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二度裁判にかけれた女

作者: 浅草 銀次郎

子供2人を真面目に育てていた母に突然裁判がかけられる。その相手は父だった…その後、実の妹からも裁判をかけられる事になりそれに必死に立ち向かう1人の母の姿を描いたストーリー。

高校時代はあっけなかった…

普通の高校生なら夏の最後の試合負けたら泣く球児が大半だろうが僕は涙一粒さえ出なかった。

なぜなら、大学に入って経験を積んで野球選手になれると思っていたからだ。

僕が野球を始めたのは小学2年生の頃だった。

家の近所に住む、少年の勧めで野球部に入った。習い事はたくさんさせてもらった。少林寺拳法、そろばん、水泳、ピアノ、英語、どれも手付かずだったが野球だけは続いた、多分好きなのだったのだろう。小学生の頃は本当に野球が楽しくて僕は野球に埋め尽くされていたし野球部もそれなりに強かった。しかし小学4年になった頃に父親が勝手に隣の町に引っ越すと言い出しさらに家を建てるという事だった。まだ小さかった僕は訳もわからず、大粒の涙が出た。学校も好きだったし、野球も友達もとても環境の良いところだったので、小学生ながらに父に反対をしたが意味もなく従うしたかなかった。

小学4年の夏、僕は隣に町に引っ越す事になった、

新しい小学校は生徒数が多く5クラスまであった。そして僕はもちろん野球部に入部した。

しかし野球部は弱く練習も適当だった、引っ越してから野球以外に習い事はしてなかったので、お菓子を毎日食べていた僕はぶくぶくと太っていき6年生の時は60kgまで太っていた。6年生の最後の夏の大会はあっけなく負けてしまった。野球が好きだった僕は親に頼んで、中学に進学した頃に隣町の強い野球部に入りたいと言ってそこで野球ができる環境を作ってもらった。片道車で、1時間月曜だけ休みそれ以外毎日送ってもらっていた。

中学に進学した頃は太り過ぎで練習に参加さえさせてもらえなかった…指導者にとりあえず走れと言われ、グラウンドを痩せるまで走り続けさせられた。今、思えばその頃から少しずつ野球に対しての熱が冷めていってたのかもしれない。

小学生の頃は暴力なんて奮われた事がなかったが中学になり、はじめて暴力を奮われた経験をした、そいつは1学年上で、今でもそいつの名前は忘れないが、なぜかそいつは練習前に僕の体をつねったり殴ったりしていた。家に帰り服を脱ぐと僕の体はアザだらけだった。親には言えなかった。悲しませたくなかったかもしれないからだ。そいつ顔は不細工なのに野球だけは上手かった。後に甲子園に出る事になるが、その後は野球選手になれず今は何をしているのかはわからない(地獄に落ちてくれてるといいが…笑)まあそんなやつせいぜい悲しい人生を送ってるのに違いないと心に言い聞かせた。

他にも面白い先輩がいた。試合の時に、先輩の応援をメガホンを叩いてするのだが、その先輩は打席で集中できないから応援はしないでくれと言っていた。

普通は集中していたら応援など聞こえないはずだ。

自分の打撃の調子が悪いからと応援の責任にしてきたのだ。(野球辞めたらいいのに)


そいつらが卒業して僕は3年生になった…

3年生になって気づいたのだか僕は野球があまり上手くなかったのだ!

まわりの子達はハードな練習を積み重ねて実力をつけていってたが僕は試合に出るのが精一杯で毎日指導者に怒られていた。今、現在もあるかもしれないが上手い子は重宝され下手な奴は殴られるこの文化は継続しているかわからないのだが、上手い奴がとても羨ましかった。3年生になってもらった背番号が2桁だった…僕は大粒の涙が出たこの3年間何をしてきたのだろうかと、親の前でもずっと泣いていた事を今でも記憶に残っている。

しかし最後の夏の大会はレギュラーとして出る事ができた、しかし、またしてもあっけなく負けてしまう。僕は試合に出る事が精一杯だったので、涙は出なかった。しかし周りの子達はみんな泣いていた。

まさか負けるとは思わなかったのだろう。後にそのメンバーの中で唯一、僕だけが甲子園に出れなかったのだ…それもそのはず、他の子達は実力があるので名門高校に入学する事になっていた。僕はすっかりやる気を失い野球は続けるつもりだったのだが弱小高校で高校生1年生から試合が出たいいう気持ちが芽生え弱小高校に進学する事を決意する。指導者からはもう少し名の通った高校勧められたが、僕は首を縦にふらなかった。

