てもなく、ただ飛んでいた。いったい自分はどこから来たのか、咄嗟に思い出せない。
「……遠いところ。山脈の向こうから」
「山脈の向こう?」
「うん。私はずっと、旅をしていたの」
「へぇ~、旅かぁ。あたし、山脈の向こう側のことなんて何も知らないから憧れちゃうな。ねぇ、外の世界にはどんなものがあるの?」
興味津々に尋ねてくる少女に、魔女は目を閉じると、過去の記憶を思い起こす。
「色々……あったよ」
どこまでも続く暗闇。向けられる忌避と嫌悪の視線。ただひたすらに冷たい、身に吹き付ける風。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
「それなら、いいんだけど……。じゃあ、次は魔女さんの番だよ。何でも聞いて?」
――質問。
急にそんなことを聞かれて何も考えていなかった魔女は、顎に指を当てて考え込む。そしてさっと室内を見回した後、彼女は民家に訪れたときから気になっていたことを尋ねた。
「あなたは、ここに一人で住んでいるの?」
「……違うよ。あたしはこの家で、伯母さんと二人で暮らしてるの。でも今は伯母さん、出かけてて……あたしはお留守番中なんだ」
そう言って、誇らしげに胸を張る少女。こんな森深くの家で一人留守番とは、なんとも肝の据わった女の子だ。魔女は感心して、だが一つ気がかりなことがあった。
「なら、それこそ私がお邪魔していていいの? 留守の間に魔女を家に招いたなんて、伯母さんに知られたら大変なことにならない?」
「大丈夫。伯母さんはしばらく帰ってこれないって言ってたから」
「それは大丈夫じゃないんじゃ……」
魔女の懸念に、だが肝心の少女は舌を出してケロリと返す。
「いいのいいの、魔女さんは気にしないで。でも、このことは伯母さんには内緒だよ?」
そして人差し指を口に添えると、いたずらっぽく笑った。
「さて、今度はあたしの番だね。魔女さんって、魔法を使えるんだよね?」
「……うん、一応ね」
「え、ほんと!? 魔法って、本当にあるの!?」
少女が驚愕に口をあんぐりとあけて叫ぶ。
ころころと変わる表情に魔女は苦笑して、だがそのとき、少女がもじもじと自分の顔を伺っていることに気付く。魔女が尋ねるような視線を向けると、少女は遠慮がちに口を開いた。
「えっと……もし魔女さんが構わないならでいいんだけど……。あたし、本物の魔法を見てみたいなぁ……なんて」
『魔法』……それは、魔力と呪文によって世界の理に干渉する不可思議な術。超常的な現象を引き起こし、時にこの世の摂理すら歪ませるその奇怪な術は、人々の畏怖の対象であり、魔女を魔女たらしめる要因の一つでもある。
そのため、魔女はこれまで人前で魔法を使うことは避けてきた。只人にとって理解の及ばぬ魔法は、見る者に恐怖を呼び起こしてしまう。そのことを彼女は身をもって知っていた。
魔女は表情を固くして、少女に問いかける。
「……どうして、魔法を見てみたいの?」
「あたしね、魔法に憧れてるの。魔法って、不思議な力で何だって出来ちゃうんでしょ?」
「何でも……とは言えないかな。私はまだ、大した魔法は使えないし……」
「それでも、見てみたいなぁ。魔女さんの魔法……」
向けられる期待に満ちた視線。きっとそれは、魔法を目にしたことのない、無知からくる好奇心なのだろう。
少女の切なる願いを前に、魔女は葛藤する。
もしここで魔法を披露してしまえば、今は親しげに接してくれている少女といえど、魔法を前に怯えてしまうかもしれない。魔女を家に招いたことを後悔し、この場から追い返そうとするかもしれない。
――けれど、それは当然の反応だ。
魔女は人々から忌避され、疎まれるもの。その存在は人々を望まぬ恐慌に陥れる。だから自分は人の温もりに触れてはいけない。魔女となった時、そう誓ったはずだ。なのに、いつから少女の優しさに甘えてしまっていたのだろうか。
少女と過ごした時間は僅かであったが、その時間はとても暖かいものであった。その温度に少しでも触れられただけで、この上ない僥倖であったのだ。
今、目の前の少女は魔法を見ることを望んでいる。たとえ自分の魔法で怖がらせてしまう結果になったとしても、期待に目を輝かせた彼女の望みを叶えられるのなら……。
「……わかった。でも、驚かせてしまったらごめんなさい」
そうあらかじめ伝えて、魔女は椅子から立ち上がる。
どうしようもなくわき上がる寂しさに、だが魔女は仮初めの笑みでそれを覆い隠す。
そして彼女はリビングの開けたところに移動すると、目を閉じて精神を研ぎ澄ました。
前に広げた両手の先へ魔力を集中させる。空気の流れが変わり、不可視の魔力が彼女を中心に渦巻き始める。それと同時に、掬うように合わせた彼女の両手のひらに、淡い黄金色の光が零れんばかりに溢れ出し始めた。
「光よ、舞い踊れ……」
魔女が目を見開き、魔法の始動語を告げた――次の瞬間、両手に溢れた光が、泡のようにふわりと宙に浮かび上がった。
魔力が形となって現出したその光は、部屋の明かりに負けない明るさを放っている。
魔女が無造作に手を動かしてみれば、それに倣うようにして光も滑るように動きだす。黄金色の光は、まるで生きているかのように部屋中を飛び回り、宙に可憐な軌跡を作り出した。
「これが……魔法?」
初めて目にする魔法に、少女は驚きと共にキョロキョロと魔法の光を目で追いかける。
それからも、しばらく光を浮かべていた魔女だったが、しかしそっと息をつくと両腕を下ろす。すると、干渉を失った光は途端に形を保てなくなり、黄金色の粒子となって崩れ去ってしまった。
「……どうだった?」
魔女が乾いた声で尋ねる。だが当の少女はポカンと口を開けたまま、消えゆく光の粒子を眺めているのみだ。あまりの驚愕に言葉が出ないのか、呆然と動かなくなった少女を前に、魔女はその場で俯く。
これで彼女も気付いてしまっただろう。魔女は人とは違う、忌むべき異物であると。
怖がられるだろうか。だが既に、魔法を使うことを決めた時点で覚悟はしている。たとえ今からどんな酷い目に遭うことになったとしても、魔法を見たいという少女の望みを叶えられたのなら……。
――これで、良かったんだ。
魔女は自嘲的に微笑む。そして諦めたように目を閉じた彼女は、突然自分の胸元に飛び込んできた何かに瞠目した。
「え、ちょっと……」
魔女は目を白黒させて、自分の懐を見下ろす。そこには、いきなり自分の体に抱きついてきた少女が、目を輝かせながら魔女を見上げていた。
「凄い、凄いよ! こんな凄いの、初めて見たよ!」
「凄い? 魔法が?」
今まで自分の魔法を前にして、不可思議なそれを恐れ、侮蔑の言葉を吐き捨てられたことはあっても、凄いなどと言われたことはなかったのだ。
少女の言葉を信じられずにいる魔女は、なんだか胸の辺りが熱くなるのを感じる。
「あ、ごめんなさい! つい……」
先ほどから魔女に抱きついていた少女は、ふと我に返って手を離す。どうやら感動のあまり無意識に飛びついていたらしい彼女は、頬を赤らめてエヘヘと笑った。
しかし少女は未だ興奮が覚めやらぬのか、先ほどの魔女のまねるように両手を前方へ伸ばし、自分にも魔法が使えないかと力を込める。
楽しそうにはしゃいでいる少女を尻目に、だが魔女は困惑しながら尋ねる。
「……怖くないの?」
「え、どうして?」
「どうしてって……魔法は、普通の人が見たら怖いんじゃないの?」
