262 ルーフェの異変
挨拶に来てくれたパンディア司祭を見送った私たちは、日常生活へと戻ります。
私はマンドレイクの鉢植えの手入れを始め、キーリはトレントと日課である森のパトロールへと出かけました。
眠っているマンドレイクをあやしながら、先ほどのパンディア司祭の言葉を思い浮かべます。
『もしも全身真っ白な女が現れたら、気をつけるのでございますよ』
パンディア司祭が言っていた白い女というのは、おそらくあのヘカテのこと。
マンドレイクを生んだ、謎の白い人物。
白くて恐ろしくて、なのになぜか安心してしまう自分もいて、そしてなによりも深い闇をまとっていた。
すべての魔物の味方と話していたことも気になる。
それにヘカテとは初対面のはずなのに、初対面な気がしなかった。
──ルーフェに、似ていたからかな。
あと、魔女王とも似ていた。
ヘカテは魔女王と知り合いみたいだし、どういった関係なんだろう。
「オンギャァアアアアア!!!」
「はいはい、蜜が、欲しいん、ですね」
お腹が空いたらしいマンドレイクに、蜜をあげます。
この子、どうやら私の蜜を気に入ってくれたみたい。
マンドレイクなのに蜜を食べるって、この子の体はどうなっているんだろう。
それでも私の蜜を嬉々として欲しがる様子を眺めるのは、悪い気がしません。
だから蜜くらい、好きなだけあげましょうとも。
もっと大きく育つんだよ。
「オンギャァ…………」
突然、マンドレイクが泣き止みました。
お腹がいっぱいになって眠くなったのかな。
そう思った時、どこからか視線を感じます。
「ルーフェ?」
すぐ近くの木の側に人影がありました。
卵が入った籠を持っている白髪の少女が、こちらを見ています。
買い物に行っていた魔女っこが、帰ってきたんだ。
だからいつものように、声をかけた。
「ルーフェ、おかえりなさ……」
────違う。
魔女っこが帰って来たと思った。
いや、最初に見た時はてっきりルーフェのように見えた。
でもよく見たら、何か違う。
背丈は、ルーフェと同じ。
髪も白色。
そこまでは、全部魔女っこと同じ。
でも瞬きをするたびに、私の認識は修正されます。
魔女っこの服装は、目を閉じた瞬間に変わっていました。
服から色がすべて抜け落ちて、真っ白になってしまったように見える。
いつの間にか存在していた周囲の闇が、魔女っこの服の色素をすべて吸収したかのよう。
それに最初はルーフェの顔にしか見えなかったけど、よく見てみるとちょっと違う。
雰囲気は似ているけど、魔女っこはあんなに偉そうで不遜な顔はしない。
極めつきは、肌がピリつくほどのこの威圧感。
ルーフェはこんな恐ろしい気配を発しない。
つまり、この人は──
「もしかして、ヘカテさま…………?」
全身真っ白な少女が、私を見返します。
魔女っことよく似た容貌の彼女は、白い体と反発するような闇のオーラをまとっています。
なんでヘカテさまがここに?
いや、それよりも、近くに来るまでまったく気配に気が付かなかったよ。
「また会ったな、愛い我が子よ」
ヘカテさまの体が、私のほうへと近づいてきます。
足は動かしていない。
地面をスライドするように、ゆっくりとこちらへと浮遊してきます。
「奇遇だなアルラウネよ。こんなにも早く再会するとは思わなかったぞ」
「……私に会いに、来たわけでは、ないのですか?」
「偶然というやつだ。こんなにも余と頻繁に顔を合わせられるなんて、そなたは運が良い」
いつの間にか、空が暗くなっていました。
森が夜に包まれている。
こないだヘカテさまが現れた時と一緒だ。
周囲はすべて闇に包まれ、逆にヘカテさまは唯一の白色としてそこに存在する。
「まさか、まだこの森にいるとは思わなかった。余としては不本意だが、これからは直々に余が動くとしよう」
なんだかよくわからないけど、私はずっとこの森にいますよ。
だって私、植物だからね。
転移はできるようになったけど、結局のところ本体は動けないのだ。
「それよりも、いまそこに、ルーフェが、いたと思った、んですけど……」
「ルーフェ? 余を誰かと見間違えたのかえ?」
「そう、みたいです」
「ふむふむ、なるほどルーフェというのか。覚えておこう」
「…………はあ」
ヘカテさまは、いったい何を言っているんだろう。
この人が魔女っこの名前を覚える必要なんてないはずなのに。
「アルラウネのところに戻るのはもっと先になると思ったが、依り代がまだこの森にいたのだから仕方ない。ゆえにせっかくだ、余が与えたマンドレイクの様子でも見るとしよう」
ヘカテさまは、植木鉢という名のバケツに入ったマンドレイクに視線を向けます。
すやすやと寝ているマンドレイクを見て、満足したようにうなずきます。
「余が申したとおり、仲良くしているようだな。もしもアルラウネが余のマンドレイクを食ってでもいたら、どうしようかと思ったぞ」
「はははは、そ、そんなこと、するわけ、ないじゃないですかー」
あ、危なかったー!