そして高校に進学する事になる、その高校は家から電車で片道1時間かかる所だった。その高校は不思議だった事がある。朝の7時から1時間かけてグランド整備をするのである。なんの意味があるのだろうか…練習をした方がよっぽどましでないのかと思っていた。

高校に進学すると普通は友達ができるはずだか僕は友達と呼べるような奴はいなかった。おそらく環境が合ってなかったのだろう。高校は公立高校で野球部に入る生徒の中には貧しい奴もいた。僕はそいつに弁当やパンを、盗まれた事もあった。グローブもボロボロで家も貧しかったのだろう、常にネガティブな発言しかしていなかった事が記憶にある。なぜかそいつは貧乏なのでずる賢く野球部の部員の子達の家を順番に泊まっていきタダ飯を、食らうという技も身につけていたのだ。今、思えば高校生ながらに天晴れをあげたいところだ。当時を思えば殺してやろうかと思う気持ちだが、今振り返ると悲しい奴なんだなあと上から見下ろせる事ができるこの立場がありがたい思う。

高校に入学しはじめて練習の日は今でも忘れないが、小学生の練習に毛が生えたぐらいだったのでとても楽だったのである。

中学時代の時の練習がハードすぎたのもあるのだろう。しかし、その後壮絶な体験が待ち受けていた。練習が終わると監督が帰りその後グラウンドに1年生を整列させて、先輩が1年生にケチをつけて順番に殴っていくのである。「この白線引いたん誰や〜」「このキャッチー道具磨いたん誰や〜」「ここ整備したん誰や〜」もはや矛盾でしかなかった。1人の部員がボコボコに殴られて気絶してしまう。そうすると先輩は焦ってその部員に水をかけて目を覚ますような事をしていた。当時はそれで済んだのかもしれないが暴力事件になってもおかしくないし誰もがそれを当たり前と思ってその仕打ちを受けていた。

入学した4月から7月の夏の大会の3ヶ月毎日殴られ続けた。それが原因かわからないが、僕は捕手をしていたが先輩にボールを返すのが不安でイップス症になってしまう。

イップス症とは野球に限らず他のスポーツでもあるみたいだが僕は腕が振れなくなりボールがすっぽ抜けてしまいキャッチボールができなくなってしまっていた。精神的に病んでしまっていた。

しかしそれが幸いしたのかわからないが打撃の調子がとても良かった。

当然ながら夏の大会先輩達の夏は一回戦で負ける事になる。

負けた瞬間、僕は嬉しかった。これで殴られなくなると…

夏の大会が終わりすぐ新人戦が始まった僕はとても打撃の調子が良かったので1年の秋から試合に出る事ができ高校の公式の初打席、満塁ホームランを打つ事ができた。野球場で打ったホームランは初めてだったので、打った瞬間、ベースを回る際に大声で叫んでしまった。今、思えば恥ずかしいなと思ってしまう。当時は必死で初めて努力が実った気がして嬉しくて仕方なかった。

1学年上の先輩はみんな優しかった同級生とは馬が全く合わなかったがなぜだか1学年上の先輩達は僕の事を可愛いがってくれた。それは今でも忘れない。(ありがとうございます。)

試合が終わりホームランボールをもらい自分の名前が書かれていたボールをいつまでも握りしめていた。しかし同級生達は僕をいいように思わなかったのだろう。反対に貶されるようなばかりな事を言うような奴ばかりだっあのである。「一本打っただけで調子乗りやがって」「天狗になってるなー」「たまたまやろー」純粋だった僕は普通にショックだった。初めは何も言い返せなかった。後に何度も喧嘩をするようになるが…その高校は田舎の高校で弱小だったが1学年上の先輩、自分達の時代はそこそこ強かったような気がする。もしもクジ運が良ければ甲子園に行けてたのかもしれないと今でも思い出す。2年の夏は超がつくほどの強豪校に敗れしまい、最後の年の選抜がかかった予選でも惜しくも負けてしまった。僕は春の甲子園にいけると本気で信じていたのだがあっさりと破れてしまった。あとは夏の大会しか甲子園に行けるチャンスはなかった。僕はその頃にはイップスも克服していた、しかし打撃の調子が良くなかった。自分の思った通りのスイングができなくなっていたのだった。スポーツというのは不思議なものだ。夏の大会が始まり一回戦は勝つ事ができたが2回戦で延長戦の末破れてしまう。僕は涙が出なかった。しかし隣のいた同級生達も泣いてはいなかった。その時に思い出したのだこいつらも試合に出るのが精一杯だったんだと…

不思議な気持ちだった。

僕は既に切り替えていた。大学で活躍すれば野球選手になれると…(その時は本気で信じていた)