「う~ん、怖い……のかな?」
少女は首を傾げると、考え込むように頬に手を当てる。
「あたしはね、凄く綺麗だなって思ったよ。何だか明るくて……キラキラってして、暖かかった」
「暖かい?」
あの魔法のどこが暖かいというのか。少女の言うことが理解できず、魔女は当惑する。だが、少女が世辞や嘘を言っているようには見えなかった。
「あの、さ……」
と、少女がどこか緊張した様子で、もじもじと魔女を見つめてくる。
「えっと……魔女さん。今日、うちに泊まっていかない?」
「えっ!?」
少女から飛び出した突然の提案。さっきまで、家から追い出されるとばかり思っていた魔女は、予想外の話に耳を疑う。
「ほら、外はもう寒いでしょ? 今から旅に戻るのは暗くて危ないだろうし、それに今夜休む場所が決まってないなら、家で一晩泊まっていくのはどうかなって思って」
「そんな、悪いよ。ただでさえ見ず知らずの私に親切にしてくれているのに、これ以上あなたの迷惑になるわけには……」
「いいからいいから。あたしね、もっと魔女さんとお話したいんだ。……ダメかな?」
そう言って、少女は照れ臭そうに魔女を見上げた。
その汚れのない目に、どうしたものかと魔女は思い悩む。
確かに、冬を目前にした夜は酷く冷え込む。マントなどの防寒になる物も持たずに森の中で眠るのは、危険が伴うことだろう。かといって、道中の村や町に立ち入る訳にもいかない。そんな魔女にとって、少女からの申し出は願ってもないことだ。
――もっとお話したい……か。
魔女はしばらく首を捻り、そして控えめに口を答えた。
「……あなたが泊まっても構わないと言ってくれるのなら……今夜だけ、ご厚意に甘えさせて貰おうかな」
「ほんとに!? やったー! よろしくね、魔女さん!」
魔女の手を取り、嬉しそうに跳ねる少女。その無垢な笑顔に、魔女は自分の心が熱くなる感覚を受ける。先ほどから少女のペースに振り回されてばかりな気がするが、彼女といると、冷えた体が心の奥底から暖かくなるようで……。
「ほんと、おかしな子」
無邪気に喜ぶ少女を前に、魔女は小さな独り言を零す。
するとその時、魔女はどこからか甘い香りが漂ってくることに気付く。同時に少女も、その匂いにハッとして顔を上げた。
「あ、そうだった。すっかり忘れてたよ~!」
慌てた様子で隣の部屋に駆けだす少女。その目まぐるしい動きに魔女が目を丸くするなか、しばらくして隣の部屋から少女が戻ってくる。その手には、なにやら白い皿があった。
弾む足取りでテーブルの方へと歩いてきた彼女は、近くの椅子に座って魔女を手招く。
魔女はテーブルに置かれた皿を見やると、興味深そうに尋ねた。
「……それは?」
「魔女さんが来る前に作ってたんだ。焦げちゃわなくてよかったよ~」
そう言って少女が指し示した皿にめいっぱい盛られていたのは、焼きたてのクッキーだ。
甘く香ばしい香りが魔女の鼻腔をくすぐると同時に、自然とお腹もなり始める。
ぐぅ……。
不意なお腹の音に、魔女は顔を真っ赤にしてお腹を押さえる。そういえば、朝から何も食べてなかったのだ。そんな彼女に、少女はおかしそうに笑いながらクッキーを指差して言った。
「ほらほら、魔女さんも座って。一緒に食べようよ!」
少女に促されるままに、魔女はテーブルの前に座る。様々な形をした出来たてのクッキーは、まるで宝石のように輝いていた。ゆっくりと皿に手を伸ばし、一枚手に取る。
「いただきます」
クッキーを口元へと動かす。さくりとした食感とともに、優しい味と香りが口いっぱいに広がった。
「……美味しい」
「ほんと? 魔女さんにそう言ってもらえるなんて、頑張って作った甲斐があるよ~」
褒められたことが嬉しいのか、少女が照れたように微笑む。
クッキーは軽い舌触りで、素朴な味ながらついつい手が伸びてしまう。魔女は夢中でクッキーを頬張りながら、しかしふと浮かんだ何気ない疑問に口を開く。
「それにしても、こんなに沢山のクッキー、いったいどうしたの?」
皿いっぱいに盛られたクッキーは、いくら好みの味とはいえ、さすがに一人で食べきるには多めに感じてしまう量だ。そのことを不思議に思った魔女の問いに、対する少女は食べる手を止めて答える。
「だって今日は収穫祭だからね。みんなにプレゼントするお菓子だもの、いっぱい準備しなくっちゃ!」
「収穫祭?」
魔女は首を傾げて、だがすぐに理解した。
先ほど森の上空を飛んでいた時、前方の村が沢山の光で包まれていたことを思い出す。夜が深まる時間帯にも関わらず、溢れ出しそうほどに煌々と照る光の集まり。それはきっと、収穫祭のために焚かれた篝火だったのだろう。
「トリック・オア・トリート! お菓子をくれなきゃ、悪戯するよ? ……なーんてね」
赤色の髪を揺らし、いたずらっ子のように笑う少女。
そう、今夜は年に一度の収穫祭——ハロウィンだ。
※
皿一杯に盛られたクッキーは、しかしあっという間になくなってしまった。魔女と少女は満足げに椅子の背にもたれかかると、幸せそうに表情を綻ばせる。
「ごちそうさま、とても美味しかった」
「えへへ……喜んでもらえたなら、あたしもうれしいな」
こんなに美味しいクッキーは、初めて食べたかもしれない。満たされるような幸福感に魔女はほっと息をついた。
「でもまさか、全部食べきってしまうなんて思わなかった。プレゼントする分も残しておくべきだったのに……」
魔女は申し訳なさそうに、空になった皿を見下ろす。
あまりの美味しさからか、今日は何も口にしていなかったからか。夢中で食べているうちに、気がつけば全て平らげてしまっていたのだ。そのことを恥じるように項垂れた魔女に対し、少女は大らかな微笑みを浮かべる。
「いいよいいよ、気にしないで。足りない分はまた作ればいいんだから」
少女はさらりと返して立ち上がると、隣の部屋に皿を片付けに向かう。その背を魔女は見送って、だがどことない気持ちの晴れなさに思案顔になる。
会ったばかりの、素性もしれぬ魔女を前に、嫌な顔一つせず接してくれる少女。人を疑うことを知らない警戒心のなさには少し不安を覚えるが、それは相手を思いやれる優しい心の表れだろう。少女の純粋な厚意……それをありがたく思う。しかし、その優しさを受けてばかりで本当にいいのだろうか。
「――どうしたの、難しそうな顔して?」
と、いつの間にか戻ってきていたらしい少女の声に、魔女は意識を現実に引き戻す。向かいの椅子に座り、魔女の顔を不思議そうに覗き込む少女。その手を、魔女はおもむろに取った。
「えっと、魔女さん?」
突然手を掴まれて困惑する少女に、だが魔女は真剣な顔で尋ねる。
「何か、私に手伝えることはない?」
「へ? どうして急に?」
「さっきのクッキー……ありがとう、ご馳走してくれて。何か、お礼をさせてほしい」
少女は魔女である自分を受け入れてくれた。だからせめて、受けた厚意と同じだけのことを返したい。
「そんな、お礼なんて気にしなくていいよ~。あたしは別に何も……」
「それに今夜はここで泊まらせてもらうんだし。何でもいい、私に出来ることがあれば手伝わせてほしいの」
ただの自己満足のわがままかもしれない。それでも、ただ彼女の厚意を受けるだけでは申し訳なかったのだ。
魔女は少女の顔をまっすぐに見つめる。その瞳は透き通った夜空の色だ。