もしもマンドレイクをパクリとしていたら、私ヘカテさまに殺されていたかもしれないよ!
──え?
──殺されていた?
自慢じゃないけど、いまの私はかなり強い。
精霊であるドライアドよりも、そして魔女王よりも強くなったいまの私を倒せる人物は、ほとんどいません。
それこそ、私を殺すことができる可能性を持っているのは、あの炎龍様くらい。
天使であるパンディアさんも私より強いかもしれないけど、炎龍様のように畏怖したことはない。
それなのに、私は目の前の白い少女に対して、殺されていたかもしれないと思った。
つまりヘカテさまのことを、無意識のうちに炎龍様並みの強者だと認識していたということ。
全身がゾワッとした。
植物である私は、鳥肌なんて立たないはずなのに。
「そう身構えずともよい、余はすべての魔物の味方であるのと同時に、すべての魔物を愛しておる。それこそ我が子のように」
ヘカテさまが、私の蔓を握りました。
無数に生えている私の蔓の一本。
そのはずなのに、心臓を鷲掴みされているような圧迫感が蔓から伝わってきます。
それだけでなく、ヘカテさまと肌が触れたという事実に、全身が喜びに支配されている。
「愛い、実に愛いのう。余は強い魔物が好きだが、こんなに力をもったアルラウネはやはり見たことがない」
ヘカテさまにそう言われると、親に褒められた子どものように嬉しくなってしまう。
それが、なぜだかわからなかった。
この人と私は、何の関係もないはずなのに。
そこで私は気が付きます。
さっきまでヘカテさまのことを考えている時は、心の中でヘカテと呼んでいた。
それなのにいざこうして面と向かってしまうと、心の中ですらヘカテさまと敬称を付けずにはいられない。
魔物としての私が、そうさせようと訴えてくる。
いったいどうして……。
「ふむ、アルラウネよ、どうやら邪魔者が来たようだ。だが安心するがいい、そなたのことは余が守るゆえ」
ヘカテさまの雰囲気が、急に変わった。
私の蔓を握るヘカテさまの力が、強くなっている。
いまにも引きちぎられてしまいそうなほどに……。
「せっかく愛いアルラウネとの健やかな時間を過ごしていたというのに、水を差されてしまったな。余は不愉快だ」
ヘカテさまが、視線を上げます。
つられて、私も空を仰ぐ。
「え、パンディアさん……なんでここに!?」
空に、天使の翼を生やしたパンディア司祭が飛んでいました。
てっきり森を出てそのまま王都に出発したと思った。
でも、ここまで戻ってきたんだ。
彼女はこちらを見下ろしながら、怖い顔をしながらこう発します。
「嫌な者の気配を感じたので、戻ってきたのでございますが……」
パンディア司祭の表情から、憎悪のようなものを感じてしまいます。
凍てつくようなその視線は、ヘカテさまへと向けられている。
そこで私は、理解しました。
パンディア司祭が言っていた嫌な者の気配というのは、ヘカテさまのことだったのだと。
「天使がなぜここにいる? 余は不快だ」
「それはこちらの台詞でございます。なんで森にヘカテが…………!」
思った通り、パンディア司祭にとってヘカテさまという存在は地雷ワードだったようです。
私の口からヘカテとの関係性を話していたら、どうなっていたかわからない。
それほどの感情を、パンディア司祭から感じました。
「ワタクシの友人に何をするつもりなのか存じませんが、千載一遇のチャンスでございます。ここであなたを抹殺させていただくのでございます」
パンディアさんの体から、光のオーラが溢れ出しました。
すごい殺気…………!
二人がどういう関係なのか、私は知りません。
でも、これだけはわかります。
もしも私の口からヘカテさまの名前を出したら、敵として認識されていたかもしれない。
それほどの気迫を、パンディア司祭から感じてしまいました。
パンディア司祭にヘカテさまのことを言わなかったのは、正解だった。
そう私は、確信しました。
でも、問題はこのあと。
一触即発の危険な雰囲気が、森を震わせる。
どうやら出会ってはならなかった二人が、私の森で出会ってしまったようです。
次回、天使と〇〇です。