夏が終わり次の年の春が来て、少し名の知れた名門大学にセレクションを受けて進学する事ができた。(後に金があれば入れる大学と知って落胆したが)…

大学に進学する時に父親に言われた、「どんだけ金かかるかわかるか?」

僕は当時お金に執着がなかったし自分で稼ぐ事も知らなかったので、父親が言ってる意味がわからなかった。それだけお金に不自由なく生活させてもらっていたからなのだろう、僕は金に疎かった。

大学は隣りの県だったので、寮に住む事になった。大学はもちろんのこと高校とは違い色々な名門高校から野球小僧集まってくる。

はじめての練習の日、僕は衝撃を受けた。

レベルが違いすぎたのだ。周りの子達は身長も高く、体の分厚さが違った。おまけに裕福な子達しかいないのだ。高校の時とは随分と違った環境だ。

周りの子達は良い野球道具、中には高級車に乗って登校してくる生徒もいた。大学の指導方法なのか1軍、2軍、3軍まであった。まるでプロ野球みたいだ。1軍は整備の整った練習場、2軍は整備の整っていない練習場、3軍になると練習に参加できないのだ!3軍の選手は草引きをしている、そしてほとんどやる気がない。

大学は高校野球と違って、少し規則が緩くなる部分もある、20歳になれば飲酒もできるしタバコも吸えるのだ。高校時代に熱を注ぎ過ぎた球児はバーンアウト謂わゆる燃え尽き症候群になってしまっている球児もいた。ギャンブルする人間もいれば女に狂ってしまう子達がいた。僕はとにかく頑張らなければと思い日々全力で練習していたが2軍で過ごす事になる。しかしある日のメンバー発表の日いきなり僕の名前が呼ばれた。僕は何かの間違いかと思ったが確かに僕の名前が呼ばれていた、当時100人の中の25人のメンバーに1年生ながら選ばれたのだ!しかしメンバーに選ばれただけであって試合に出る事はなかった。僕が1年先の時、4年生にプロ野球から注目される先輩がいた。その先輩は投手だった。先輩はとても優しかった。実力はもちろんだが何よりも性格が良かった。捕手だった僕はなぜか特別に可愛いがってもらった。そしてドラフト1位でプロ野球に入団することになる。こういう人がプロ野球選手になるんだなあととても勉強になった。(先輩には本当にお世話になりました。僕がいじめられそうな時も先輩がいてくれたお陰で何事もなく過ごせました。)

そして2回生になった時、事件が起きた監督、総監督が逮捕されたのだ。当時総監督が経営していた整骨院が水増し請求をしていたのが発覚し逮捕されたのだった。総監督は監督の先輩で指示に従うしかなかったのだ。僕達は練習が終わると監督が持ってくる書類に名前だけいつも書くという事をしていたのだった。その指示を総監督が出していたのだ。謂わゆる先輩の言う事は絶対的な事だったのだろう。

そのおかげで僕達は野球ができる事はおろか練習も禁止という大学野球連盟から通達されたのである。大学は1部リーグだったが2部に降格する恐れもあり、最悪の場合野球部廃部の可能性があるとまで言われた。僕はいい大人がこんな事をなぜするのかわからなくなり自暴自棄に陥った。20歳になっていたので、まあいいやという感覚でパチンコや酒に走ってしまった。

その頃、実家でもとんでもない事件が起きていた事は全く想像もしなかった。

母から1通のメールが来た。「お母さん家から出ていかなあかんかもしれない」僕は訳がわからなかったのでとにかく電話をかけた、母が電話に出て訳を説明してくれた、父が家に帰ってこなくなり1ヶ月経ったころ1通の手紙がきた。そこには裁判をかけるという内容だった。この家に住みたければ1000万用意しろ、できなければ3ヶ月以内にこの家から速やかに退居しろいう内容だった。元々、父親の事はあまり好きではなかったがその時は殺意が芽生えた。父親の家庭は昔は裕福ではなかったらしく、父とは母が結婚してからも、父の給料が安く生活費は父の給料が安定するまで母の貯金から賄っていた。父は少しばかり出世し給料が上がって、自分の金は自分で使いたかったのだろう、私利私欲に負け、母に裁判をかけたのだった。その話を聞いたは祖母(母方)は激怒し弁護士を探すと言って知り合いから弁護士を探してきたのだった。しかしその弁護士は詐欺士だったのだ。その祖母の知り合いの女はその詐欺士と手を組んでいたのだった。そしてそんな羽目にあってしまいその負い目を感じたのか祖母は首を吊って自殺してしまった。僕は気が動転してしまった。祖母の事は好きだった昔からよく面倒も見てくれたし、悪いことは悪いと叱ってくれた。母に怒られた時は祖母に泣きついた事もあったし、僕は初孫だったのでとにかく甘やかされて育った。祖母の家の仏壇の前で動かない祖母をみて僕は大声で泣いた。泣き喚いた。母も隣で大声で泣いている。しかし、弟だけは泣かなかった。僕は不思議で仕方なかった、そしてなぜ泣いてないのか理由を尋ねても弟は答えなかった。(その後泣かなかった理由を聞いて納得する)祖母の葬儀にはたくさんの人が訪れた、僕は本当に悲しかった。