少女はうっかり魔女の双眸に見とれかけて、しかし恥ずかしくなったのか目をそらす。そして考え込むように頬に手を当てた少女は、ふと何かを思いついたか、手の平をパンと合わせて言った。
「そうだ! じゃあ魔女さん、ハロウィンの準備を手伝ってよ!」
「ハロウィンの……準備?」
「うん。みんなに配るお菓子を作ったり、部屋を飾り付けたりするの。どう、とっても楽しそうでしょ?」
うきうきとした少女の提案に、魔女は胸に手を当ててうなずく。
「……わかった。任せて」
「決まりだね! それじゃあ、早速始めるよ」
少女の楽しげな一言を合図に、二人は素早く椅子から立ち上がる。そして、二人はハロウィンの準備に取りかかった。
※
「さて、まずはお菓子作りね」
早速キッチンへと移動した二人は、調理台の上に置いたクッキーの材料に向かい立った。
小麦粉、バター、卵などを交代しながら混ぜ合わす。完成した生地を伸ばし、型抜きをしてオーブンに投入。
「これでよしっと! できあがりが楽しみだね!」
クッキーの焼き上がりを待つ間、今度は部屋の飾り付けに取りかかる。
物置から取り出したカボチャのランタンなどの置物を置いていき、内壁は黄色や紫色の布を掛けて覆い、手作りのワッペンなどを飾り付ける。仕上げにランタンへ火を灯せば、飾り気のなかった室内はたちまちハロウィンらしい、怪しくも可愛らしい空間へと変化した。
着々と準備が進んでいくなか、部屋全体の装飾を眺めていた魔女は、自分を呼ぶ少女の声に振り向く。
「魔女さん、みてみて!」
「……これは?」
「作業の間に、余った生地で作ってみたんだ。可愛いでしょ?」
そう言って少女が自慢げに見せてきたのは、カボチャの形をしたブローチだった。
黄色のフェルトで作られたカボチャには、ハロウィンのランタンに似た可愛い表情の刺繍が施されている。
「すてきなブローチね」
「でしょ? あたし、こういった裁縫は得意なんだ。……じゃあはい、これあげる!」
「え、私にくれるの?」
「もちろん! だって、そのために作ったんだもん」
少女ははにかみながら、ブローチを手渡す。
彼女から受け取ったそれは、少女の熱が伝わって仄かに暖かかった。
魔女は試しに、左胸にブローチを付けてみる。
「うん、いいかんじ! 似合ってるよ、魔女さん!」
「あ、ありがと……」
照れくさそうに頬を掻く魔女。と、不意に少女の胸の辺りを見てみれば、そこには魔女と同じカボチャのブローチがあった。
「それは?」
「あ、これ? 同じものをふたつ作ったんだ。おそろいだね!」
えへへと笑って、少女はウインクをしてみせる。
――お揃いか……。
嬉しいような、恥ずかしいような……なんだか不思議な気分だ。
魔女は妙な気恥ずかしさを感じながら、だがそのとき少女の服装に目が止まった。
彼女が着ているワンピースは明るいベージュ色で、彼女の印象と良くマッチしている。しかしよく見るとその服は随分と使い込まれているのか、あちこちが破れかけていて、修復を繰り返した後がいくつも残っていた。
「えっと……」
「あ、ごめんね。じろじろ見たりして……」
「ううん、いいの。あたし、この服しか持ってなくて。破れたところは自分で直してるんだけど……」
ワンピースの裾を掴みながら、恥ずかしそうに少女は話す。その顔はどこか寂しげに見えた。しゅんと俯いてしまった彼女を前に、だが魔女はあることを考えついて指を弾いた。
「そうだ。ねぇ、こっちを向いて、まっすぐに立ってみて」
突然の魔女の言葉に、少女はきょとんとしながらも、すぐに魔女に従ってまっすぐに立つ。
すると魔女は手を少女に向けてかざして、小さな声で呪文を唱え始めた。魔力が室内の空気を震わせ、渦巻く。そして魔女が始動語を告げると同時、彼女の人差し指の先から白い光が飛び出した。
光は流れ星のように魔力の粒子を引きながら、少女の元へと飛翔する。そしてそれは少女の頭上で止まったかと思えば、螺旋を描くようにして、彼女の小柄な体を覆い始めた。
自身を包み込む光に少女はぎゅっと目を瞑る。そして、彼女が再び目を開けると……。
「うわぁ!!」
「良かった、成功みたいね」
魔女が安堵の息をつき、少女は自分の身に起きた変化に歓声を上げる。
突然魔法の光に包まれたかと思えば、使い続けて所々破けていた彼女のワンピースが、たちまちハロウィンにピッタリの綺麗なオレンジ色のものへと変化していたのだ。
これには少女も驚愕の表情で、全身を見回すようにして自分の服を確認し始める。
「あなたのワンピースに魔法をかけてみたの。ブローチのお礼になればと思ったんだけど……」
そこまで魔女は説明して、しかし今になって自分が当たり前のように魔法を使ったことに気付く。いくら少女が魔法を恐れないとはいえ、あまりに気を抜きすぎではないだろうか。
安易に魔法を使った自分を責める魔女だったが、対する少女は「最高だよ、魔女さん!」と満悦な様子だ。彼女はその場でくるりと回転してみせると、ポーズを決めながら尋ねる。
「どう? 似合ってる?」
「うん、とても。あなたのその綺麗な赤毛と、暖かな色合いワンピースが合わさって、とっても素敵よ」
魔法のかかったワンピースは、明るい少女の印象にぴったりで、彼女の柔らかな赤毛と合わさってその明るさを更に引き立てている。
魔女は、少女の喜ぶ顔を微笑ましく眺める。無闇に魔法を使ったことを責めていた魔女だったが、少女の無邪気な笑顔を前に、そんな悩みも吹き飛んでしまった。自分の魔法で喜んでもらえた。その事実が信じられず、たまらなく嬉しかったのだ。
だが、そのとき魔女はふと少女が何か言いたそうに自分を見ていることに気付く。
「どうしたの? やっぱり、元の服の方が良かった?」
「そうじゃないの。ただ、魔女さんが言ってくれた言葉が信じられなくて……」
「え? 私、何か変なこと言っちゃってた?」
何か少女を傷つけるようなことでも言ってしまったのだろうか。魔女はそんなことを考えて、だが少女はもじもじとしながら囁くように言った。
「その……さっき、あたしの髪のこと、綺麗な赤毛だって……」
「あ、そのこと? あなたの髪色、とても素敵だなって思って——」
そこまで魔女が言いかけて、しかし少女はどこか怯えた表情をしていることに気付いて言葉を切る。そして、その場で急にしゃがみ込んでしまった少女を驚いた様子で見た。
少女は床を向いて俯いたまま呟く。
「……あたしの髪色はね、不思議なものを引きつけてしまうんだって」
感情を感じさせない声音。それを聞いた瞬間、魔女の脳裏にある迷信がよぎった。
古来より『赤毛』に付きまとう言い伝え。赤色の髪には魔力が宿るとされ、よって赤毛の人間はよからぬものを引きつけてしまうのだとか。明確な根拠もない、ただの迷信ではあるのだが、今も各地の村落で信じられているらしく、赤毛を持って生まれたがために迫害の憂き目に合う者も多いと聞く。
「ごめんなさい、あなたの気持ちも知らないで……」
「いいよ、魔女さんが気にすることはないよ。それに、もう慣れたからさ」
自分の思慮の浅さを恥じる魔女に、少女は「気にしないで」と微笑んでみせる。だがそれは、悲しみを押し隠した寂しい笑みだ。
「あたしね、時々思うんだ。どうしてみんな、誰かをのけ者にするのかな? たとえ髪の毛が赤色だったって、みんな同じなのに……仲良くしたいって気持ちは同じなのに……」
色のない少女の声には、どうしようもない悲嘆が込められているようだった。