父親も祖母を騙した女も殺してやろうと思う気持ちでいっぱいになった。

祖父(母方)は自営業で弟は高校を卒業し祖父の会社に就職して2年目だった。本当は弟も大学や専門学校に行きたかったと思う。しかし兄の僕が大学で結構なお金を払っている家庭の事情も知ってからだと思うが気を遣って就職したのだと僕の憶測なのだが…祖父は弟にとても厳しいかった、元々、金で物を言わす祖父は好きではなかったむしろ嫌いだった。祖父は学歴もなければ人望もなかったが運だけはあった。祖父の兄の仕事を兄が亡くなったのをきっかけに祖父が継いで、それで事実情、社長になったのだ昭和のバブルの時代は僕らは知らないが当時月収は軽く200万を超えていたという。祖父は博打が好きで儲けた金の大半あるいはそれ以上につぎ込んでいたらしい…

そんな弟の初任給手取りは10万だったらしい。

その給料を決めるのは祖母だったのだ、祖母曰く若い頃に金をもったらろくな事にならない、とよく口にしていたという。僕はその話に対して疑問に思った。現在の高卒で手取り10万の会社は探す方が難しいと思うぐらいだった。それでも弟は仕事を辞めずに頑張っていた。母には妹がいてその妹も祖父の会社の社員だった。しかし給料は弟の3倍近くあったらしい、大した仕事もしないのに、適当な事務作業をするだけで、本当に世の中よくわからないものだ、そして、祖母が死んだ後、その妹が弟にその仕事を全部放り投げて挙げ句の果てには祖父の家のタンス預金1000万を持ち逃げして雲隠れしてしまったのだった。金の事になると人というのは変わるものだ。それから妹の、行方はわからなくなってしまった。祖父の怒りは母に行くことになった。こんな事になったのは全てお前の責任だと言い出したのだ。母はその当時死に物狂いで働いていた自分でも何をしてたかわからないぐらい働いたと言っていた。休みなく寝る時間は3.4時間ぐらいしかなかったらしい。多分何も考えたくなかったのだろう働いてる方が気が紛れるとよく言っていた。

そんな母が倒れて入院してしまったのだ過労やストレスで僕が病院に行った時は意識が朦朧としていた。僕は人生がこのまま終わってしまうんじゃないかと思っていた。僕ほその時の記憶はうっすらとしか残っていない。母の体調が良くなるまで僕はずっと母に付き添っていた。何ヶ月かすると奇跡的に母の体調は回復して、退院する事になった。

母は家から出ていかなくては行けない事になっていたので、母は貯めていたお金で小さな家に引っ越した。

母と弟はそこで住む事になった。

その頃に大学4年になっていた僕は就職活動中だったが仕事を探す気にはなれなかったが、とりあえず働かなければと思い、求人広告に掲載されていた引っ越し会社の求人を目にし面接を受けそこで就職する事になる。22歳の春だった。今までアルバイトはした事があったのだが朝から晩まで働いた事がなかった僕はとても仕事がハードだった。体力には自信があったがそれとは別に上司のパワハラがあった。上司のパワハラでとてもつもなく精神的においこまれた。殴られる事は幸いなかったが人間、毎日罵声を浴びせられると参るものである。今でもそのおっさんの事思い出すと殺意が芽生えてしまう。仕事の時間は朝の6時30分から夜の12時までだった。体重も落ちてご飯も食べられなくなっていた。そして半年が経ち精神的に追い込まれた僕は引っ越し会社を退職をする事を決意した。会社に退職届けを出し実家に帰りますと言うと、「実家に帰るんなら引っ越し代安くするでーっと嘲り笑いながら言われた」

そして母が住む家に一緒に住ましてもらう事になる。母と弟は働き者で毎日休まず仕事していた。僕は1ヶ月間仕事もせずにニートみたいな事をしていたがさすがに働かなければと思い求人広告に掲載されていた飲食店の仕事を選び面接を受けそこで就職することになる。求人広告に載せてある会社は大概、人手が足りないかブラック企業である。そして、すぐに社員として就職することができた。その飲食店は社員が僕1人だけだった。会社の事情がその時はわからなかった。その飲食店のオーナーは他の事業で成功していたので、その飲食店が儲かっても、儲からなくてもどちらでもよかったのかもしれない。オーナーは滅多に店に来る事がなかった。たまにフェラーリやポルシェで会社に訪れて料理の味見をして帰っていった。

その店には常務という役職がついた名ばかりの男がいたオーナーの娘の婿養子みたいだった。身長だけは馬鹿でかかったが声は物凄く小さく何を言ってるかわからなかった。僕は成人して3年が経っていたが、学力がなくても玉の輿や逆玉に乗れば良い給料をもらえるという事を知ったのだった。仕事の時間は長かった、朝の9時から店の閉店時間の夜の22時までだった。引っ越し会社にいる時よりも体力的には楽だったが、そこでも僕はパワハラにあってしまう。アルバイトの女性はその店でボス的な存在だった。僕が見た感じだと体重80kg身長160cmあるかないかぐらいかの巨漢な女だった。歩くのが大変そうだった。僕はその女性に飲食店の指導を受けたのだったが、自分の機嫌でものをいう女だった。僕はその女によく動きが悪いと言われた。よくある話かわからないが学生時代の時や幼少時代にいじめにあった人間は社会に出て立場が逆になるパターンが多いこの時、初めて僕は思った。その女は彼氏はいなかったらしい。他のアルバイトの女性が

僕に彼女がいるかと聞いてきて僕はいないと答えると、そのアルバイトの女性は巨漢の女に「この子彼女いてないけどどう〜」と言い出した。そうするとその女は言った「私、年下興味ないし、稼ぎのない男は興味はないから〜」いつも殺意の芽生える僕であったが殺意は芽生えなく、ただ落胆してしまった。社会に出るとこんな事まで言われるのかと…ボス以外にもう1人小ボス的な女もいたボスが休みの時、僕はその女か指導を受ける事になる。その女もなかなか性格の悪い女で必死に働く僕の姿をみて「社員なのにどうしてそんな事もできないの」が口癖だった。

普通の会社ならアルバイトより社員の方が立場が上なのだがこの飲食店はなぜかアルバイトの方が権力があった。いつのまにかこういう風潮になってしまったのだろう。確かに先に就職した方が立場が上だが、これが社会のルールになってしまっているのが悲しかったし、悔しかった。

常務という男の言う事は絶対だった。常務がやらなければいけない自分の事務作業を僕に押し付けてきのだ。僕は仕事が終わり22時から事務作業を1ヶ月間したがさすがに痺れを切らし、頭がおかしくなりそうなる前に飲食店を退職した。

飲食店を辞めてからまた1ヶ月間ニートみたいな生活をしていた時、友人から電話があり父親が介護の仕事を立ち上げるがらそこで働かないかとの誘いだった。

僕は介護職にすごく抵抗があった。老人の排泄の介助や入浴の介助、そして食事を介助するといった内容は知っていた。とりあえず仕事内容を友人の父親に聞いてみると、「そんな事しなくてもいいよ、利用者の送迎と体操をするだけの仕事だと」僕はその言葉を信じてその介護施設に就職する事になる。

仕事内容は友人の父親が言った通りだった。利用者を家に迎えにいき施設まで連れてくる。そして簡単な体操をする。そして昼に食事を食べて、レクリエーションしておやつを食べる、そしてまた利用者の家に送っていくと単純な仕事内容だった。

そして2年が経つ頃、いつものように家に帰り夕飯を食べ終わったあと弟の携帯に一本の電話があった。その電話の相手は父からだった。なぜ長男である僕にかけてこなかったがわからなかったが、多分父親の中では弟の方が信用していたと思うし、人当たりの悪い僕より話やすかったのだろう。「癌になった」という話だった。そして何分か話をして電話きり弟は僕にその内容伝えた。僕は正直に嬉しかった罰がようやく当たったんだと。普通の家庭なら悲しくて泣くのが普通なのだろうけど、僕の家庭は違った弟も何も言わなかったので内心は嬉しかったのかもしれない。母にもその事を伝えると母も何も言わなかった。

父は手術をしてみないとどれだけ進行しているかわからないと医師に言われたらしく、すぐに手術を受けたが結局は色んな所に転移していてもう手術しても意味がないと医師が判断したので手術はすぐに終わった。

父親は手術が終わると一言だけ言い放った「欲がえらかった」僕も弟もその通りだと思った。父は健康診断は定期的に受けていたが健康診断では癌はみつからなかったみたいだ。

そういえば弟が父が病を患う前に会った時に、しんどそうでタバコが吸えない時もあり冗談混じりに死ぬかもしれないと言っていたいう。その時に精密検査や定期検診を受けていれば助かる余地はあったかもしれない。だが僕と弟や母に関係のない話だった。