きっと彼女は、赤毛であることを理由に辛い思いをしてきたのだろう。望まぬ特異さを持って生まれ、異質として理不尽に貶められる。
そんな苦しみを、魔女もまた知っていた。
――同じだ。私も、この子も……。
魔女は震える少女の体を抱き寄せると、そっと彼女の背中をなでた。なぜだか無性に、そうしてあげたかったのだ。少女は自分を抱きしめる魔女にぴくりと体を震わせて、だがそのまま魔女にゆだねるようにその身を預けていた。
「……でもね、魔女さん」
「なに?」
「いいこともあったよ。魔女さんが、あたしの赤毛を綺麗だって言ってくれた。素敵だって言ってくれた。まさか、あたしの赤毛をそんな風に言ってくれるなんて、思いもしなかったから……。すごく、うれしかったんだ。それだけでも、あたしは赤毛で生まれてきて良かったって、そう思えるくらいに」
少女は魔女の腕の中で気持ちよさそうに目を閉じる。
彼女だって、望んで赤い髪を持って生まれてきたわけでははずだ。それでも、彼女は自分の赤毛を受け入れて、前を向いて笑っている。
「……あなたは、強いんだね」
「ぜーんぜん。私はただの女の子だよ。いつも泣いてばかりの泣き虫だもん」
少女はそっと魔女の顔を見上げる。僅かに涙の滲んだ、そのあどけない微笑みはまぶしくて……そして暖かかった。
魔女は少女をぎゅっと抱きしめる。彼女の背を撫でる魔女の目にもまた、暖かな涙が濡れていた。
※
「よし、これで全部かな?」
部屋の飾り付けをしているうちに焼き上がったクッキーを、いくつかの袋に分けて詰め終えた二人。ハロウィンの準備を完了させて、魔女は額を拭うと椅子の背もたれに体を預ける。
「おつかれさま~。手伝ってくれてありがとう!」
キッチンの後片付けをして戻ってきた少女が、労りの言葉と共に、ティーカップを魔女の前に置く。
魔女はカップに口をつける。紅茶の暖かい香りと味が体に染み渡った。さっき作ったクッキーにも良く合いそうだ。
「はへふ?」
魔女の心の声が伝わったのか、少女がクッキーの盛られた皿を差し出してくる。袋に詰め切れなくて余ったものだ。
クッキーを咥えたまま話す少女に、魔女は苦笑しつつも皿に手を伸ばす。
「それにしても、沢山作ったね」
「えへへ、せっかくのハロウィンだもん。お菓子がいっぱいの方が盛り上がるでしょ?」
「確かにそうね」
そう言って、魔女はテーブルに置かれた大量のお菓子袋を見やる。
「そういえば、ずっと気になっていたことがあるんだけど……このお菓子って、いったい誰にプレゼントするの?」
「それはねぇ……」
魔女の疑問に少女が答えようとしたとき、ちょうど玄関の扉を叩く音が聞こえてくる。
「噂をすれば……早速来たみたい」
少女はさっと立ち上がると、先ほど詰め終えたお菓子袋を手に、玄関の方へと歩いて行く。来客を迎える彼女を、魔女は視線だけを動かして見やり――そして凍り付いた。
「ッ!」
少女が向かった玄関扉の先、そこにおよそ2メートルを超える骸骨が佇む様を目の当たりにした魔女は、その精美な顔を引きつらせる。
――なんで、骸骨がこんなところに!?
突如として現れた骸骨の姿に、愕然とする魔女。しかし彼女は、今にも骸骨に襲われそうな少女を見るなり、彼女を守ろうと椅子を蹴って立ち上がる。そのまま慌てて少女の元へ駆け寄りかけて……しかし、足を動かしかけた体勢のまま固まってしまった。
「いらっしゃい、骸骨さん!」
何の恐れもなく骸骨に近づき、気さくに話しかける少女。そして、驚いたことに骸骨はこちらに襲いかかってくるでもなく、真っ暗な眼窩でじっと少女を見下ろしていた。
魔女が呆気にとられて立ち尽くすなか、少女は手にしたお菓子袋を骸骨に手渡すと、明るい笑顔で言った。
「ハッピーハロウィン! はい、どうぞ。あたしと魔女さんで作ったクッキーだよ」
その後、骸骨は満足そうにカタカタと頸骨をならしながら、のそのそと歩き去って行った。手を振ってその背を見送った少女は、上機嫌に部屋へ戻ってきて、しかし呆然としたまま動かない魔女の姿に首を傾げる。
「魔女さん、どうしたの?」
「どうしたのって、それはこっちの台詞よ。さっきのはいったい?」
「あぁ、骸骨さんだよ。今日はハロウィンだから、お菓子をもらいに来たんだって」
何でもないことのように話す少女。だが、魔女は更に疑うように尋ねる。
「彼らの言葉が分かるの?」
「えーっと、正確に理解できるってわけじゃないけど、なんとなく気持ちが伝わってくるっていうか……。ほら、言葉は通じなくても、心は通じるってやつだよ」
「彼らは幽霊なんだよ? もし襲われて、連れ去られでもしたら……」
幽霊――それは、生を持たない魂だけの存在の総称。ゴーストや骸骨と言った、時にお化けや悪霊などとも呼称される彼らは、未練や怨念などによって、死してなお現世とあの世の狭間を彷徨い続けているという。
そのような存在が突然訪ねてきたのだ。少女を心配する魔女の警告に、しかし少女は口を尖らせて返す。
「大丈夫。幽霊さん達はそんなことしないよ。だって、今日はハロウィンなんだもの」
――そう。今宵はハロウィン。この世とあの世が交わる日。あの世から帰ってきた魂達が、自由に跋扈する特別な夜。そこに仮装した子供がいようと、本物の幽霊がいようと、不思議ではないのだ。
少女は玄関の扉を振り返ると、ひとりでに呟く。
「あたしね、ひとりぼっちなのはすごく辛いと思うんだ。寂しくて、寒くて、凍えてしまいそうで……。それは幽霊さん達だって同じかもしれないでしょ。だから、お菓子をいっぱい用意して、みんなでパーティーを開くの。それならみんなさみしくないし、みんな楽しい!」
そう語る少女の声は、期待と興奮に満ちあふれている。
そのとき、家の外から吹き付けた風が、叩くような音を立てて窓を揺らした。魔女は驚いてそちらに視線を向けてみれば、窓の外には無数の青白い影がふわふわと飛び回っている。
少女はパッと表情を輝かせると、困惑する魔女に手を伸ばして言った。
「ほら、あたしたちも行こうよ! みんなが呼んでるよ!」
「え? ちょ、ちょっと待って!?」
突然腕を掴まれて戸惑う魔女に、少女はウインクをしてみせる。
そのまま少女に手を引かれて、魔女は民家の外へと駆け出す。玄関の扉を開け放てば、そこは月明かりに照らされて、草木が銀色に煌めく幻想的な光景が広がっていた。
と、民家から出てきた二人に気付いたのか、夜の森に集まっていたゴースト達が一斉にこちらを振り向く。ふわふわと魔女たちの元へ飛んできた彼らは、ケタケタと怪しい笑い声をあげながら口々に叫ぶ。
「トリックオアトリート!」
それは、お化けが跋扈する収穫祭の夜——ハロウィン・ナイトだ。
※
空を覆っていた暗雲はいつの間にか晴れていて、頭上には美しい満月が浮かんでいた。
青白い月光は森の中を怪しく照らし、辺りを神秘的に染めている。
少女に半ば連れ出されるような形で民家から飛び出した魔女は、あちこちを探索しながら、闇色から一変した森を興味深そうに見回していた。
彼女から少し離れたところでは、少女がお菓子袋でいっぱいになった籠を手に、クッキーをゴースト達に配っている。お菓子を貰ってご満悦の彼らは、早速袋からクッキーを取り出すと、長い舌で絡め取るようにして次々に口の中へと放り込んでいた。
――幽霊なのにクッキーは食べられるんだ……。
予想外の発見に、魔女は軽い衝撃を受ける。と、こちらに気付いた少女が、手を振りながら駆け寄ってきた。