父と母が離婚する前、母は健康を気遣った食事を作っていたが離婚して父が1人で暮らすようになってからは碌でもない食生活をしていたのだろう。

それが原因だったかわからないが僕は多分それが原因ではないかと思った。父は酒もよく飲んでいたので肝臓にも負担がかかっていたのだろうと思った。

そのおかげといってはなんだが僕は父を半面教師に健康には気を遣うようになっていた。タバコはもともと吸わないし、酒もたまに飲むだけだ。運動も週に2回程度するようになったし、何より野菜が嫌いだったが何でも食べれるようになった。

父は病気を患ってから自分の体を気遣ったらしい。

タバコ、酒はやめ、とにかく体に良い食べ物を食べていたみたいだった。そんな事しても遅いと思ったが何も僕と弟は父には言わなかった。

僕の仕事の話になるが職場の人達は優しかったが1人だけマウンティングおじさんがいたそのおじさんは僕に自分の価値観をよく押し付けてきた。人の話は聞かないが自分の話は自慢話ばかりだった。その人はデブでハゲでメガネをかけていた。昔はよくモテたと言ってきてよくモテ話して挙げ句の果てには自分の若かった頃の写真を職場まで持ってきてそれを僕に見せつけてきた!僕は渋々カッコいいですねと言ったが心の中ではそのおじさんの神経を疑っていた!そのおじさんは離婚していて僕と同じぐらいの息子がいたそうだ、妻とは馬が合わずに離婚したと言っていて妻は家庭の事は何もしないからと言っていたが、僕はこんなおじさんが旦那なら何もする気が起こらないだろうと会った事もないおじさんの妻の方がよっぽどまとも人なんだろうと思っていた。その職場で3年目をむかえる頃、社長から夏と冬のボーナスは出せないと言ってきた。

その職場は珍しい職場で給料は手渡しだった事が記憶に残っている。その頃になってようやくお金のありがたみがわかってきていたので、ボーナスが出ないので辞めようと思い、社長に退職願いを出したのである。

そうすると社長に別の部屋に呼び出された。そして社長は「お前のような資格もないし仕事のできないような奴を私は仕方なく雇ってあげているのだ、文句があるならば自分で会社を作って人を雇ってみればいいとだから辞めたければいつでも辞めていいのだと、代わりはいくらでもいるのだから」僕は怒りが込み上げたが、会話しても仕方ないしすぐ辞めようと決断した。

それと同じ時期ぐらいに今の妻と知り合った事が記憶にある。友人の紹介だっ。何度か食事に行き、意気投合し付き合う事になった。彼女は旅行やカフェ巡りが好きだった。僕も旅行が好きで趣味がなかったのだが旅行だけは好きだった。付き合ってた頃はよく2人で色んな所に旅行した。そして結婚したいと思った。

そしてある日、弟から1通のメールがきた。

「父が心肺停止」と僕は仕事帰りにスーパー銭湯に行こうとしていたがさすがに弟に止められた。

父の事などどうでもよいと…僕はスーパー銭湯を優先しかけていたがとりあえず服を着替えて父の病院に向かった。父は入退院を繰り返して生活していたみたいだった。自分の病気は治ると思いこんでいたらしく、身の回りの整理は何もしていなかった。父が死んだ時の体重は40kgまで落ちていた。父の顔をみると別人のように変わり果てていた姿だった。殉職だったので多くの人が参列し、なかなか葬式が終わらなかった。なぜか中には高校時代に嫌いだった同級生が参列していたがなぜそいつが父の死を知って葬式に参列した意味もわからなかったし喪主を務めていた僕にねぎらいの言葉をかけてきたが僕はそいつの言葉を無視した。

葬式が終わり父の身の回りの整理をするのが大変だった。弟が父の携帯の解約手続きや雑用をほとんどをしてくれた。兄ながら頭が上がらなかったし、感謝を言うしかなかった。

そして父の退職金は僕と弟が受け取る事になった。

1人あたり900万円程度あった。父が死ぬ程欲しかった金が僕達が受け取る事となったのだ、今思えばかなりの大金だがその時は全然足りないと思っていた。

僕の貯金はその頃1600万円程になっていた。

父の遺品を整理してるいると色んな物が出てきた。海外旅行の写真や浮気相手との写真まで、そういえば父が死んで葬儀の際に一際目立つ女とその子供が泣き喚いてたの思い出した。僕は葬儀中だったので何も言わなかったがもし、葬儀中ではなかったら大声を出して怒鳴りつけたかもしくは我を失い手も出ていたかもしれないと思った。葬儀中でよかった。