「あ、魔女さん! ここにいたんだ」
「随分と人気者だったみたいね。お菓子、喜んでもらえたみたいでよかった」
「うん。あんなにたくさん作ったのに、もう全部なくなっちゃったよ」
そう言って少女が見せてきた籠の中は見事に空っぽだ。しかし、みんなに喜んでもらえたことが嬉しいのか、少女は満足げだ。
「……それにしても、綺麗な夜だね」
「そうね」
うっとりと呟く少女の横で、魔女は目の前に広がる光景を浸るような気持ちで眺める。
森の中にある小さな原っぱ。月光に照らされ美しく煌めく空間に集まったゴースト達は、ハロウィンの一夜を満喫するかのように陽気に歌い、くるくる回り踊っている。森の奥からは、どこからともなく不思議な音色が聞こえてくる。どこかで他のゴースト達が奏でているのだろうか。
幽霊達が作り出すその魅惑的な光景は、森の中に作られた舞台のようだ。
「あ~、もう我慢できない!」
いきなり少女が叫んだかと思えば、彼女は隣の魔女の手をおもむろに握る。目を白黒とさせる魔女の体を、少女はそっと引き寄せて言った。
「ほら。踊ろうよ、魔女さん!」
「えっ? わ、私は踊りなんて……」
「大丈夫大丈夫! 音楽に合わせて、自分の思うままに体を動かせばいいの」
うきうきとした少女の言葉に、原っぱで踊っていたゴースト達も、いたずらっぽく微笑む。少女に手を引かれるようにして、二人は森の舞台へと歩いて行く。
少女は魔女と手を繋いだまま、どこからか聞こえてくる音楽に乗せて体を動かしはじめた。楽しそうに踊る彼女のリードに合わせて、魔女は不慣れながらも足を動かす。
「こ、こんなかんじ?」
「そうそう、魔女さん上手!」
月の照明に照らされた舞台の上で、二人は見る者を惹きつける可憐なダンスを披露する。
彼女らの周りでは、ゴースト達がユラユラと舞い踊り、骸骨達は骨をならしながら軽快なステップを踏む。ゾンビがつま弾く音楽に合わせて、歌自慢のゴースト達は精美な歌声を響かせた。青白い人魂は神秘的な輝きで舞台を彩り、月明かりの下で皆が幸せそうに笑い合う。
まるで森の中でひっそりと開かれた舞踏会。時が経つのも忘れて、ハロウィン・ナイトは続いていった。
※
「つ、疲れた……」
いったいどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
あれからしばらく少女や幽霊達と共にハロウィン・ナイトを楽しんでいた魔女は、休憩がてら森の中をゆったりと歩いていた。
後方からは、今も陽気な声や音楽が微かに伝わってくる。まだ彼らの舞踏会は続いているようだ。底抜けの体力を持つ少女と、そもそも肉体のない幽霊達と一緒のダンスは楽しくもあり、だが体力のない魔女がついて行くにはあまりに過酷だった。
魔女は疲労感にぐったりとしながらも、近くに手頃な倒木を見つけて座り込む。
ふと顔を上げれば、目の前には森を開くようにして、向こう岸が見えない程の大きな泉が広がっている。静かな水面には波紋一つなく、鏡面のように夜空の星々を映し出していた。
「こんなところでどうしたの?」
「ちょっと休憩。ほんと、自分の体力のなさにはうんざりするよ」
疲れた様子でため息をつく魔女に、背後から抱きついた少女が微苦笑する。
「魔女さんでも、あれだけ踊れば疲れるんだね」
「それはそうよ。魔法を使えることを除けば、私も普通の人間と変わらないから」
「へぇ、なんだか意外」
「がっかりした?」
「ううん、むしろ魔女さんが身近に感じられて嬉しい!」
少女は魔女の隣に座ると、魔女の手に自分の手を重ね合わせた。
「あたし、こうして誰かと一緒にハロウィンの夜を過ごすのは初めてなんだ。みんなで一緒に遊んで、踊って、笑い合って……あたしね、今すごーく幸せなの」
そう言って、少女は屈託なく笑う。そんな彼女の笑顔を見ていると、同時に魔女の心も暖かくなった。
「……あなたの喜ぶ顔が見られて、私もうれしいよ」
「そういう魔女さんこそ、いい笑顔をしてたじゃない」
「え?」
「ほら、今だって!」
魔女は目を丸くして自分の顔に触れる。手で顔に触れ、頬を撫で、引っ張る。その様がおかしくて、少女は声を上げて笑い始めた。
魔女は慌てて立ち上がり、ふらふらと泉に近づく。そうして覗き込んだ水面には、どこか困惑しながらも不器用な笑みを浮かべた魔女の顔があった。
「どうして……?」
疑念がこみ上げてくる。それだけじゃない、この心の底から溢れてくる気持ちは何なのだろうか。
「もしかして気付いてなかった? 魔女さん、さっきからずっと笑ってたんだよ? すごく楽しそうに」
「……楽しい? 私は、楽しんでるの?」
「少なくとも、あたしにはそう見えるよ」
魔女は少女の言葉が信じられずに、水面の中の自分に触れる。波紋によってその像が揺らぐが、それでも泉の中の彼女は楽しそうな笑みを浮かべていた。
「そっか……私、楽しんでるんだ」
ずっと忘れていたような気がする。自分にも、こんな風に笑うことができたなんて……。
「……ふふ……あははは……」
魔女は笑った。心の底から、声を上げて。
そんな彼女に釣られるように、笑い声は少女へと伝わり、やがて近くに集まってきたゴースト達にも広がっていく。朗笑は伝染し、森の中を優しく包み込んでいく。
「魔女さんもあたしも、幽霊さんたちも、みんな同じなんだよ。みんな、誰かと一緒に、ただ楽しく笑い合いたいだけなんだ」
両手を大きく広げて満面の笑顔で話す少女に、側に浮かんだゴースト達もうなずく。
災いを招くと恐れられ、悪霊として闇へと追いやられる幽霊達もまた孤独なのかもしれない。しかし、彼らと共に過ごして分かった。みんなで楽しく笑い合っていたい……その思いに違いなどないのだ。
ハロウィン・ナイトの元、魔女も、少女も、そして幽霊達も同じだった。
皆で心の底から笑い合える。そんな幸せが、ここにはあった。
――しかし不思議だ。
魔女はふと、隣でゴースト達と戯れている少女を見やる。
魔女である自分や、幽霊といった存在を前にしても、恐れたり偏見を持ったりすることなく接する少女。そこに些細な違いなど関係ない、彼女の純真な心に魔女は感心する。
と、そのとき魔女は不意に何者かの気配を感じて、後ろを振り返った。
「あなたは、確か……」
泉から離れた木の近く、そこに先ほど少女の家を訪ねてきた骸骨が立っていた。
「あ、骸骨さん! また会えたね!」
遅れてその存在に気付いた少女が、親しげに声をかける。再会に喜ぶ彼女。すると骸骨は骨の体をカタカタと動かしながら二人の側へやってくると、何かを伝えようというのか声帯のない口を動かした。しかし魔女には何を伝えたがっているのか分からず、尋ねるように少女の方を見る。
「……そっか、そろそろ時間なんだね?」
寂しげな少女の言葉。その意味を魔女はすぐに察した。
きっと、ハロウィン・ナイトが終わりに近づいているのだ。
見れば夜空に浮かぶ月も西の空へと下り始めており、周辺も妙なくらいの静けさに包まれている。急に戻ってきた夜の薄ら寒さに、魔女は体を震わせた。
少女は周囲に浮かぶゴースト達を、さみしげに見回す。
「もっと、みんなと一緒に遊びたかったな……」
名残惜しそうに呟く少女。そんな彼女の肩を叩いた骸骨は、おもむろに腕の骨を上げて森のある場所を指さした。その動きに合わせて、魔女達もそちらへ視線を動かす。
「あれは……」
骸骨が指し示したのは、森の中に伸びる小道だ。のそのそとそちらへ歩いて行く骸骨を追いかけた二人は、道の入口に立ってその先をのぞき込む。
木々の合間にできた細い道には月明かりがほとんど差さず、黒い絵の具で塗りつぶしたかのように真っ暗だ。
おそらく森の更に奥深くへ続いているであろう小道に、少しずつゴースト達が集まってくる。やがて彼らは列をなし、続々と森の奥へと進みはじめた。
その光景を前に、少女はひとりでに零す。
「ハロウィン・パレード……」
それはいわば、ハロウィンを終えた幽霊達の帰り道。あの世から戻ってきた魂が、元の世界へ帰るために作る行列だ。しかし、森の中の帰路は、なぜだか酷く暗くて、うら寂しいものに見えた。そして少女もまた、同じものを感じたらしい。どうしようもない寂寥感に項垂れる彼女。その手を骸骨は手に取ると、パレードへの道を指し示した。
「え、もしかして連れて行ってくれるの?」
驚いて叫ぶ少女に、骸骨はそっと頷く。そして今度は魔女の方を向くと、もう片方の手を差し出した。少女は嬉々として骸骨の言葉を伝える。
――それは、骸骨達からの招待だった。
楽しかったハロウィン・ナイトは、しかしあっという間に終わりを迎えようとしている。特別な一夜が過ぎ去れば、再び暗く冷たい闇が夜を覆い尽くす。だが自分たちの国に来れば、ずっと一緒に楽しく過ごすことができると言うのだ。
「ねぇ、魔女さん! あたしたちも行こうよ!」
目をキラキラとさせて魔女を誘う少女は、骸骨達の国に興味津々のようだ。
それもそうだろう、と魔女は思う。彼らと過ごすハロウィンはとても楽しく、幸せな時間だった。そんな毎日がずっと続けばいい。だから、骸骨の誘いは願ってもないことで……。
「……帰ろう」
平坦な魔女の声。静かな、だがはっきりとした魔女の一言に、少女は首をかしげる。しかし魔女はまっすぐに骸骨の元へ歩み寄ると、彼の頭蓋を見上げて尋ねる。
「ひとつ、聞かせて。あなたたちの国って、どんなところなの?」
魔女の質問に、骸骨は考え込むようにして動きを止める。その隙に魔女は少女の手を取ると、自分の元へと引き寄せた。
「ちょっと、魔女さん!? 何するの?」
状況が飲み込めずに少女は狼狽えるが、魔女の目は未だその場で立ち尽くしている骸骨へと向けられていた。彼女の視線を受ける骸骨。その眼窩には……空虚な闇が広がっていた。
――そして魔女は悟った。彼らの国、彼らの本質を。
それは、現世とあの世と狭間に取り残された魂。
生者として大地を踏むことは出来ず、あの世に還ることも拒まれ、永遠に闇の中を彷徨い続ける彼ら。還るべき場所を失い、孤独に呑まれ、満たされない心を埋めようとしても、しかし闇は暗く冷たくて、彼らの魂をすり切らせていく。たとえ同胞達と慰め合おうと、どれほど仲間に誘い込もうとも、既に失われてしまった心は決して満たされることはない。闇はまるで呪いのように彼らを縛り付けている。
彼らは自分と同じで、けれども違う。そこには決して交わることのできない、生死という名の壁がある。彼らとは在れる世界が異なるのだ。
「ごめんなさい。だけど、そっちにはいけない……」
「どうして?」
少女の乾いた問いは誰の意思か。骸骨は空虚な目でこちらをじっと見つめている。しかし、魔女は少女の手を掴んだまま離さない。
断固とした魔女の返答に、骸骨は寂しげに俯く。そして、彼は魔女達に背を向けると、そのまま暗い森の小道へと去って行った。
――これで、いいの……。
魔女はそう心の中で呟きながら、骸骨の背を見送る。
ハロウィン・パレードは帰り道。しかし、彼らの行く先には、果てのない暗闇が広がっている。先の見えない闇の中へ、とぼとぼと歩いて行くその後ろ姿は酷く悲しくて、わびしいものに見えた。
「ちょっと待って!」
魔女は咄嗟に声を上げて、立ち去ろうとする骸骨を呼び止める。
「……魔女さん?」
少女が不思議そうに魔女を見る。少女の疑問、そして一抹の期待がこもった視線を感じながら、魔女はおもむろに右手を掲げる。そうして空中に召喚された杖を掴んだ彼女は、全身を巡る魔力に意識を集中させた。
確かに、彼らと自分の間には生死という名の大きな隔たりがある。しかし、魔女もまた分かっていた。彼らも自分と同じく、孤独に震える者達であることを。
そして、彼らは自分を受け入れてくれた。自分にも心の底から楽しんで、笑うことが出来るのだと気付かせてくれた。彼らは、魔女を孤独から救ってくれたのだ。
――彼らのために、私に出来ることは……。
今まで、孤独を当然として生きてきた。心をすり減らし、いつしか目的すら思い出せなくなって、ただひたすらに惰性で飛び続けていた。
なぜ自分には魔法が使えるのか。そのことを忌々しく思いながらも、縋るように修練を重ねてきた魔法。それはひょっとすると、凍えるような寒さから……どうしようもなく襲ってくる孤独感から逃れるためだったのかもしれない。
魔女は隣に立つ少女を見やる。
彼女は、自分の魔法をすごいと言ってくれた。魔女である自分に、温もりを与えてくれたのだ。
魔女は少女と過ごした一夜を、みんなで笑い合ったハロウィン・ナイトを思い浮かべる。孤独を払い、暖かさに満ちあふれた幸せの時間を。
「私に出来るのは、これくらいだから……」
だからせめて、自分に出来る精一杯のお礼返しを。
そして、魔女は始動後を唱える。ただただ忌まわしかった、だが自分にしか使えない魔法を行使する。そして、魔女の周囲に無数の光が浮かび上がった。
「――往って」
生み出した魔法の光に、祈りを乗せて飛ばす。黄金色の光球は煌びやかな光の粒子を放ちながら、深い森を飛びぬける。闇を呑み込んで進む輝きはランタンのように暖かく、瞬く間に森中に広がって、どこまでも続くような光の道を作り出した。
終わりかけていた楽しい時間に、再び明かりを灯す。小道に集まっていたゴースト達は驚きに目を見張り、きょろきょろと辺りを見回している。森のあちこちから顔を見せた彼らは、次々に列を成して光の道を歩き出す。
ハロウィン・パレードが始まった。
長き旅路に灯火を。彷徨える魂達に祝福を。暖かな光は孤独を照らし、還るべき場所への道しるべとなる。魔女が生み出した光には、溢れんばかりの温もりが込められていた。
夜の森に開かれた、幽霊達の行進。ハロウィン・パレードは幻想的な光に包まれて、歓声と笑顔で満ちあふれていた。
「きれい……」
いっぱいに開かれた双眸を輝かせて、少女は感嘆の声を零す。
彼女の隣でパレードを眺めていた魔女は、しかし先ほどの骸骨がまだその場で立ち尽くしていることに気付いた。彼の側に駆け寄る二人。だが、骸骨はパレードを恍惚とした表情で見つめたままだ。
「行かないの?」と魔女が尋ねると、骸骨はゆっくりと二人の方を振り向く。その眼窩は相変わらず空虚な闇で覆われているが、しかしどこか透き通って、パレードの光を受けて輝いているように見えた。
すると骸骨は、突然パレードとは反対の方向へと歩き出したかと思えば、近くに置かれた何かを掴み、大事そうに抱えて戻ってくる。そして魔女へと差し出されたそれは、風に飛ばされて無くしてしまった魔女のマントだった。
「近くに落ちてたんだって。あなたの物だったのなら、見つけられて良かった……だって」
骸骨の意思を伝える少女。魔女は骸骨からマントを受け取ると、早速体に羽織る。以前はいくら包まろうと何を感じられなかったマントが、今はとても暖かく感じられた。