父には弟がいた母が嫁に行ったころ僕は父と祖父(父方)祖母(父方)母そして父の弟で暮らしいたようだだった(記憶はないが)母は毎日父の弁当、そして祖父、祖母の食事そして弟の弁当まで作ってあげていたみたいだった。祖父と祖母はの農家を営んでいた。母を駒のように使っていたみたいで、母はたちまち体を壊してしまった。そして、母は実家に帰ることになる。

離婚する前に父は弟に相談を持ちかけたみたいだったが父親に離婚するように勧めていたと知ってまたもや殺してやろうかと思った!母が世話をしてあげていた父の弟は父親に離婚を勧めてる時はどう感じていたのだろうかと…祖母も祖母だった。母が父に裁判をかけられた際に母は祖母に電話して話をしたいと言ったが祖母は母の事を無視して電話を切られたと母が言っていた。

話は変わってしまうが、僕は彼女と、結婚することになったボーナスがでない職場を辞めて有給を2ヶ月消化している際にプロポーズをした。実質無職みたいなものだ。今思えばよく結婚してくれたなあと自問自答することもあった。

有給を消化して僕はすぐに次の仕事を見つけた。またも介護の仕事だった。前の職場を辞める時に事務所で働いてた人にここで働いてみたら言われ、僕はとにかく働かなければならないし、賞与があると聞いてすぐにその介護施設の面接を受けた。その施設は人手が足りなかったらしい。すぐに来てほしいと言われ面接を受けて3日後にその施設で働く事となった。以前の職場は介護の知識が無くても誰でもできる仕事だったがそこの施設は違った。認知症の酷い人もいれば寝たきりの人もいた、僕は割り切った気持ちで働く事を決めていたので、排泄介助や入浴介助、着脱介助を我を捨てて無我夢中でした。ストレスは凄く溜まっていたのだろう。口にヘルペスができていた。僕は鈍感なので妻に言われてはじめてヘルペスができていた事を知った。

その施設での初めての給料をもらって僕は明細を見て驚いてしまった以前の施設より給料が低かったのだ。

思わず笑ってしまった。夜勤ありで手取り14万しかなかった。これでは生活がやっていけないと思ったが賞与をもらったらなんとかなるという一心で頑張った。

職場の人間関係は良かった。たまに飲み会などしたりした思い出は今でも懐かしい。

僕と妻は小さなアパートを借りて住んでいた。家を探す時に家賃が1番安い所を選んだのが悪かったのか、そのアパートは最悪だった僕達はそのアパートの2階に住んでいたのだが1階の住人がとてもつなく変わり者で、僕が家の中を歩くとうるさいと怒鳴り散らかしてきたのだ。住人は50代ぐらいで子供なしの夫婦だった。そのババアの夫はチンピラみたいな夫だった。警察沙汰になった事も何回もあった。警察は何度も家に来てくれたが事件にはなっていないので話を聞く事しかできないと言っていつもその住人との仲介役で話を聞くだけだった。

どうにかすることはできないかと僕はアパートの大家に電話をかけようとしたがそのアパートは仲介会社がありいつもその仲介会社の職員と話をするという事しか出来なかった。暖簾に腕押しだった。

我慢しながらアパートに住んでいた1年が経つ頃に子供が産まれた。可愛い女の子だった。僕は夜勤明けだが関係なくテンションがずっと上がっていた。初めて子供を抱いた時涙が溢れた、妻にも感謝した。母子共に健康だった、そして妻と娘が退院してアパートに戻ってきて子供が夜泣きをするとまた下に住んでいる住人が怒鳴りつけてきた。僕は決意した家を引っ越すしかないと、妻と僕は相談して、家を建てる事に最終的に話がまとまった。しかし僕はローンが組むのが怖かった。初めての借金を抱える事になるので不安で仕方なかった。家が経つのは早かった。1年もかからなかったような気がする。僕と妻は倹約する夫婦だったので、シンプルな家に仕上がった。そしてあの住人から離れる事ができ引っ越した時は嬉しかった。

自分の家でない気がした。一般的な家の値段はわからないが僕達の家は2100万程で500万は土地の購入に使った。そのおかげで毎月の返済が4万円なのでリーズナブルとさえまで思った。

引っ越しをして数ヶ月経つ頃だった…仕事の休憩時間中に母から電話があった祖父が倒れて緊急入院したとの事だった。祖父は悪運だけは強く何度も入院しては退院をするゾンビみたいな人間だったが今度はほんとに生死をさまようようだった。祖父は何日も意識が戻らないまま他界した。僕は父が死んだ時と同様に嬉しかった。家族なのに…でも祖父や父の行動や言動、接し方をみていると子供なら2000%好きにはならないだろう。だから僕もこんな性格になったのだろうと祖父も父も金遣いが荒かった。酒癖も悪くそれもまた嫌だった。祖父の葬儀は家族葬だった。父や祖母の葬儀は盛大に行われたが祖父の葬儀はささやかだった。僕と弟は葬儀さえ開かないでいいとまで思っていた。検体にだしてくれてもいいとまで思ったものだ。それだけ僕と弟は祖父の事が嫌いだった。死んで何年も経つが今だに思い出すと腹がたつ事がある。死んだ人間は美化されるのが普通だが僕の家族は美化などされなかった。祖父が死んでからしばらくすると、今まで雲隠れしていた母の妹が母宛てに1通の手紙を送ってきたのだった。それは裁判にかけるという内容だった。僕と弟はその話を聞いて耳を疑った。なんて馬鹿なやつなんだと、内容は遺産を半分わけろと言う内容だった。普通に考えて遺産は半分なのにどうして裁判をかけてくるか意味もわからなかった。多分まだ金を隠してるだろうと思っていたからなのかは定かではないが1000万円盗んだ人間がよくぬけぬけとそんな馬鹿げた内容の手紙を送ってこれたのだなあとつくづく思った。母の妹も金遣いが荒かったので盗んだ1000万はもう使ってないだろう。馬鹿が金を持ったらろくなことにならないとはこの事だろう。裁判をかけてきても結局結果は同じだし、弁護士に金を払わなければいけない事は猿でもわかるはずだ、どういう神経をしてるんだろう多分裁判が終わればもう、会う事も話す事もないだろうし、事実無言、縁が切れたも同然だ。これからも金に困って泣くことになるだろう。そしてろくな死に方をしないだろう。裁判が終わって呪いにかかって死んでしまえばいいと思った。人間はやはり日頃の行いが大事である。

僕の仕事の話になるが、以前の介護施設を辞めまた新しく家の近くの介護施設に勤めることになる。給料は以前よりもよくなった。求人雑誌に子供を託児所に入れる事が可能と書いてあったので、働きはじめたころ子供が介護施設の託児所を利用したいのでと施設の主任に相談するとちょと待ってくれと言われた。

そして2ヶ月経っても返事がないので施設長に直に話をしたが待ってくれと言われた。話が通じないので、託児所にたまたま知り合いがいたので直接話を通して子供を入れてもらった。数週間後、僕は主任に呼び出され怒られる事になる。なぜ、子供を勝手に入れたのかと僕は唖然とした。こいつは狂っているなと。祖父が死んだ時も、本当に死んだか信じてもらえず、忌引きは1日だけだった。

そして2人目の子供が産まれた時は育休を取得したいと主任に伝えた。

そうすると、そんなのは会社の規則にないし、前例にないと言われた。僕は話にならないと労働基準監督署

に電話し、その内容を伝えた。そうすると労働基準監督署の方から僕の事を会社に連絡してくれた。

次の日、会社に出社すると、主任に呼び出された。

昨日、労働基準監督署から電話がかかってきた。

多分、もし拒否すると会社に罰則があるし、主任にも責任がかかってくると思ったのだろう。僕に平謝りをしてきた。その後、施設長からも呼び出され、今、我が社は労基に目をつけれらている、だから君の方から育児休暇を労働基準監督署に電話した内容は間違いだったと電話してくれないかと言われた。これが世の中の醜い人達だ。そうして育児休暇は取得できた。

他には僕の大好きな職員の話をしよう。職場にシャネルの時計やジミーチュウとかいうブランドものをいきがってつけてきて金持ちアピールする江戸時代のホストみたいな職員がいた。

ある日、そいつは傘が盗まれたと大騒ぎをする。

そして主任まで言いに行ったのだ。まるで小学生ではないか。あれだけブランドものをつけて職場に偉そうに来ていたのに、たかが500円程度の傘で激怒していたのだ。相当大事な傘だったのだろう。

そいつは常にガムを噛みながら仕事している。

気に食わない。そいつはとにかく自分を守るために他人に責任を押し付けるのが得意だ。もちろん他の職員にも嫌われている。どんな心境なのか聞いてみたいものだ。



世の中は金だ、みんな自分の事が好きだし自分を守りたい。良い人は早く死んでしまうし、嫌われる者は長生きする。嫌われ者は世に憚るとはこの事だ。

いかに欲と上手く付き合っていくかが人生を楽しく生きるコツなのかでないのかと思った。


ちなみに母と弟は何千万か知らないがかなりの大金を貯金している事を知って僕は納得した!

嫌われ者は世に憚るが、決していい死に方をしないという事だ。

みんな自分の事が1番好きだし、自分が1番可愛い。

いかに欲と上手く向き合う事が幸せになる秘訣だという事だ。


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