魔女は感謝の意を伝えると、骸骨は顎骨をカタカタと動かしてから、パレードの方へと歩いて行く。
声帯のない彼の声は聞こえなかったが、魔女には彼が言おうとした言葉が分かった気がした。
「ありがとう……だって」
「そう。……良かった」
暖かな光は闇を包み込み、パレードは孤独な魂を乗せていく。どこまでも続く光の道を眺める魔女と少女。二人は向かい合い、互いに顔を綻ばせる。そして心の底から笑い合った。
※
幽霊達の旅立ちを見送った後、民家へと駆け戻った魔女達は、そのままの足で寝室へと向かう。飛び込むようにしてベッドに身を預ければ、ふかふかしたマットが二人の体を包むように優しく受け止める。
寝室に置かれたダブルベッドは、女の子二人が眠るには十分すぎる大きさだ。ゆったりとくつろぐ魔女の隣では、少女がベッドの上で体を弾ませてはしゃいでいる。
「……それにしても、さっきの魔女さんの魔法、キラキラってして、あったかくて、とってもすてきだったよ! あたし、感動しちゃった!」
少女はパレードの光景が頭から離れないようすだ。
興奮に表情を煌めかせる彼女を尻目に、魔女は窓の外へと目を向ける。彼女が生み出した光は、今もまだ森の中にうっすらとその輝きを残していて、違えようのない温もりに満ちていた。
――彼らは、還るべき場所へと戻れたのだろうか……。
魔女にとって、ただ自分を縛り付けるだけだった忌まわしい魔法が、今は孤独に彷徨っていた魂達に道を示している。そのことがなぜだかとても嬉しくて、不思議と自分も救われたように思えたのだ。
「……私があの魔法を使えたのは、あなたのおかげね」
「え? あたしは何もしてないよ?」
きょとんとして首を傾げる少女に、しかし魔女はかぶりを振る。
「そんなことない。私はあなたと出会わなかったら、あの魔法は使えなかった。……私はね、ずっと一人だったの。生まれた時から、なぜか私には魔法が使えて……そんな私を見るなり、皆は口を揃えて悪魔だ化け物だと罵って、私は一人疎外されて……。私は魔女で、それは当然なことだと自分に言い聞かせてたけど、どうしようもなく胸が冷たくて……。けど、そんな私をあなたは嫌な顔一つせず受け入れてくれた。孤独しか知らなかった私に、この暖かさを教えてくれたから……」
魔女は胸のブローチに手を伸ばす。少女から貰ったそれは、今も優しい温もりを帯びていた。
「あなたは私の魔法を凄いと言ってくれた。初めてだった。私の魔法を見て喜んでもらえる……そんなことがあり得るなんて、想像もしなかった。……そして、思えたの。私なんかの魔法でも、誰かのために使えるんじゃないかって。誰かの孤独を照らすことが出来るんじゃないかって、そう思えた。――だから、ありがとう」
それは、魔女が今まで誰にも明かしたことのない胸の内。嘘偽りのない心からの言葉。
魔女の純真な感謝に、ぽかんと固まっていた少女は、しかしすぐにクスッと相好を崩す。
「もう、あたしなんかに改まらなくていいよ~。あたしだって、魔女さんには感謝してるんだから。……実はあたしね、一人で留守番するの、すごく寂しかったの。一人の部屋ってね、なんだか静かで寒いんだ。だから魔女さんが家を訪ねてきてくれたとき、すごく嬉しかった。一緒にお話して、ハロウィンを過ごせて、あたしはとっても幸せなの! それに……あたし達はもう友達でしょ?」
「……友達?」
「うん、友達! だから、お互い様だよ!」
そう言って、少女は照れくさそうにはにかんだ。
――友達。そんなものは自分には無縁のものだと思っていた魔女にとって、その響きはとても心地よいものに感じられた。
「あたしね、まだまだ魔女さんに聞きたいこと……話したいことが沢山あるんだ!」
「……じゃあ、質問遊びの続きでもする?」
「いいね! やろうよ!」
魔女の提案に、少女が満面の笑みで答える。
それから二人は、夜が更けるのも忘れておしゃべりをした。
華やかに弾む会話は、喜びと温もりに満ちている。
そのかけがえのない一瞬一瞬は、二人にとって何にも代えがたい幸せなひとときだった。
※
外の喧噪も落ち着き、すっかりと静まりかえった深夜。
窓から差す月明かりだけが寝室を青白く照らす中、ベッドに横になった魔女は毛布を顔の辺りまで引き上げる。隣には、少女が毛布に包まったまま小さく寝息をたてていた。
魔女は視線だけを動かして、窓の先に浮かぶ月を見上げる。
この一夜の出来事は、孤独の中を生きていた彼女にとっては何もかもが新鮮で、この時だけは一人である寂しさを忘れて、心の底から楽しいと感じることができた。
それはきっと、心のどこかでずっと望んでいたことなのかもしれない。満ち足りた幸せ、しかし同時に名残惜しくも思ってしまう。
夜が明ければ、自分は再び旅を続けるために、ここを去ることになるだろう。だから、もし朝が来てしまったら、この楽しい時間も消えてなくなってしまうのだろうか。
少女と別れる時のことを思って、だが魔女は首を横に振る。毛布にうずまり、考えたくもない想像を追い払おうとした――そのときだった。
「お願い……いかないで……」
静寂に包まれた寝室に聞こえた、少女のすすり泣く声。
寝言だろうか。それはずっと明るい笑顔を絶やさなかった少女からは想像もつかない、ひどく怯えた声だった。様子のおかしい少女を心配した魔女は、毛布から顔を覗かせると、隣で眠る少女を見やる。
「――やめて! 置いていかないで! 私を一人にしないで!」
突然ヒステリックな叫びを上げて跳ね起きる少女。目に涙をたたえ、狂ったように両手を突き出した彼女に、驚いた魔女は慌てて体を起こす。少女を落ち着かせようと手を伸ばそうとして、しかし逆に少女の手が魔女の体に掴みかかった。
「側にいて! 暗いのは……寒いのは嫌なの!」
少女は魔女に飛びついたまま、見えない何かに縋り付くようにして泣き叫ぶ。その目はどこか遠い虚空を見ているようで、焦点もはっきりとしていない。
「落ち着いて! いったいどうしたの?」
「何も見えない……どこにいるの? 暗い、真っ暗よ!」
少女は涙を流し、体を震わせる。狂乱状態の彼女に、魔女はそっと少女の背に手を回すと、彼女の体を優しく抱き寄せた。
「大丈夫……私はここにいるよ」
「見えない……暗い……。嫌! もう寒いのは嫌……嫌なの……」
「……私も、寒いのは嫌なんだ。同じだね。寒くて……寒くて……凍えそうで……」
魔女は少女の背中をさすりながら囁く。何度も、何度も、静かに、だが心を込めて。
きっと、彼女にも何か辛いことがあったのだろう。暗くて凍えそうな、孤独感に震えていたのかもしれない。だから……たとえ今この瞬間だけでも、彼女がその苦しみから解放されればいいと思う。
「大丈夫……大丈夫……」
魔女は囁く。そして、少女をそっと抱きしめた。
どれくらい経っただろうか。
魔女に身をゆだねていた少女が、ゆっくりと顔を上げる。
「……魔女さん、なの?」
「気がついた? 心配したんだよ?」
「あれ、あたし……なんで……」
なぜ自分が魔女に抱かれているのか、少女はすぐには状況を思い出せず、キョロキョロと辺りを見回す。目にはすっかり焦点が戻っていた。そのことに魔女はほっと息をつく。
彼女はベッドの側のテーブルに置かれたカボチャのランタンを手に取ると、空いた方の手で指を弾く。魔法で指先に火を生み出し、それをランタンの中に灯した。
「暖かい……」
恍惚とした表情で、ランタンに手をかざす少女。泣きじゃくって冷えた体に、再び熱が戻っていく。
「……ごめんね、魔女さん。取り乱しちゃって」
「気にしないで。それよりも、大丈夫? もしかして怖い夢でも見ちゃった?」
気にかけるような魔女の問いに、少女はベッドの上で膝を抱える。そのまま、ぼんやりとどこか遠いところを眺めていた彼女は、ぽつぽつと話し始めた。
「……ずっと、真っ暗だった。暗くて、寂しくて、寒かった。誰もいない……いつ終わるのかも分からない……」
震える両手を膝の上で重ね合わせて、少女は更に続ける。
「あたし、怖いんだ。もしこのまま眠ってしまったら……もし目が覚めたら、何もかも夢だったんじゃないかって……」
「……夢じゃないよ。あなたと私、二人で一緒に過ごした時間は、夢なんかじゃない」
「あたしは……あたしは、一人じゃないの?」
「一人じゃない。私はあなたの側にいる」
魔女は少女の手に自分の手を重ね合わせる。そして、今にも泣き出しそうな少女の顔をまっすぐに見つめた。
「どこにいたって、私たちは一緒。だって、あなたが言ってくれたじゃない? 私たちは友達だって」
「友達……ッ!」
――たとえ明日が来たとしても、二人の時間が別れたとしても、この繋がりが途切れることはない。
少女の目から涙がこぼれ落ちる。止めどなく溢れるそれを、しかし少女は何度も拭う。そして、どこかあどけなくも、憑きものが落ちたような微笑みを見せた。それに釣られるようにして、魔女にも笑顔が伝染する。
カボチャのランタンが明るく染める空間で、二人は涙が涸れるほどに笑い合った。
「――そうだ。あたし、まだ大切なことを聞いてなかった」
「大切なこと?」
「うん。あたし達、まだお互いの名前を知らないよね」
少女の言葉に、魔女はハッとして口に手を当てる。
「ねぇ。聞かせてよ、魔女さんの名前」
「……知ってる? 魔法において、名前というものはとても重要な意味を持つの」
「そうなの? じゃあ、もしかして聞いちゃ駄目だった?」
「……普通は無闇に真名を明かしてはいけないんだけど……あなたは特別」
そう言って、魔女は少女の耳に顔を近づける。
「あたしの名前はね……」
少女の耳元に囁く魔女。すると少女はこそばゆかったのかピクリと耳を震わせて、だが嬉しそうに微笑んだ。
「へぇ、魔女さんってそんな名前だったんだ。魔女さんにすごくピッタリ!」
「そ、そう? そんな風に言われると、なんだか照れくさいな。でも、これは二人だけの秘密にしておいてね?」
「うん、わかった! ……じゃあ、魔女さんの名前だけ聞いておいて、あたしだけ言わないってのも嫌だから……」
そして、今度は少女が魔女にそっと耳打ちする。
「……いい名前ね。とっても素敵」
「ほんと? えへへ~」
魔女に褒められ、面映ゆそうに笑う少女。
だが次の瞬間、急に少女は仰向けでベッドに倒れ込む。魔女が驚いて少女を見ると、彼女は眠そうに目元をこすっていた。
「なんだか、眠くなってきちゃった……」
「そうね、私も……」
思い出したかのように戻ってきた睡魔に、二人はそろってベッドに体を預ける。
窓の外を覗いてみれば、月光に紛れて輝く魔法の光も、もう僅かにしか残っていない。もう少しで夜も明けそうだ。
夜風が窓から流れ込み、寝室を吹き抜ける。
「寒いよ……」
毛布に包まりながらも、夜風の冷たさに声を漏らす少女。すると魔女は片手を毛布から出して指を弾く。
玄関に掛けていたマントを魔法で引き寄せた彼女は、震える少女に被せてあげる。
「……ふふ、ありがとう」
「一緒なら、寒くないよ」
「……ねぇ、魔女さん」
「なに?」
「手、握っていい?」
「うん、いいよ」
「嬉しい……」
二人はベッドで横になったまま向かい合う。差し出される少女の小さな手に、魔女は自分の手を重ね合わせた。
「暖かいね……」
「そうね……。本当に暖かい……」
手のひらから伝わる温もりを確かめるように、少女は魔女の手をそっと握る。
そして、魔女が再び少女の方を見た時には、少女は安らかな寝息を立てて眠っていた。
「……おやすみ」
魔女は少女に向けて微笑み、自身も瞼を閉じる。
手のひらに確かな温もりを感じながら、彼女もまた眠りの中へと下りていった。
――ありがとう。あたしは、あなたに会えて……。
どこからか聞こえてきた声に、魔女は慌てて飛び起きる。
「ま、眩しい!」
外から差し込む日光を受け、咄嗟に目を覆う彼女。目元をこすりながら窓の外を見てみれば、既に太陽が空高く上っている。どうやら、随分と寝過ごしてしまったようだ。寝起きで朦朧とした意識の中、彼女はふと鼻をかすめる埃っぽさを感じて辺りを見回し――唖然として固まった。
彼女が眠っていた部屋。そこに置かれた家具や床には至る所に埃が積もり、天井には蜘蛛の巣が乱雑に張り巡らされていた。日差しが差し込む窓は完全な吹き抜けとなってしまっており、冬の朝の冷たい風が民家内を吹き抜ける。この寝室が長らく使われていないことを物語る光景に、魔女は状況が呑み込めず呆然と座り込む。
何か、大切なことを忘れている気がした。
「ッ!」
魔女は慌ててベッドから立ち上がると、足に絡みつく埃も忘れて寝室を飛び出す。
あちこちがボロボロになった民家の中を、彼女は必死に駆け回る。しかし、隣で眠っていたはずの少女の姿はどこにもない。
「どこへ行っちゃったの?」
確かに、先ほど彼女の声が聞こえたはずなのだ。
魔女は少女を探して片っ端から部屋を調べていくが、しかし民家はもう何年も人が住んでいないと思わせるほどに荒れ果ててしまっていた。
それでも魔女は一抹の期待を込めて寝室へと戻るが、そこには埃を被ったカボチャのランタンが置かれているのみだ。そこに火は灯っていない。
魔女はとぼとぼとベッドに歩み寄ると、その場で膝をつく。どうしようもない虚脱感。縋るように寄りかかったベッドは、埃とカビのにおいがした。
――あれは夢だったのだろうか……。
襲ってくる孤独感。当たり前だったはずのそれが、今は体を蝕む毒のように彼女の心を締め付ける。胸が苦しくて、張り裂けそうだ。
声にならない嗚咽を上げて、痛みに耐えるように胸を掴んだ彼女は……しかしその手に暖かいものを感じて目を見開く。
「これって……」
魔女の左胸に付けられた、カボチャの形をしたブローチ。かけがえのない友達から貰ったお揃いのそれには、今も仄かな暖かさが宿っていた。
――1人じゃない。どこにいたって、繋がっている。だって私たちは……。
「そうね。私たちは、ずっと一緒……」
魔女はベッドの上に広げられたマントを掴む。黒色の三角帽子を被り、ほうきを片手に民家を後にする。
森の中には煌々とした日差しが差し込み、そこに生えた草木を明るく照らしている。
ふと魔女は振り返り、後ろでポツンと建っている民家を見上げる。そこに、もう何の気配も感じられない。ただ、そこで生きた一人の少女の痕跡が残るのみだ。
木漏れ日揺蕩う森の中、木々の合間を吹き抜ける風は暖かい。魔女はほうきに跨がると、森の奥から吹く風に押されるようにして、大空へと飛び上がった。
晴れ晴れとしたその表情には、かつてのような冷たさは感じられない。魔女の手には、心には、まだ温もりが残っている。
どこまでも続く青空を、彼女は飛び続ける。
ハロウィン――それは、生死の境界が繋がる日。
孤独な魂達が密かに集う、特別な一夜。